獣人の死体
「こぞう、もう夜だぞお」
どこか遠くから男の声が聞こえた。
「時報爺だ」
共に少年の体を引きずるハンスが呟いた。額に汗が浮かんでいる。
「もうそんな時間か」
時報爺はハンスとロットが住んでいるあたりによく出没する声の大きい中年男性だ。以前は妻子に恵まれた商人だったのだけれど、事業に失敗し独り身になったらしい。そして、酒と薬に溺れ、肝臓と頭を駄目にしてしまったのだ。まだ裕福だったころの習慣で時報みたいに朝、昼、晩に現在時刻を教えてくれるので、皆から「時報爺」と呼ばれている。繁華街の時計塔まで行かないと時刻を確認できない彼らにとって時報爺の存在はとてもありがたいものだった。
ハンスは少年が手に持っている銃を拾い上げ、弾倉から銃弾を地べたに落とした。そして、それを勢いよく踏みつける。金属が割れる音が鳴った。
「もったいない」
ロットが苦々しく呟く。
「こんなもの持ち歩かれたらおっかなくて仕方がないだろう」
ハンスは銃を地面に何度もぶつけながら言う。いくらやっても壊れないので、銃を地べたに置き、指を向ける。次の瞬間、銃が火花を散らして弾け飛んだ。まだ原型をとどめているが、もう使い物にならないだろう。
「さあ、ロット。そっちのやつも壊しておいてくれ」
ハンスはロットに背を向け、パンを拾い、先に行ってしまう。
ロットはもう一人の少年の銃をこっそり懐に忍ばせ、ハンスが潰した銃弾の残骸を大げさに踏んだ。金属の割れる音が鳴る。そして、壊れた銃に指を向け、再び火花を散らす。
「終わったよ」
「ああ。じゃあ、さっさと帰ろう」
もう遠くに行ってしまったハンスをロットは小走りで追いかけた。
翌朝。
「こぞう、もう朝だぞう」
木箱とトタン板と布で乱暴に作った家の中、ロットは時報爺の声で目を覚ました。埃の匂いが鼻をかすめた。隣で寝ているハンスを踏まないように、外に出る。外は中より空気が良いかと言えばそうでもなく、外も砂埃が舞い、あまり良い空気ではない。
「おはよう。早いのね」
どこからともなく聞こえて来た壮年の女の声にロットはびくりと反応する。同時に鼻が曲がるような異臭に顔を歪ませた。
「やあ、ばあさん。おはよう」
その声と異臭の正体は近くに住むデビーという老婆だった。
「相変わらず……ええと、不思議な香りだ。また新しいやつでも買ったのかい?」
「へえ!わかる?そうなんだよ。昨日ねえ……」
この老婆は死を異常な程恐れているらしい。怪しい商人から「老衰を治す薬」「咳を止める薬」「腰痛を止める薬」「禿を治す薬」「乾燥肌を治す薬」などなど、たくさんの胡散臭い薬を買い占め、それらを片っ端から服用しているのである。結果、その副作用なのか知らないけれど、とんでもない異臭を放つ体になってしまった。けれど、病は気からということなのだろうか、デビーは今年で95歳。一向に死ぬ気配を見せない。
「……で、こんどは身長が伸びるんですって!素敵ねえ、若い子に対抗できるかしら」
「ああ。きっとできるさ」
「もし、その時はハンス、あなたを誘惑しちゃうかもよ」
俺はハンスじゃなくてロットだよ。と言いたいのをぐっと堪えて、愛想笑いを浮かべるロット。デビーは満足げに去って行った。きっと別の若者にも同じ話をするのだろう。この一連の面倒くさいやりとりが毎日の日課だった。
でも、もう慣れたものだ。ロットはハンスを叩き起こし、食事を取って、二人で働きに出かけた。
ハンスとロットは港の倉庫で働いている。他所から運ばれて来たものを仕分けしたり、出荷準備したりするのだ。同僚の大半は二人と同じくスラムの少年たち。労働環境はお世辞にも良いとは言えないが、親方はまあまあ人格者なので悪い雰囲気では無い。
