第五話6 伸ばした手の先に
――怖い。
脚が震えている。心臓が握り締められたように縮み、体中の熱が逃げ出したかのように血の冷たさを感じる。
「中級魔法を唱えておく。そこからは初級魔法を三秒に一回、それが限度だ」
「分かりました」
エレナの言葉に答えながら、レンは自分の声が震えていることを自覚した。
レンがやることは、ただ一つ。
自分の手に握られた安全装置を、ネルの元に届ける。――走って。
届ける物は小さい。本来なら、投げて渡したっていいような物だ。だが、動き回るネルに渡すには、直接手で渡すしかなかった。付け加えて言うなら、レンの不器用さでは間違いなく明後日の方向に飛んでいく。明後日くらいならまだマシで、下手すれば来年くらいまで飛ばす自信がレンにはあった。
だから、行くしかない。しかし、それはどうしようもなく怖ろしいことだった。
行く先で待ち受けているのは、本来レンなどが足を踏み入れることのできない領域。毒と糸と魔法が乱れ飛ぶ、猛烈な暴力の嵐だ。
「……大丈夫か?」
レンの様子を見て、エレナが気遣わしげに問う。正直に言うなら、全く大丈夫ではない。
幾度かのクエストを経て、レンも荒事にも慣れてきてはいる。だが、その程度であの暴威には太刀打ちできない。のこのこ近付いていけば、あっという間にレンはその餌食になるだろう。
「……はい」
だが、やるしかない。
レンは震える声を誤魔化すように、短く強く言い切る。
今この事態をどうにかできるのは、レンとエレナのみ。そして二人の特性を考えれば、レンが突撃、エレナが支援に徹するのが当然の布陣だ。
それに――
「――任されましたから」
今、暴力の嵐の間近で、力尽きているエドモンド。
彼がそれを託したのは、他の誰でもなく、レンなのだから。
レンの覚悟を受け取ったエレナは、ふっと微笑むと杖を構えた。
「よし。詠唱が終わったら、いつでもいいぞ。タイミングは任せる」
「はい!」
そして最後にそう交わし、エレナは詠唱に、レンは走り出す準備に入る。
「大気に宿りし氷の精霊よ――」
レンは目を凝らし、ネルとディルマンチュラの動きを食い入るように見つめた。
エレナの詠唱が、最後の一節を残すのみとなる。
レンは息を止め、戦場の動きを読み、その先を見切った。そして――
(今!)
「うおおおおっ!」
雄叫びを上げながら、地を蹴って前へと走り出す。
ネルはこちらに興味を示さず、ディルマンチュラもそれどころではないのか、レンに何か仕掛けてくる様子はない。
しかし、流れ弾はその限りではない。激しい戦いは周囲に猛威を撒き散らしている。
早速レンに向かって、吹き飛ばされた毒やら糸やらが飛んできた。
――行ける。
レンは恐怖を乗り越えて、戦場へ向かって脚を動かす。飛んできた毒を身を屈めてくぐり抜け、散らばった糸を飛び越えて回避する。
その先に見えてきたのは、色濃く毒が残るエリアだ。
「エレナさん!」
「『アイシクル・ストーム』!」
レンの求めに応じ、エレナが魔法を解き放った。
氷属性の中級魔法は、足元の毒を凍て付かせた。レンは氷を荒々しく踏み砕きながら、戦場の只中に飛び込む。
毒と、糸と、杖と、脚。入り乱れる死の脅威を、とにかく見る。
上から飛んできた糸を、右に跳躍して躱す。着地と同時に氷を踏み砕いて滑るのを防ぐと、続いて前に跳躍。正面から押し寄せる毒の波を飛び越える。
(ヤバい――!)
