第一章 晴天ノ霹靂 第一節
女が憲兵になんかなれるわけがない──
女の子がたった一人で憲兵の世界に飛び込むお話
こんにちは。劇団ダルクです。帝國日記、ここから始まります。宜しくお願い致します
この小説は、pixivさんにも投稿させていただいている長編小説となっています。途中大幅に加筆修正をしている箇所もございます。ご了承ください
1910年、明治天皇を狙った大逆事件の一つ「幸徳事件」が世間を騒がせた。これを受けて明治政府は万が一のことを考え、憲兵をより一層強化し動員していた。
そんな事件の2年後からこの物語は始まる──
1912年8月13日 夜
「ゴールド眼鏡のハイカラは〜都の西の〜目白台〜」
「……おい」
「女子大学の〜女学生〜片手にバイロンゲーテの詩〜」
「おい!その変な歌やめろ!」
「変って失礼だろ!ハイカラ節だぞ!知らないのか?」
「いや知ってるけど……あーもういい!とにかく歌ってないで早く食えよ!」
「いや……俺、豆嫌いだし……」
「好き嫌い言うな!そんなこと言ってるとまたシズさんに怒られるぞ!」
「別にいいもーん」
「お前なぁ……もう少しで休暇だからって浮かれんなよ?」
「……けちん坊」
1912年、明治天皇が崩御し時は大正時代となった。世間はお盆休みも近いせいか普段よりも賑わっていた。そんな中、憲兵達にも少しながらではあるが休暇が与えられていた。地方出身者はこの機会に実家で待っている家族の元へ行くのだろう。しかし、地方出身者がいない第一管区第三部隊の面々はこの休暇を持て余していた
「そうだ!今度の休みに俺の実家へ来ないか?」
食堂で騒いでいる同僚たちを横目に立花春樹が隣に座っている倉崎雅文に提案した。倉崎は立花と常に行動を共にしている。ここの憲兵団は准士官以外の下士官たちは二人一組で任務をしなければならない決まりだった
「確かお前の実家は小料理屋を営んでいるんだったよな?」
「何か美味いもんでも食えるかもしれないぞ?」
「え、美味いもん!?」
倉崎は毎日出される大して代わり映えのない食事に飽き飽きしていた
「まぁこの賑わいだから人は多いだろうけど母さんならなんとかしてくれるさ!」
「お前のお袋さんとも会うのは久しぶりだからなぁ〜この機会に行ってみるか!……そうだ、三条さんも一緒に行きませんか?」
倉崎がそう言うと目の前で新聞を読んでいた三条慎一は顔をあげた。三条は第一管区第三部隊の准士官で二人の上司だ。後輩達からは親しみも込めて「三条さん」と呼ばれている。
「ん?どうした?」
「今度の盆休みに春樹の実家の小料理屋に行こうって話してたんですよ!よかったら三条さんも一緒に行きましょうよ〜!」
「小料理屋かぁ…たまにはいいかもなぁ……でも、お袋さんは大丈夫なのか?そんなに急に行っても今じゃ客がいっぱいだろうし、憲兵が行っても客が怖がるだけだろ……」
三条は自分たちが行くことで店や客に余計な負担がかかるのを気にしているらしい
「母ならきっと歓迎してくれます!三条さんのこともきちんと紹介したいですし、ぜひ来てください!お客さんだってきっと大丈夫ですよ!」
「そうか?……じゃあお邪魔しようかな」
キラキラとした目で話す立花に微笑みながら答えた。父親を幼い頃に亡くした立花にとって三条は少し年の離れた兄のような、はたまた年の近すぎる父親のような……そんな存在だった。
「そうだ、合田も誘っていいか?あいつも暇だろうし」
合田孝俊は三条の子供時代からの親友で二人にとっても憧れの存在だった
「わぁぜひ!!こっちからお願いしたいくらいですよ!!」
そう言う立花の姿はまるで尻尾を振った子犬のようだった
──
8月15日 夕方
任務も終えた立花達4人は詰襟の制服姿のまま、郊外にある立花の実家の小料理屋へと足を運んでいた
「ここです!」
最寄り駅から少し歩いた所で立花が指差したその建物は、落ち着きのあるこじんまりとした建物だった。老舗なのだろうか「料亭 立花屋」と書かれている。
