人影
次の瞬間、人影がこちらへ飛びついてきた。人影は全体重をかけ、ロットの上にのしかかる。力負けしたロットは地べたに押し倒された。
何だこいつは?
地べたに押し倒されることによって、人影の全体像を確認することができた。それの両手には獣のような鋭い爪が生えており、ロットの脳みそをかき混ぜてやろうと頭上に向かって力を入れている。
手から視線を外し、人影の顔を見たロットは思い切り顔を歪ませた。その顔はこの世の醜怪をかき集めたみたいに醜い。毛髪から睫毛、眉毛に至るまで奇麗に禿げ上がり、テカテカと気色の悪い光沢を放つ頭。その頭からは三本の角が生えていて、その先端は赤く変色しており、そのまま皮膚を突き破ってしまいそうだ。両目は怪しく赤く光り、口から唾液をボタボタとこぼしている。
ロットは先日の少年の要領で、人影の腹部に強く念を込める。人影は遠くに思い切り吹き飛ばされた。が、器用に体制を立て直し、こちらに向かって体当たりをしてくる。突然の事に動揺してしまったロットは体当たりをモロに食らって、エレベーターの方へ吹き飛ばされた。
全身を強く打ち、激痛にのたうち回りながらロットは思う。あの爪に引っ掛かれなくてよかった。そうしたら死んでいただろう。
すると、その時を見計らったかのように、エレベーターが到着した。金網の扉が開き、ゲゼルがキョトンとした表情でこちらを見ている。
「え、何事?」
人影はこちらへジリジリと近づいている。ここでゲゼルとハンスを巻き込むわけにはいかない。
「ゲゼル!いますぐそこをどけ」
と言いながら、激痛に委縮する身体に鞭を入れ立ち上がる。ゲゼルをエレベーターから強引に追い出して、中に入る。いったい何事か、とこちらを見に来たハンスの姿が見えた。
「兄貴、ゲゼルを頼んだぜ」
ゲゼルと入れ替わりで人影がエレベーターに入ってくる。隣を横切られたゲゼルは金切り声を上げ、わかりやすく絶叫した。ロットは人影がエレベーターに入ってきたのを見計らって、レバーを下げる。金網の扉が勢いよく閉まり、エレベーターは急降下した。
再び、人影がロットにのしかかる。壁に叩きつけられる。鋭い爪が頭に向かって飛び出してくる。すんでのところで自らの手で押さえる。エレベーターの壁を背もたれにして、持久戦が始まった。
少しでも気を抜けば、この鋭い爪は一直線に頭部に向かって飛んできて、大きな穴を開けるだろう。だが、あえてロットは右手の力を抜く。不意を突かれた人影の爪はロットの右耳すれすれを通り抜け、金網に突き刺さった。続いて、ロットは懐から先日拝借してきた銃を取り出し、人影の胸に向けた。
「悪く思うな」
ロットは引き金を引く。凄まじい轟音がエレベーターの中に響く。衝撃で、ロットの右手が壁に叩きつけられる。
人影は「ゴケッ」と蛙のゲップみたいな声を上げ、ロットの隣に倒れた。が、まだ自由な左手をロットに向かって振り上げる。
今度は衝撃で吹き飛ばされないように両手でしっかりと銃を持って、再び引き金を引いた。イチ、ニ、3発。ややリズミカルに血がエレベーターの中に飛び散った。
静寂が訪れる。この狭い部屋の中に、エレベーターの降下音とロットの激しい息遣いだけが響いている。
死んだ?
ロットは恐る恐る人影を指でつつく。反応は無い。先程までの怪しい光を失った眼が虚空を見つめている。口から唾液が垂れて、線ができている。息はしていない。死んでいるのは火を見るよりも明らかだった。
「よしっ」
ロットは安心感と達成感とほんの少しばかりの罪悪感がごちゃまぜになって軽い興奮状態になっていた。だから、この興奮を内的に処理するために、しきりに、意味もなく、ただひたすらに、「よしっ、よしっ」呟いているのだ。
エレベーターが冷蔵室に到着する。ロットは死体を乱暴に冷蔵室に捨てた。死体はロットと同じような服装で体格も近い。
「殺しにきたから、殺してやったんだ。自業自得だろ」
冷たく吐き捨てて、ロットはレバーを上げる。そして、エレベーターは上昇していった。