鬼
何が起きたのか理解できなかった。
作業中、大きな物音に驚いてロットの方を見に行けば、謎の人影と共にエレベーターの中に消えてしまった。「ゲゼルを任せた」?一体全体何を任されたというのだろう。
ハンスは、はあっとため息をついて「まあ、いいか」と呟く。弟の事は心配だが、僕に出来ることは無い。とりあえず、親方に報告しよう。ハンスは放心状態のゲゼルに手を差し伸べる。
「大丈夫か?」
「ああ、俺は大丈夫だけどさ……」
「ロットなら平気だよ。あいつ、喧嘩強いし」
と、次の瞬間、耳をつんざくような轟音が倉庫内に響き、ハンスとゲゼルはそろって間抜けな声を出した。
「ちょっと、駄目かもしれないな」
ハンスはエレベーターに駆け寄って、下階に向かって叫ぶ。
「おい、ロット。生きてるか?」
と言い終わる前に、また轟音が響いた。イチ、ニ、三回。またもや間抜けな声を上げて、その場に尻もちをつく。心臓が激しく脈打っている。
ふと、嫌な予感が過り、全身から脂汗がにじみ出た。もしかして、あの音は銃声なのではないだろうか。ありえない話ではない。昨日の少年が報復に来たのかも。だとしたら大変だ。ここからエレベーターを上げられないか?いいや、駄目だ。エレベーターはゴンドラの中でしか操作できないのだ。
「おっかねえ!おい、ハンス。早く逃げようぜ」
後ろからゲゼルの泣きそうな声が聞こえる。ハンスは怒鳴り返した。
「駄目だ!下にロットがいる。僕はいいから、おまえだけ逃げろ。そして助けを呼んでくれ」
ハンスは下階を覗き込んで弟の安否を確かめようとしている。そんな彼の肩を誰かが叩く。きっとゲゼルだろう。うんざりとした様子で、ハンスは後ろを振り返った。
しかし、肩を叩いたのはゲゼルではなくて、見ず知らずの半裸の男だった。その男の頭が奇麗に禿げ上がっているとか、角のような突起物が三本生えているとか、そんな事を認識する間も無く、ハンスの顔に向かって鋭い爪が飛び出してきた。
ハンスは本能的に危険を察知し、男の右斜め下に向かって転がる。なんとか無傷で避けることができた……なんてことはなく、鋭い爪はハンスの左頬の肉をえぐり取った。きっと、ロットなら避けることができただろう。
左頬が徐々に熱くなり、湿った雑巾から水を絞り出すみたいに、ゆっくりと、だが確実に激痛が左頬で暴れだした。
泣いたり、叫んだりはしなかった。なぜなら、それをしたところで状況が好転する訳ではないと、理解していたからだ。理解していたが、ハンスは恐怖した。膝下が震え、脂汗が滲みて、喉が渇き、唾液が粘り気を帯びる。次の一手が来たとき、避けることはできないだろう。
ふと、今朝の獣人の遺体を思い出した。顔を剥がされ、腹を裂かれた酷い状態の死体。
冗談じゃない。こんな所で死んでたまるか。
ハンスは自らを奮い立たせた。そして、目の前の男を殺さなくてならないと自身に言い聞かせる。さもなければ、僕に未来は無い。
男とハンスは対峙した。よく男を観察すると、信じられない程に醜い容姿をしている。頭は禿げ上がり、全身が皮と骨しかないみたいにやせ細っている。特に目に入るのは頭部にある三本の角、そして両手の指から生える鋭い爪。とても同じ人間には見えなかった。まるででおとぎ話に出てくる鬼のようだ。ハンスは男を鬼と呼ぶことにした。
いざ覚悟を決めてしまえば、鬼を殺すのは簡単だ。ハンスは仮にも魔族の端くれである。宙に浮かして地面に叩き落してやればいい。でも、ハンスはまだ腹を決めかねていた。
鬼は、こちらを見据え、今すぐにでも飛び掛かってきそうだ。
覚悟を決めろ、ハンス!痛いのは最初だけだ。
鬼は地面を蹴って、こちらへ飛び掛かってきた。ハンスは鬼の全身に向かって強く念を込める。血液が飛んでもない勢いで全身を駆け巡っているような錯覚に陥る。心なしか左頬の出欠も激しくなっているような気がした。
魔法は普段から使っているから、そんなに体力を消耗するとは思わなかった。だが、対象が激しく動いているからなのか、あるいは、緊張のせいなのか、ハンスは普段とは比較にならないほどに大きな力を込めて、鬼に念を込めた。鬼の体が青い光に縁取られて、宙に浮く。必死に足をばたつかせているのが滑稽だった。
心臓が体内から出たがっているみたいに大暴れしている。体温が急激に上昇している。にもかかわらず、体の芯がどんどん冷えていく。まるで酷い風邪を引いているみたいだ。
無理かも、という考えが何度か頭をよぎった。でも、無理じゃない、と自分に言い聞かせる。ハンスは自分とロット以外の魔族を知らない。そして、ロットはハンスほど魔法を使うのは得意ではない。世界にどれほど魔族がいるのかしらないけれど、それはすなわち僕が世界一の魔法使いという事だ。さらに、幼いころ、泣きわめくロットを宙に浮かせて遊んだ事がある。些細ななことで兄弟喧嘩となったのだ。ロットの小さな体を上昇させたり、下降させたりして、その反応を楽しんだ。そう、あの時と同じだ。だからできる。僕ならできる。
「おい、大丈夫か」
ふいに、聞こえてきた声に、ピンと張りつめていた緊張の糸が切れた。そして、鬼を縁取る青い光が消え、真っ逆さまに鬼の体が地面に落とされる。
果実を潰したみたいな音が響いて、鬼の体がペチャンコに潰れた。手足がでたらめな方向に折れ曲がり、所によっては間接から骨が飛び出している。しばらく、ぴくぴくと動いていたけれど、すぐに動かなくなった。血が溢れ出て小さな池を作っている。
死んでいるのは火を見るよりも明らかだった。
ハンスは恐る恐る声のした方を見る。ゲゼルが親方やほかの従業員を連れて、こちらを茫然と見つめている。彼らの目から畏怖の念を感じることができた。
やってしまった。ハンスは左頬の痛みなんか忘れて項垂れた。十数年間、ロットに守るように言い聞かせ、そして自分も守ってきた掟を、僕は自ら破ってしまったのだ。
鬼ころしっていうお酒ありますよね。