人情がわかる人
人情がわかる人と、そうでない人とがいる。二分法でというわけではなく、程度問題としてである。
ここで、「人情がわかる」とは、他者の感じ方や考え方に対して繊細な理解があって、優しく親切で礼儀正しいというようなことである。
人情がわかる人に価値があるという考え方がある。人情がわかる人に価値があるという考え方は、どちらかと言えば古くて、失われつつある考え方だと思う。人情がわかるというのは、目と目が合って、その目を通して多くの相互理解が行われるような、自然言語を超越した情報の通信という面が強い。現代的な人間性は、例えばSNSのツイッターで表面的に表れるような、言語的で理性的な、自尊心を中心にした何かだろうと思う。
子供を産んで育て上げることは、女性の人間性を飛躍的に成長させる。子供を産み育てる機会を持たなかった女性や、子供を産み育てる以外の道の価値や尊厳を大切に思う女性にとって、これは失礼な考え方かもしれないが、しかし普遍的な法則としてではなく、一般的な傾向としては、それは非常にあると思う。子供はとてもわがままで、自分とは異なる価値観を明らかに持っているし、言語的なコミュニケーションで屈服させられるものではない。また、社会の手助けに依存してこそ子育ては可能である。だから、子供を育て上げた女性は、自己中心的ではない包容力を備えるし、社会の無数の他者との相互扶助の価値を知って、礼儀も備える。身近な家族や友人に対してすら自己中心的で、利益をもたらさないだろう他人と思えば無礼に振る舞う、そんな人格から成長する。つまり、懐が深くて面倒見のいい性格になる。
この、「懐が深くて面倒見がいい」という性質も、「人情がわかる」という表現の意味に加えたい。
つまり、子供を育て上げるような構造の経験を繰り返し経ることで、「人情がわかる」能力は、果てしなく成長していくことだろう。例えばの話だが、地球の誕生から人類の文明の発展までを育て上げたならば、超人的に完成した深い人情へと至るだろう。
子供を産んで育て上げることは、個人的で、小さな家族に閉じた体験である。
それをスケールして、つまり構造を保ったまま規模を動かして考えてみることもできる。
例えば軍隊において、部隊の指揮官となり、入隊した若者をほとんどゼロから教育して、優秀な専門的能力を備えた戦士達へと育て上げ、戦地で活躍させながらも、その多くを戦場で失う体験をしたならば、どうだろうか? それは例えば人数について規模が家族よりも大きいから、言わば「母親」以上に母親的な体験をするのだと考えられる。
同様に、企業の上司や経営者も、国家を運営する官僚や政治家も、もしも部下や市民の幸福に腹の底から誠実ならば、家族という規模以上に、母親的な体験をすることになる。まあ、こういった発想は、家父長制国家主義や家族国家主義と言われ、日本で言えば明確に第二次世界大戦以前の思想だとも言えて、だから、「人情がわかる人」にまつわる価値観は過去的なのではある。
私は、自分は、「人情がわかる人」だと思う。
私は、「人情がわかる」という発想でそれを捉えたことはないが、「人情がわかる」ことを重視する人々と、思っているところはほとんど等しいと思う。
「人情がわかる」人々は、「人情がわかる」ことの価値をとても重視していると思う。人情がわかる人ほど、そこにこそ価値を見ている。私も、見ている。
なぜ私が、人情がわかる人になったかというと、一つ、思い当たることがある。私は、アスペルガーの両親のもとに生まれ、夫婦喧嘩をつづける両親を常に仲裁し調停して育った。アスペルガーは言わば、一生に渡って子供のように自己中心的であるから、幼い脳にとってその体験は、母親にとっての子育てによく似て、しかし戦場のような過酷さとともに訓練として機能した。だから私にとって、他者の感性や思考は非常に他者的で、私は自分についてまで相対主義者や客観主義者であって、私は他者の動作に感情で即応することはなく、それぞれの限界を許して最善のバランスに調整しようと発想する。私は、幼い頃から、思いやりがあり他人はもちろん動植物にも優しくて、倫理をとても重視した考え方をするし、困っている人を見かければ労力を惜しむことなく面倒見よく振る舞ってきた。
明らかに自画自賛だが、事実だ。といって、言うほど自画自賛でもない。なぜならその意味でのモラルは現代ではとうに価値ではなくなっているし、そのために私は惨憺たる苦しみに満ちた人生を送ってきたからである。学校の成績がいいとか、仕事でもらっている給料が多いとかが、現代的な自慢であり、自画自賛たりうる属性なのだ。「人情がわかる」なんていう概念はもう社会にないから、「私は人情がわかる」なんて自己宣伝は成り立たない。
世間には、素晴らしい人が数限りなく存在している。
ただしここで言う「素晴らしい」とは、「人情がわかる」とほぼ同じ意味で言う。
高齢な女性にそれは多く偏って分布しているかもしれないと感じる。
彼らは、人情がわかる人々の優しさによって、人間の社会の幸福は全体として支えられていると思っている。
私もそう思う。
