第一話1 阿波蓮太郎(☆☆☆)という男
彼は、困惑していた。
眩む視界、酷い耳鳴り、ぼんやりとした意識。端的に言えば、前後不覚。世界を正常に認識できない状況に突然追いやられ、混乱するのは当然と言えた。
(一体何が……)
徐々に取り戻されていく感覚の中で、彼は自分が今、片膝をついてうずくまっているのだと気が付く。ゆっくりと目を開くと、自分の身体がちゃんと存在しているのを視認できた。
確かめるようにゆっくり立ち上がる彼の姿は、筋骨隆々、顔には傷跡、目つきは鋭い。正しく『歴戦の猛者』という風体の彼はしかし、着衣のみがフォーマルでアンバランスだ。
おもむろに立ち上がったその身を包むのは、真っ白な半袖のワイシャツに、黒いスラックス。
革靴の足を一歩踏み出してみればカツンと硬質な音が鳴り、視線を向けると真っ黒でつるりとした石が見える。
自分は何やら円形の石の上に居るらしい、と認識したところで――上げた視線の先、興奮気味にこちらを見つめる赤髪の美女と目が合った。
(び、美人だ……)
こんな状況にも関わらず、つい見惚れてしまうほど整った顔立ち。真っ白な肌には上気したように朱が差していて、矢鱈と艶っぽい。
「あの……」
状況とその美貌に戸惑いながら、しかし他にどうする術もなく、美女に声を掛けた彼だが――
「あれ? でも、テラリアからの召喚だよねこれ!? え、戦闘力……たったの5!? ゴミじゃない!」
その低く小さい声に彼女は全く気付かず、突如何やら喚きだした。いきなりの大声に彼はびくりと身を震わせ、心臓が大きく跳ねるのを感じる。
忙しない鼓動を胸に感じながら薄闇に目を凝らすと、彼女は手に羊皮紙を持っていて、それを確認しての発言のようだ。
なんだか、酷いことを言われた気がしないでもない。だが、彼はそこに怒りを覚えるほど心が狭くはなかったし、そんなことを考える余裕も無かった。
「阿波蓮太郎……テラリアだから魔力は当然0……知力……体力……うわ、微妙……あ、筋力だけはそこそこね。でも、制動力1!? よく生きてるわね……うーん。全体的にパッとしないし、星は当然の如く3か」
(どうして名前を……それに、何を言って……?)
「っていうか……年齢15!? この見た目で!?」
「よく言われます」
ぶつぶつと不可解な事を呟き続ける彼女だが、最後に上げた驚きの声だけは彼にとって聞き慣れた言葉だった。故に彼は、反射的に返事をする。
「あの……」
「う、」
「?」
「うわあああん! 折角のテラリアガチャが! 星5とまでは言わなくても、せめて4は行くでしょ4は! 大神石何個使ったと思ってんのよ、きーっ!」
めげずにもう一度声を上げた彼だったが、それはまたも突如大声で喚き散らす彼女に届かなかった。
(リ、リアルに『きーっ』とか言う人、居るんだな……)
そのまま喚き続ける美女に気圧されつつ、彼はそんな感想を抱いた。しかしそう考えて、この状況のどの辺がリアルなんだ、と自問する。
いつの間にか見知らぬ場所に居て、目の前には見知らぬ人物。そしてどうやら素性を知られている。恐怖以外の何物でもない。
男がそんなことを考えている間も、彼女は「クソゼウス」だの「ぼったくり」だの「石返せハゲ」だの、美しい容姿を台無しにする罵詈雑言を吐き続けていた。
しばらくその調子で怒りや不満を出し尽くした後――男の体感でおよそ10分ほどかかった――、ようやく落ち着いた、というか落ち込んだ様子で、彼女は男を再び見据えた。
「はあ、出ちゃったものはしょうがない……星3とは言えテラリアの民だし、使うだけ使ってみるか……。ガブちゃーん」
「はい」
彼女は騒いでいる間にしわくちゃになった羊皮紙をぞんざいに転がし、力ない声で誰かを呼ばわる。
すぐに答える声がして目を向けると、そこには金髪の男がかしこまって立っていた。
「じゃ、いつも通りよろしくぅ……」
「かしこまりました」
手を上げておざなりな言葉を残し、彼女はとぼとぼと部屋を出て行ってしまった。去り際にもぶつぶつと文句を言いながら、だが。
そして残されたのは、黒髪と金髪の二人の男。
「ふう、やれやれ……ええっと、君……阿波蓮太郎くんというのか。こっちに来なさい」
「……」
女神がうっちゃった羊皮紙を拾い上げて読みながら、空いた手でちょいちょいと手招きをする金髪の男。
黒髪の男は、訳が分からないながらも無言で頷きそれに従う。他にどうしようもないし、先ほどの女性よりは話が通じそうだ。
羊皮紙と黒髪の男をまじまじと見比べた金髪の男は――
「……本当に15歳?」
「よく言われます」
改めて怪訝な顔でそう訊ね、黒髪の男――阿波蓮太郎は、やっぱり反射でそう答えた。