「じゃあ早速お袋さんに挨拶させてくれ」
「しかし、本当に俺まで来てよかったのか?違う部隊だというのに…」
合田は申し訳なさそうに言った。合田は三条たち3人と違って第二部隊の准士官をしている
「全然大丈夫ですよ!早く母を憧れの先輩達に会わせてあげたいです!」
相変わらず立花は子犬のようにはしゃぎながら言った
「3人共早く行きましょうよ〜!もう俺腹が減って死にそうです…」
倉崎が我慢できずに急かすと4人は料亭へと入った。
「いらっしゃいませ〜……春樹!」
店の女将であろう女性が立花を見ると驚いた声を上げた
「母さんただいま!こちらは仕事の先輩の三条さんと合田さん」
「まぁまぁ……いつも息子がお世話になっております……」
そう言うと女将は深く頭を下げた
「いえいえ!こちらこそ急にお邪魔して申し訳有りません。一度きちんと挨拶したくて」
「まぁそうでしたか……ささ、どうぞ座ってください!」
一通り挨拶を済ませた後、席に着いた三条は辺りを見回してみた。お盆休みということもあってかなり人が多い。が、誰も憲兵とは目を合わせようとはしなかった。目をつけられないようにとひどく恐れているようだった。
──怖がられて当たり前か……ん?
三条は店の手伝いをしているであろう少女がこちらを見つめているのに気が付いた。おさげ頭に袴姿、それにエプロンをつけているその少女はおそらく店の女中なのだろうと思った
「春樹、あの子は?」
「……ああ!妹の千春です」
「えっ?妹さん!?」
先ほど失礼にも女中だと思ってしまった自分を殴りたい……そう思った三条は慌てて少女に会釈をした
「……!!」
少女は驚きながらも会釈を返した。やはり憲兵の自分は怖いのだろうかと少し寂しく思った
「千春!そんなとこ立ってないでこっち来いよ!」
「あれ?千春ちゃん?久しぶり〜!」
倉崎が顔見知りのように言うと合田は不思議そうに聞いた
「知り合いなのか?」
「はい!前に何度か会ったことがあって」
千春は遠慮がちにこちらに向かって来た
「兄さん…お帰りなさい」
「ただいま千春。こちらは先輩の三条さんと合田さんだ」
「急にお邪魔して申し訳有りません」
合田が律儀に挨拶する隣で三条は千春を見続けていた。母親に似て端正な顔立ちだ、と三条は思った。
「兄がいつもお世話になっております。どうぞゆっくりして行ってください!」
合田たち憲兵が挨拶を済ませると、千春は丁寧に答えた
──
立花屋の料理はどれも素晴らしいものだった。以前は肉を食べる習慣がなかった日本人も、文明開化の政策で少しながらではあるが肉を食べるようになっていた。憲兵たちも普段滅多に口にしない肉料理を頬張った
「やっぱり今の時代は牛鍋だよなぁ!宿舎じゃあんまり肉は食べられないし……」
倉崎が口いっぱいに肉を頬張りながら言った
「雅文……そんなことばかり言っていたらまたシズさんに怒られるぞ……?」
春樹は声を潜ませて言った。”シズさん”とは長く宿舎の食堂で働いている女性で、地方出身の憲兵たちにとっては母親のような存在だが”怒らせるとすこぶる怖い”ということで有名だった
「まぁ、肉はまだまだ高価だし仕方がないよ……俺たちよりも立派な資産家や政治家がごっそり食べているさ」
三条が少し皮肉気味に言うと合田も苦笑しながら答えた
「まぁ、シズさんも色々苦労しているんだろうよ。俺たちが入隊した時から働いているんだし……」
「あの人結婚とかしないんですかね〜?」
倉崎が食べながら聞いた
「さぁー?してないっていう噂もあるし、何人もの男を手にかけてきたっていう噂もある」
もうすでに食べ終わっていた三条がサラリと言うと倉崎は驚愕という顔をした
「三条さん、本気で怒られますよ……?」
春樹がまた声を潜ませて言った
「あ……この事シズさんには内緒な?」
そう言うと三条は舌をチロっと出しいたずらそうに笑った
「みなさん、もう夜も遅いし今日はうちで泊まっていきませんか?」