「人情がわかる」人は、世間にいる。しかし普通、十分に報われているようにはまったく見えない。
特に、若い時代の待遇や進路は人生の幸福を左右するが、善良な心根を持つ一部の若者や若者全体の性質は、あまりにも過小評価されているように見える。優しく、モラルも備えた若者が悪質な企業に就職して虐げられ、精神を壊されて自殺だなんて、そこらじゅうにありふれている。そして誰もがそれに満足してる。近代という社会思想の価値観に、基本的には満足してるという意味でである。
だから私は昔、近代民主主義思想によって、人類は幸福よりも自尊心を購入したのだと思った。その意味で私にとって、人類の歴史は何百年も前に終わっている。
ともあれ、「人情がわかる」性質について、社会的な価値が低く見積もられている現代の社会は、私にはどうしても、違和感を感じさせる。
世間には、素晴らしい人が数限りなく存在している。
ただし、割合は多くはないから、自分の人生で出会えるとしても少数である。
そんな人々と会うとき、私は心からの喜びや幸せを感じている。
それが、私に内蔵された幸福観であり、だから私に定義された価値観でもある。
深く感謝できる人に会ったとき、そして、警戒せず愛せる人にあったとき、私は自分が生きていると感じる。
人情がわかる人々と礼儀正しく応じ合うとき、私は互いを人間だと感じることができる。
しかし、他者が与えてくれる喜びには限界がある。
どんな他者でも、自分にとっては不完全だ。
自分の思いや振る舞いを正しく理解してもらえないと感じたり、誤解によって距離が生まれたと感じることもある。
だから大切なのは、自分自身が自分自身にとって正しい道を歩むことだ。
つまり信じる義によって万人に応じろと。
世間のほとんどの人々は、さほど素晴らしい人ではないと言ってみることはできる。
つまり、「人情がわかる人」ではない。
そんな場にあって、自分にとっては人間のあるべき基礎的な水準の礼節で接しても、損ばかり多く得られるものとて多くない。だからもちろん、限りなくナイーブであるべきではないだろう。
しかし、そんな社会的な態度を実は見ている人も少なくないから、利己的な幸福につながる形で花開くことも少なくはないだろう。
清く正しく振る舞わずして、例えばどうやって、生涯愛し合える異性に見つけてもらうことができようか。
だから、自分の生き方は自分自身で定義していかなければならない。
人を大切にすること。どんな立場の人の尊厳も尊重して、偏狭な先入観によって軽んじることをしないこと。
挨拶をすること。頭を下げること。名前を覚えること。名前で呼ぶこと。それらをあえて避ける種類のイジメを行わないこと。
目を見ること。目を合わせること。相手よりも長く見ること。
自然で朗らかな笑顔を向けて応じること。相手の言葉や思うところをまずは受け止めること。
肯定すること。相手の可能性を明確な論拠なく過小評価しないこと。夢を聞けば成功すると言い放つこと。素晴らしい特別な人間のようにどの人も扱うこと。
常に誠実であること。常に真心から動作すること。
「人情がわかる人」として生きた先人の列に加わること。その列に生きてその列に倒れること。
現世は地獄だ。少なくとも私にはそう見える。
生まれによってあまりにも人生は左右される。なのにどんな安寧すらやはり不運の前には盤石ではない。
どんなに才能に満ちた善良な性格の子供が一生懸命に努力しつづけても生まれが悪ければ人生は苦しみしかなく終わってしまう。どんな名家に生まれて栄光とともに育ったとしても、病気や事故に遭えば自分や家族の人生は終わってしまう。
そして進路は若いうちに分岐し、労働者として資本主義社会に組み込まれる。ゆえに、立場の低い者ほど利己主義や冷淡に真理を見いだして収束して、脳はモラルなき定数として凝り固まる。もっと善良に生きたならばもっと素晴らしい人生があったよ、なんて言うことはできない。そして、モラルを欠いた人格は、悪しき権力に虐げられた恨みを、善良な弱者に振り撒くことで自尊心を慰撫する。限られた知能ゆえに、苦しみの無限ループ。
だから倫理主義は、万人を救うものではない。全体最適解でありえても、しばしば局所最適解ではない。ただしそれはたいてい、ひどく現実離れして利己的にゆがんで認知されている。
昔、書かれたお話はいい感じがする。親切な人情への感動を主題にしているからね。
つまり、「人情がわかる人」が価値だと繰り返し訴えかける。
でも、物語の主題は次第に変遷していったようだ。脚本の主題はほとんど小細工じみてきた。
昔の物語は、金持ちに生まれた人々が、主観で書いていたんじゃないかな。ヒマだから世のためなんて考える。
だから、市民が主権を得た時代には、義という主題は排斥された。自尊心を喜ばせることとと、物質的な力や価値や尊厳とが幸福観になってしまった。
目と目さえ合えば、人は無限大の情報量を交換できる。
なのに電子化の時代に、価値は言葉でこそ定義されて、人も世界も変わってしまった。
変わらない、変われないのは、自分自身。
目と心こそ価値だと、人間だけが言い続ける。