その先、真上から降ってきたのは毒の雨だった。ネルの『エア・バッファ』に吹き飛ばされた毒が、重力に従って落下してきている。とても避けきれるものではない。
「『ブリザード』!」
しかし間一髪、エレナの初級魔法が、毒の雨を氷の礫へと変化させた。
ぶつかって多少痛くはあるが、毒を頭から被るのに比べればどうということはない。
そのまま駆け抜けるレンは、ディルマンチュラまであと五歩という距離まで来た。
ネルは相変わらず跳び回っているから、ここから彼女を捕まえなくてはならない。
しかも、近付いたぶんだけ暴力の密度は上がっている。レンは全神経を集中し、ネルとディルマンチュラの挙動を見定める。
あと四歩。糸を躱して左へ。
あと三歩。毒を飛び越えて。
あと二歩。緊急停止。レンの目の前を、ディルマンチュラの刃のような脚が通り過ぎていった。
あと一歩。ネルはレンの真上。しかし、これでは届かない。
「ミャオ」
そこで、ネルが光魔法を炸裂させた。
流石に学習したレンは、今度は目を塞いでやり過ごす。
だがそれは同時に、レンが外界の情報を取り入れられなくなったことを示しており――
「『フレイムシュート』!」
目の前まで来ていた蜘蛛の糸を、飛来した炎が焼き尽くした。
正に間一髪な上に、これでまた三秒間は魔法の援護なしだ。
しかし、ようやくレンは辿り着いた。
視線を送った先、ネルがレンから三歩ほどの距離に着地していた。
(今しか、ない――!)
一歩踏み出す。
ネルは跳躍の構えを取る。
もう一歩を踏み出す。
その時、ディルマンチュラの脚が視界の端から飛んできた。辛うじて躱したレンを通り過ぎ、ネルの元へ脚が迫る。
ネルはその脚を睨みつけて、跳躍から打撃へと姿勢を変える。
そして、最後の一歩。
レンは右手を突き出しながら、ネルに向かって飛びつく。
この手が届けば。届きさえすれば。腕を限界まで伸ばし、ネルを見つめるレンの目の前で――
「ミャオン」
ネルが、ディルマンチュラの脚を叩き折った。
打撃の勢いのままに吹き飛ばされた脚は――
「レン!」
「ぐうぅぅぁぁっ!」
盛大に体液を、致死の毒をぶち撒けた。
レンはまともにそれを浴び、口から悲痛な叫びを吐き出す。
あまりの痛みに全身から力が失われ、彼はその場に倒れ伏した。
(――くそ)
ディルマンチュラは、ネルから逃げるように後ろへ遠ざかった。その間、暴力の嵐は鳴り止んでいる。
しかし、レンの意識もまた、この場から遠ざかろうとしていた。薄れ行く意識の中、レンは自分の右手を見つめた。
(あと、ほんの少し――)
ほんの、僅かな距離。
たった一押しでもあれば、届いたであろう距離で、
(届かなかった……)
力の失われた右手から、それが転がり落ちた。
レンの胸中を、痛みと絶望が支配する。
毒による、体を焼かれるような傷み。託されたものを届けられなかったという、激しい後悔と自責。
そして、ここで自分は死ぬんだという絶望。
明滅する視界の中で、しかしレンは見た。
――転がり落ちたそれを、小さな手が拾い上げたのを。
「……ふう。まったく――後で全員、お説教ですにゃ」
少しの沈黙と、ごそごそと何かを探る音。
そして――
「『クリア・ポイズン』!」
続いて響いた声に溶かされるように、全身から痛みが引いた。
それだけではない。辺り一帯を覆いつくしていた毒が、その一声で消え去っていた。
「『ヒール』」
更に唱えられた呪文によって、レンの傷は癒え、視界が鮮明さを取り戻す。
帰ってきた力に頼って体を起こせば、跪くレンの目の前、そこにご機嫌斜めな顔があった。
しかし、その虹彩は緑色。真ん丸な瞳は、そんな表情でも愛らしかった。
「――ネルさん」
手に持った小さな球体――『マタ・タビ』を弄ぶネルは、その目に理知的な光を宿してた。
(――ああ、なんとか……)
レンの伸ばした手は、ネルに届いていたようだ。
前回エドモンドが使用したのよりかなり小さい『マタ・タビ』は、ギリギリのところでその匂いをネルに届かせていたのだ。
安全装置によって理性を取り戻したネルは、ため息を一つ落とす。
そして手を伸ばすと、力強くレンを引っ張り上げた。
「じゃあ、さっさと片付けちゃうのです」
そしてネルは、ディルマンチュラの様子を見て、冷静に告げる。
「――これならもう、負けませんにゃ」
窮地に追い込まれたディルマンチュラ戦。その終わりを宣言するように。