しばらく談笑していると女将がやって来て提案した。話し込んでいるうちにすっかり遅い時間になっていたらしい
「でも…急にご迷惑じゃ…」
合田は申し訳なさそうに言った
「うちは普段娘と二人暮らしですから、使っていない部屋がたくさんあるんです。休暇が終わるまで泊まって行ってください!」
「僕からもお願いします!普段からお世話になっているし…」
そう言われて、断る暇もなく三条たちは立花家に滞在することになった
「突然押しかけてこんなにお世話になってしまって……本当にすみません」
合田は申し訳なさそうに言うと頭を下げた。合田は三条に比べて律儀な性格だった
「とんでもないです!何も無い所ですがゆっくりして行ってください!」
──
「こちらにどうぞ」
女将は店じまいの支度があったので部屋への案内は千春がすることになった。階段を上がり、廊下を進んだところにある角の部屋に三条と合田、立花と倉崎はその隣の部屋に案内された。どちらも畳張りで落ち着きのある部屋だ
「春樹、お前は自分の家なんだから別に俺たちと一緒の部屋じゃなくてもよかったんじゃないのか?」
「そんなこと言わないでくださいよ!なんか寂しいじゃないですか…」
三条が茶化しながら言うと春樹はムッと口を尖らせた。そして4人は朝までそれぞれの部屋で過ごすことになった
「春樹〜!枕投げしよーぜー!!」
「雅文うるさい!!」
「じゃあ一緒に風呂入ろう!風呂!!」
「一人で入れるだろ!?」
「あいつら何してんだ……それより三条、これを見てくれ」
隣の部屋で後輩たちが騒いでいるのを尻目に合田は落ち着いて三条の方を向いた
「ん?どうした?」
「この新聞を見てくれ」
その新聞には「憲兵団、反逆者ヲ多数検挙ス。引キ続キ情報提供ニ協力セヨ」と大々的に見出しが書いてあった。
「このところ、このような記事が目立つと思わないか?幸徳事件から2年が経ち、落ち着いてきたと思っていたんだが……」
「確かに、幸徳事件の後から考えると少し目立ってはきているな……明治が終わり、新しい時代になっても今の現状に満足していない人間も多い」
「幸徳事件より酷い騒動があるかもしれないな……こういう人が賑わう時期ほど気をつけて監視しなければ」
「そう、だな……」
三条は合田が出した”監視”という言葉に少し引っ掛かりつつも、自分は憲兵なのだから仕方がないのだとこれ以上考えるのをやめ、黙り込んでしまった
「三条さん、合田さん、風呂が空きましたよ?」
長い沈黙の後、襖がガラっと開いて立花が顔を出した。
「ああ、ありがとう……雅文と一緒に入ったのか?」
「三条さんなんでそんな事知ってるんですか!?」
「知ってるもなにも、会話が丸聞こえだったぞ」
三条は微笑みながら茶化した。春樹はまたもや先ほどと同じようにムッと口を尖らせ自分の部屋へ帰ってしまった
「合田、先に入ってきていいぞ」
「いいのか?」
「ああ、俺はもう少しだけここで風に当たっていたい」
そう言うと三条は窓を開けた。少しぬるい夏の風が部屋にスッと入ってきた
「それほどいい風でもないのに……俺と一緒に入らないのか?」
「……本気じゃないよな?」
「冗談だよ」
合田はしてやったりという風にハハッと笑いながら部屋を出た
──
合田が風呂へ行き、しばらく夏の風に当たっているとまた襖がガラッと開いた
「合田、随分早かったな。…あっ………」
三条は襖を開けた正体が合田だと思い話しかけたが、そこには千春の姿があった。千春もだいぶ驚いていた
「す、すみません、てっきり合田だと思い込んで……」
「あ、いえ……!こちらこそ勝手に開けて申し訳ありません……あの、冷たいお茶をお持ちしました……」
おずおずと話す千春に三条は罪悪感を覚えた
「それはわざわざすみません……ありがとうございます!」
三条がそう言うと千春は慣れた手つきでお茶を注いだ。今の時代でもまだ珍しい綺麗なガラスの器だった
