第五話5 引き金と安全装置
瞬間、レンは身が竦んだ。
黄色く光る虹彩、縦長に細まる瞳孔。牙を剥き出し毛を逆立て、唸るような声を上げるネル。
その姿は少し前、レンの肉体と精神に大ダメージを与えたそれを思い出させる。いや、間違いなくその時以上。
(これ……俺、死んだのでは)
どう見ても怒り心頭のネルに、分別とかそういうものがあるとは思えない。
『フルネームを呼べ。彼女はそれを嫌っていてな。それが引き金になる』
というのがエドモンドの言葉だったが、それってどう考えても、言った人間が一番乗りで殺されるヤツではなかろうか。
ギョロリとネルの眼が動き、レンは完全に固まった。「蛇に睨まれた蛙」なんて言うが、ドラゴンに睨まれたミドリムシくらいの気分だ。今風に言うとユーグレナ。取り繕ってもミドリムシはミドリムシだが。
しかし、そんなレンの心配は杞憂だった。
どう、と音がしたかと思えば、一瞬にしてネルの姿が掻き消える。
次の瞬間には、ディルマンチュラの目前に、杖を振りかぶるネルが居た。
「はや……」
しかし、ディルマンチュラも一筋縄では行かない。エドモンドに振り下ろそうとしていた脚を引き戻し、ネルの殴打を受け止めていた。
「おら、こっちがお留守だぜ!」
しかし、ネルに脚を使ったということは、他に隙が出来るということである。
吠えるバルトが斧で斬り付け、ディルマンチュラのもう一本の前脚を相手取る。
更に、
「ミャオ」
一声上げたネルが、杖を持っていない左手で何か小さな玉を投げていた。
次の瞬間、その玉から閃光が迸る。目がぁぁぁぁ。
何も知らずにまともに直視したのは、阿呆なレンとディルマンチュラ。対して、他の三人は顔を隠して無事だったようだ。知っているなら教えておいてほしいものである。
というかネルさん、当たり前のように言語能力を失っていらっしゃる。
ネルは更に空中で杖を一振り、脚のガードを叩き落として地面に降り立つ。
その隙に、糸を錬金術で片付けたエドモンドも攻勢に加わり、戦況は一気にひっくり返った。
蜘蛛の脚が八本あるとは言え、その半分には体重を支える役目がある。バランスを考えると、実際には後ろ脚四本、前脚一本が最低ラインだ。特に、前脚を素早く振り回すためには。
三人がそれぞれ、一人につき脚一本を相手取れば、実質一対一と同等になる。
しかも、ネルはバルトと同等の動きをしている。エドモンドは前衛専門ではないため後手後手の戦いだが、二人は徐々に脚を押し返している。
「『エクスプロード・フレイム』!」
そこに、エレナの魔法による牽制と、
「ミャオ」
ネルの触媒魔法による目眩まし。
一気に増えた手数によって、ディルマンチュラは最早防戦一方だった。
加えて、もう一つレンが気が付く。
「……! 皆さん! 魔法を吸収して吐き出した後!」
言葉足らずだが、それで伝わったらしい。
「『フレイムシュート』!」
エレナが魔法を放ち、三人が――ネルは聞こえているのか、本能なのか――タイミングを計る。
エレナの魔法が届き、ディルマンチュラは脚でそれを吸収する。
一瞬の後に魔力が蜘蛛の中を駆け、口を通って吐き出された。
「今!」
炎を向けられたエドモンドは、その場で回避に専念する。
その隙にバルトとネルが、その身を躍らせた。レンが声を上げたのと、全く同じタイミングだった。
そして、固い木材をへし折るような音が二発響く。
「やった……!」
遂に、突破口は切り拓かれた。
バルトの斧とネルの杖が、それぞれ蜘蛛の脚を半ばで折り取ったのだ。
ディルマンチュラは、魔法を吸収して吐き出す瞬間、体の動きを止める。思い返せば、最初の特大魔法を返してきたときも、何故か動かずに固まっていた。
おそらく、吸収した魔力が多い程、反撃後の硬直時間が長くなる。そしてこの局面においては、僅かな硬直も致命的だったと言う訳だ。
「ギィッ!」
どこから出しているか分からない、奇妙で不快な鳴き声を出しながら、ディルマンチュラは残った脚で飛び退いた。
飛び退くということは、身の危険を感じているということだ。
「逃がすか!」
ネルもバルトもエドモンドも、すかさず追撃を掛ける。ゴーレムのように再生能力が無いとも言い切れない。間違いなく、攻めるなら今しかなかった。
「ギッ」
しかし、誰もが忘れていた。
――手負いの獣ほど、恐ろしい相手は居ないと。獣でなく虫だとかは、些細な問題だ。