建造物の森を抜け、繁華街を抜け、港が見えてきたところで、人だかりができていることに気付く。人々が海岸に密集して、ちょっとした騒動みたいになっていた。
鯨でも打ち上がっていたのだろうか。ハンスとロットは少し歩調を早める。二人は最後尾にいた同僚のゲゼルに状況を訪ねた。
「獣人のあんちゃんが死んでたんだってよ」
ゲゼルは興奮した様子で言った。少しばかり長身のハンスが背伸びをして、人だかりの中心を覗き込もうとする。そして、すぐに目を逸らした。
「本当だ。獣人が死んでいる。嫌なものを見てしまった。酷い状態だったよ」
獣人とは獣のような姿をした、世界に数ある種族の一つだ。ハンスやロット、ゲゼルのように何も特徴の無いコパウ族とは異なり、全身が毛皮に包まれ、知能は低くないが短絡的で無骨な性格だという。
「しかし、何がどうしてこんなに騒いでいるんだ?」
ロットは不思議そうに呟く。それもそのはず。実はボルクの街の海岸に死体が打ち上がるというのは、あまり珍しいことではない。ボルクは黒い噂が絶えない街だ。昨日の銃を持った少年しかり、人の道を逸れたものが寄ってたかって集まってくる。ゆえに、何の前触れも無く「行方不明」になる者も多く存在し、またそれらが「変わり果てた姿」で帰還するというのもよくある話だ。
ハンスは、こんな大きな騒動になった要因として、見つかった死体が獣人であるということを挙げた。ボルクはコパウ族の街だ。他種族が街を練り歩くだけでもけっこう目立つ。
「それに、あんな状態で見つかればなあ……」
気分が悪そうな様子でハンスが呟く。ハンスに比べて小柄なロットは不思議そうに訪ねた。
「おいおい、大丈夫かよ。そんな酷い状態だったのか?」
「ああ。少ししか見えなかったけど、顔の半分が駄目になっているのはわかった。まるで大きな爪で引っ掻いた……いや、抉り掘ったみたいな状態だったよ」
「大きな爪で?じゃあ、仲間に殺されたのかな」
個体差はあるが、獣人には鋭い爪がある。人ひとり殺すには十分すぎる殺傷能力だ。
「かもな。やだなあ、あれを殺した奴が近くにいるかもってことだぜ。出来ることなら今すぐにでも帰りたいよ」
ハンスの弱気な発言にゲゼルは笑った。
「そんなことしたら親方にクビにされちまうよ」
「別にいいよ。ロットが養ってくれるさ」
ハンスは冗談ぽく言う。その冗談が通じなかったのか、ロットは語調を強めて言った。
「は?嫌だね。てめえの金はてめえの金で稼げよ」
「わかってるよ。冗談が通じないやつだなあ」
とかなんとか談笑している最中、声が聞こえた。
「すみません。通してください」
この街の衛兵だった。彼らは担架と大きな布を持って集団に割り込んだ。その際、ロットの目にも死体が映る。たしかに、顔の半分の肉が抉られ、頭がい骨が露出している。また、腹を裂かれ、中身が顔を出していた。
「確かに酷いな」
てきぱきと死体を担架に乗せ、布を被せた。そして、颯爽とその場を去る衛兵たち。
「彼らも大変だね」
ハンスは微笑を浮かべ呟いた。
「さあ、さっさと職場へ行こう。親方にどやされてしまうよ」
コパウ族
他の種族と比べてこれといった特徴もない。ただ、知能が高く数が多いため、この世界の重鎮の大半はコパウ族だったりする。要するにただのホモ・サピエンスである。
獣人族
他作品においてもエルフの次くらいによく見る種族。全身が毛皮に包まれ、力が強い。また、気の短い性格の者が多いようだ。
魔族
魔法を操る。多種族に比べて圧倒的に数が少なく、場所によっては空想の産物であるとされている。他作品における「エルフ」に該当する種族だが、耳が尖ってるとか美男美女が多いみたいな外見的特徴は無い。その姿はコパウ族そのものであるとされている。