「どうぞ〜」
三条がそれほど危険な人物ではないと判断したのか千春は笑顔で器を差し出した
「先ほどはすみませんでした……本当にお恥ずかしい……」
「いえ、こちらこそ申し訳ありませんでした……憲兵様もお忙しいでしょうに……なんのおもてなしも出来なくて……」
「いえいえ!とんでもないです!あんなに美味しいご飯を食べたのも久しぶりだし、女将さんにもお礼を言っておいてください」
「それなら良かったです!母も皆さんに会えて嬉しそうでした」
「そうだといいのですが……急にお邪魔したのに、何から何まで本当にすみません……」
「気にしないでください。私も皆さんと会えてよかったです」
「そうですか……?」
「こんなに賑やかなのは初めてなんです。兄が憲兵になってからは母と2人だけだったし、父もすでに亡くなっているので……」
少し寂しそうに話す千春を三条は気の毒に思った。立花家に父親がいないことは春樹から聞いていたが、こんなにもあどけない少女に改めて聞かされると胸が苦しくなる
「……俺に出来ることはなんでも言ってください。協力します」
「気を遣わないでください、もう慣れているので……でも……ありがとうございます!兄も毎日お世話になっているみたいだし……」
千春はもう一度「ありがとうございます」と言い深く頭を下げた
「あ、俺はそんな大したことしてないですよ……!だから顔を上げてください……」
千春は顔を上げるとニコッと三条に笑いかけた
「兄がよく手紙で言ってました。三条さんっていう人にお世話になっているんだって」
「そうなんですか?あいつ、変なこと書いてませんでした?」
「とても頼りになる素敵な方だと書いてありました。いつか自分もあんな男になりたい、と」
「それは照れるなぁ…………」
三条は照れながら自分の首筋を触った
「あの……もし良かったら、私も兄のように貴方のことを”三条さん”って呼んでもいいですか……?」
「え?」
「私、ずっとお会いしてみたかったんです。手紙の中の”三条さん”という方に。さっきも、”あ、もしかしたらあの人が三条さんっていう人かもしれない”ってずっと考えていて……」
どうやら千春は憲兵のことを怖がっていたようではなかったようだ。そのことに三条は嬉しく思った
「俺は、春樹にこんな可愛らしい妹さんがいるって知らなかったから少し驚きました。しかも俺のことを知っていただなんて……。あ、可愛いって別にそんな変な意味ではないですよ?ただ、春樹によく似てたから……」
そう言うと三条も千春に優しく笑いかけた
「いいですよ。俺のことは好きに呼んでください。その代わり……」
「その代わり……?」
「俺も貴女のことを千春さんって呼んでもいいですか?」
千春はそれを聞いて今日見た中で一番の笑顔で頷いた。そして申し訳なさそうに呟いた
「私、憲兵様のこと誤解していたのかもしれません……」
「誤解?」
「憲兵様は怖い人ばかりだと思っていました……その……毎日怒鳴り声が聞こえてくるから……」
「それは……」
三条が「怒鳴るのは憲兵だから仕方のないこと」と答えようとすると千春は屈託のない笑顔で顔を上げた
「でも、三条さんはとってもお優しい方なんですね!」
「えっ、やさしい……?」
「優しいです。とても怒鳴るようなお方とは思えません」
千春はまっすぐと三条を見据えて言った。三条は、この歳でここまで憲兵とまともに話すことのできる少女はまずいないだろうという驚きに加え、憲兵ではなく一人の人間として、笑顔を向けてくれたことを嬉しく思った
「憲兵は理由があるから怒鳴るんですよ。なりふり構わず怒鳴っているわけではありません。貴女のような聡明でお優しい方には誰も怒鳴れませんよ」
「聡明?私はそんな……しょっちゅう母から世間知らずだと言われています……」
そう言うと千春は肩を落とし俯いた。三条は感情が表に出やすいところが兄の春樹と本当によく似ているな、と微笑ましくなった。