要は、
「なっ――」
敵を追い詰めた時ほど、油断してはならないのだ。
反撃は、思いも寄らぬ形だった。
ぽっきり折れたディルマンチュラの脚。その先端から、大蜘蛛の反撃の狼煙が噴き出していた。
――緑色のどろりとした体液が、尋常でない勢いで。
「が――」
避ける間もなく、バルトとエドモンドがそれをまともに浴びる。
ごぽごぽと泡立つそれは、むせ返るような臭気を放ち、じゅうじゅうと蒸気を上げている。
「がああああぁっ!」
バルトとエドモンドが、苦痛の叫びを上げる。
見ただけで、レンにも正体が分かった。むしろ、何故それを考えなかったのかと数分前の自分を叱りたかった。
毒。蜘蛛には定番すぎる攻撃アイテムだ。
最初は脚から、続いて逃げ場を塞ぐように口から。
大量の毒液を撒き散らすディルマンチュラは、下衆な笑いを浮かべているように体を小刻みに揺すった。
「バルトさん! エドさん!」
「あれはマズい……! ネル、すぐに解毒を! ネル!」
まともに食らった二人は、痛みの余りまともに動けない様子だった。のたうち回るのに精一杯で、しかも辺り一面毒の海だ。藻掻けば藻掻くほど、激痛に苛まれる。
しかし、まともに食らわなかったネルは――このパーティー唯一の回復役は。
「ブー!」
愉快そうに踊り、尚も大蜘蛛に殴りかかる。
彼女は謎の掛け声と共に、『エア・バッファ』を使っていた。それで毒を吹き飛ばして回避した訳だが、それをバルトたちに向けてやる様子はない。
何故ここへ来て豚の鳴き声なのか、などとツッコんでいる余裕は誰にもない。
「レン、団扇で毒を吹き飛ばせないか?」
「無理です、そんなコントロールできません。バルトさんたちごと吹き飛ばしてしまいます……! エレナさんは、魔法でアイツを仕留められませんか?」
「無理だ、それこそ全員吹き飛ばすことになる」
「ですよね……」
焦るエレナとレンを他所に、ネルは尚も暴れ続ける。今の彼女は回復役などではなく、狂戦士と呼ぶに相応しかった。とても始末に負えない。
その間に、手負いのディルマンチュラは更に脚を一本吹き飛ばされる。
このまま行けば、ネル一人で勝ててしまいそうだ。しかし――
「このままじゃ、バルトたちが死ぬ……!」
エレナの言う通りだ。それにネルだって、とてもまともな状態じゃない。いつ反撃を受けて倒れたって、全く不思議ではないのだ。
確実に勝つためには、なんとかバルトとエドモンドを助ける必要がある。
そのためには――
「……エレナさん」
レンは一つ深呼吸をすると、意を決して声を上げた。目線で問い返すエレナに、静かに答える。
「今から、ちょっと無茶をします。援護をお願いできますか」
「……何をするつもりだ?」
険しい顔をするエレナに、レンは拳を差し出す。
その手を開いて中身を見せると、エレナは驚いたように目を見開いた。
「それは……まさか」
「エドモンドさんに、託されていたんです。もしもの時のために」
彼に託されたのは、二つ。
一つは、ネルを戦わせる引き金。もう一つは――
「引き金を引いたのは俺です。止めるのも、俺の役目です」
暴れ狂うネルを止める、安全装置だ。
レンは、小さく柔らかいそれを、再び大事に握りしめた。
「……それで、どうする?」
その手を見つめるエレナに、レンは作戦を伝えた。
と言っても、作戦と呼べるほど大層なものではない。ただ単に、自分にできることを、一生懸命やるだけだ。
「……君は、馬鹿なのか?」
話が終わると、エレナはそう言った。
「はい、そうですね」
元々レンだって脳筋派だ。知略を巡らせて戦うなんてガラではないし、できることもほとんど無い。
だが、だからと言って黙って見ているという選択もあり得なかった。
「はぁ……全く仕方ないな。分かった、付き合おう」
やがてエレナはため息を一つ零すと、そう言って困ったように笑った。
「ありがとうございます」
レンが頭を下げると、「やめてくれ」と言って、
「私も人のことは言えないからな。他に妙案が思い付く訳でもなし。だから、全力でやるさ」
杖を構えるエレナと目を合わせ、二人で頷き合う。そして――
「それじゃあ……」
「ああ。暴れ姫の目を、覚まさせてやるとしよう」
エレナがロマンチックとバイオレンスの合いの子みたいな台詞を吐いて、二人で不敵に笑った。