**************
阿波蓮太郎は、どこにでも居る普通の男子高校生だ。
ちょっとガタイが良くて、ちょっと顔が怖くて、ちょっと無口なことを除けば、全く普通の男子高校生。それも一年生だ。
ガタイが良いのは親譲り。上背は気が付いたら、そして横幅は父親の日課の筋トレに付き合っていたら、いつの間にかこうなっていた。
顔にある傷跡は、見た目に違わず激しく生えてくる髭との毎朝の格闘の結果である。付け加えれば、彼は超不器用だからもう仕方がない。
極度の恥ずかしがり屋で、自分から喋ることは少ない。そして彼の見た目で黙っていると不機嫌にしか見えず、敬遠されて友達は少ない。友達が少なければ口を開く機会はさらに減り、無口と孤独のデフレスパイラルである。
そんなどこにでも居る普通の彼は、突然どこだか分からない場所に居た。
きっかけも何もあったものじゃなく、通学路を歩いていたはずがいきなり先述の通りの状況に放り込まれたのである。
この状況をどう説明するのか。それは、目の前に居る金髪の男が知っているようだった。
最初に目にした赤髪美女も知っていたのだろうけど、彼女は嵐のように目の前から去っていった。
果たして、金髪の男は告げた。
「突然のことで混乱しているだろう。今の状況を一言で言えば――君は、異世界召喚されたのさ」
(……はい?)
余りにも突飛な言葉に、却って何も反応ができなかった。
異世界召喚。自分が居たのと別の世界に突然呼び出され、戦う使命を与えられたりするというあれ。
蓮太郎も、それを題材にした創作物を見たことはある。だが、実際自分がそれに巻き込まれることなど、考えたこともなかった。
(それにしたって唐突過ぎる……もっとこう、前触れとかがあるものでは……)
例えば、突如魔方陣に呑み込まれる。あるいは見たことのない扉を開ける。現実世界で死を迎え、転生するというパターンもある。
だかしかし、そのどれも彼は経験していない。至って普通に、通学路を歩いていただけである。
意識が飛ぶ直前に見た景色すら思い出せる。いつもの通学路、同じ制服の高校生たち、旗を振る緑のおばさん。都心を離れた住宅地の街並みはいつもと変わらず平凡で、空は雲が浮かんでいるものの晴れていた。
それらが突然、本当に突然、真っ暗になって消えたのだ。
それは自分が意識を失ったからなのだろうが、その時間は体感で一瞬。すぐに目を開けたら、そのときには既にここに居たのだ。
「異世界召喚……」
改めて、その言葉を口にしてみる。そうしてみてもやはり、現実感は欠片も湧いてこなかった。
ただ状況を見る限り――逆にその言葉以外、この状況を説明してくれるものは無さそうなのである。
誘拐の類であれば、直前に何かしら危害を加えられた記憶や、その痕跡が残っているはずだ。しかし現状は五体満足、記憶は前述の通りほんの一瞬の空白しかない。
とは言え、頭のおかしい何者かが類を見ない鮮やかな手際で蓮太郎を誘拐し、そしてここが異世界だとのたまっている、という線も捨てきれない。彼の中では五分だ。
「ふむ、落ち着いてるね。いいことだ。ようこそ、アルーカへ」
言葉が出ないだけで、別に落ち着いているという訳ではない。心臓は痛いほど鳴り続けているし、背中には変な汗が伝っている――というのは、金髪男性には分からないようだ。蓮太郎は普段から無表情なので、当然と言えば当然だが。
感心の声を上げる彼に若干申し訳なく思いながら、蓮太郎は「アルーカ?」と疑問を口にする。
分からないことだらけな現状、分からないことをこの男に訊ねることしか、彼にできることはない。
「この世界の名前だよ。そして俺はガブリエル。アルーカの案内を任されている天使だ。よろしく」
蓮太郎の疑問に答えると金髪の男――ガブリエルはそう言って微笑み、彼に向かって手を差し出す。
その微笑みは混じりけのない善意で形作られていて、彼を疑うのが馬鹿らしくなるほどだった。
天使を語るに相応しい、問答無用で相手の信頼を勝ち取るような、そんな笑顔。
少なくとも、『本当に天使かもしれない』と、蓮太郎に思わせるくらいには。
(天使……じゃあ、さっきのは女神様なんだろうか。それにしてはこう、威厳が無かったな……)
拘束されている訳でもなく、命の危機は全くと言っていいほど感じられない。そしてガブリエルはどう見ても友好的な態度で――単純な蓮太郎は、少なくとも彼は善人だと、あっさり信じた。
あるいは、神性の不可思議な力でそう思わされたのか。
「よろしくお願いします」
――とにかく、彼の話を聞こう。
差し出された手をおずおずと取りながら、蓮太郎は礼儀正しく返事をした。
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