「世間知らずでもいいじゃありませんか。これから日本は大きく変わります。少しずつ成長していけば良いと思いますよ」
千春はよく分からない、という顔をした。相当な世間知らずらしい。三条は少しだけ自分たちの話をしてあげようと口を開いた。
「俺たちは浅草の凌雲閣の近くにある宿舎で生活しているのですが、」
「りょううんかく?」
「……浅草十二階、と言ったほうが分かりやすかったかな?」
「……あぁ〜!あの高い建物ですか?いいなぁ……私も浅草行ってみたいなぁ……」
千春が羨ましそうな声を上げた。凌雲閣とは浅草にあり、当時の日本では最も高い十二階建ての建築物だ。日本初の電動式エレベーターも備え当時の日本の栄華の象徴だった。市民からは”浅草十二階”の名称で親しまれている。三条は羨ましそうにする千春を年の離れた妹のように可愛らしく思った
「今度またいらしてください、案内しますよ!」
「え!いいんですか?」
千春は小さな子供のようにはしゃいだ
「……千春さんは好奇心がお強いんですね」
「そう、ですか?」
「はい、まるで小さな子供のようです」
三条は春樹の時と同じように少し茶化しながら言った
「三条さんと比べると私はまだまだ分からないことが多いですから……」
千春は苦笑いした
「分からないことがあったらなんでも答えますよ?」
「うーん、色々ありすぎて困るくらいなんですけど……あ、じゃあ憲兵様達のこともっと教えてくださいませんか?」
千春は興味津々で三条の制服や側に置いてあった日本刀を見た
「俺たちのことですか?」
「憲兵様は普段どんなお仕事をしてるのかとか……政治とかもよく分からないので……」
「まぁ、若い人にとっては今の政治はよく分からないことが多いでしょうね……俺たち憲兵は天皇の安全を最優先に考えて働いています」
「安全……」
「まぁ、憲兵がいくらいても暴動とか尽きないんですけどね……」
三条は苦笑いした
「え、どうしてですか?』
千春が興味を持ったのかさらに聞くと、三条は少し考えながら説明を始めた
「分かりやすく言うと……憲兵とか今の政治家は帝国主義って言って”天皇を一番上に立てて、政治改革をしていこう”っていう考え方で、富国強兵とか四民平等とか……まぁ色々やってるわけなんですよ。でも、実際には貧富の差はまだまだ激しいし、”天皇には任せられない!”とか、今の政治のやり方に反感を買う人も大勢いるわけなんです。だから暴動は無くならない」
「でも、天皇様はすごくご立派な方だと母に教えられてきました」
「大半の人はそう思ってるんですよ?でも、天皇とか誰が一番偉いとかそんなんじゃなくて、”皆平等に公平にしていきましょうよ”っていう考え方の人もいるんです。これは自由主義って言うんですけどね」
「うーん……?」
「もっと簡単にいうと、”天皇をどう捉えるか”ってことですね。天皇を最上とするかしないか……そこで考え方が食い違って……帝国主義と自由主義の喧嘩って言ったほうが分かりやすいかなぁ……」
三条は手元にあったガラスの器を帝国主義派と自由主義派に見立ててカチンッと音を立て衝突させた
「……難しいですね」
「日本はどんどん変わってきていますからね、いろんな考えの人がいるんですよ。それを取り締まっているのも憲兵の仕事なんです」
「自由主義の人は悪い人なんですか?』
「政府から見れば悪い人です。今は天皇第一の時代ですから……」
「……天皇様も帝国主義の人たちも頑張ってるんだから、自由主義の人ももっと待ってあげたらいいのに」
千春がボソッと言うと三条は思わず吹き出した
「千春さんのような考え方の人ももっと増えればいいんですけどね」
「だって……今の日本をもっと良くしたいっていうのは皆一緒なんですよね?」
「まぁそうですね。俺たちはそう信じてこの仕事をやっていますよ」
「……少しだけ政治のことが分かったような気がします」
「そうですか?」
「はい!三条さんがこんなにお優しい人なら、帝国主義の人たちもきっといい人たちなんでしょうね」
「憲兵は普通嫌われるものなんですけど……そう言ってもらえると心強いです」
三条が微笑むと千春もヘラっと笑った
三条と千春が話し込んですっかり打ち解けた頃、合田がようやく帰ってきた
「ただいまー、あっ千春さん!お風呂お借りしました」
「狭いお風呂で申し訳有りません……」
「いえいえ!いいお湯でした!……三条、お前千春さんに変なことしてないだろうな……?」
「するわけないだろ!?ちょっと勉強してたんだよ!」
「勉強……?なんの?」
「政治のだよ!お前俺のこと疑ってるのか……?」
「……冗談だよ」
「お前……!心臓に悪いよ……」
そんな三条と合田のやり取りを千春はクスクスと笑いながら眺めていた
「三条さんと合田さんは仲がよろしいんですね〜」
「子供の時から一緒にいますから」
「そんなに前から仲が良かったんですか?」
「まぁそうなりますね……誰よりも信頼できる仲間だと思っています」
三条がそう言うと、千春はまた羨ましそうな声を上げた
「なんだかそういうの憧れます!私にはそういう人あんまりいないので……」
「千春さん、女学校のお友達は?」
三条が聞くと千春は少し落ち込んだ声で言った
「今年卒業するんですけど、なんだか周りのお友達の話についていけなくて…お嫁に行く子だっているし、私とは住む世界が違うというか……」
この当時、女子の就学率はまだ低く、限られた者しか通えなかった。一方、自由恋愛が認められていなかった当時は、勉強はできるが親の意向で卒業を待たずに嫁に行かされる十代後半の女子は珍しくなかった
「千春さんは、そのようなお相手は?」
「い、いませんよ!いるわけないじゃないですかぁ!!」
火照った体を冷まそうとお茶を飲んでいた合田がそう聞くと千春はムキになって反論した。千春は自分が嫁に行くなんて遠い世界の話である、と思っていた
「そんなに怒らないでくださいよ」
ハハッと笑う合田に千春はムッとした顔をしてさらに反論する。
「私なんか誰もお嫁にもらってなんかくれませんよ!」
口を尖らせて反論する千春の姿はまるで兄の春樹と一緒だった。その姿を見て三条はなだめるように声をかけた
「俺はそうは思いませんよ」
「え…そうですか……?」
「はい」
「私がですよ?」
「はい」
「この私がですよ?」
「そうですよ?」
三条の言ったことが信じられないのか繰り返し問う千春を少し面白く思いながらも言葉を続けた
「千春さんはとても素敵な方だと思います。会ったのは今日が初めてですが、貴女の人柄はきっとたくさんの人に好かれますよ」
「そ、それは……あ、りがとうございま、す……?」
どう答えていいのか分からない千春は詰まりながらも礼を言った
「お前がそんなこと言うのは珍しいな。何かあったのか?」
合田が意外そうに聞いた
「別に何もないよ。ただそう思っただけだ」
そう言うと三条は千春の方へ向き直った
「さぁ、もう遅い時間です。そろそろお休みになられては?」
「あ……すみません、お疲れですよね……」
「いえ!本当は貴女ともっとお話ししたいところですが女将さんに怒られるといけないので」
三条がそう微笑みかけると千春は少し安心したように「おやすみなさい」と言い残し部屋を出て行った
──
みんなが寝静まった後、三条は夢を見ていた──
『慎一……母さんのことは恨んではいけないよ……』
母さんなんて僕にはいないよ、いるのは父さんだけだよ
『……父さんのことはもう、忘れなさい…………』
父さん…?
『慎一、必ず幸せに……父さんの分まで』
父さん……!?行かないで!!一緒に連れてって……父さん……!!
『慎一、ほら新しいお父さんよ〜!』
こいつは父さんなんかじゃない……僕の父さんはもう死んだ!お前のせいで!!
『慎一!お母さんに恥をかかせるのはやめなさい!』
お前なんか母さんじゃない!!母さんなんかいない!!
『慎一……!……そう、そんなに母さんの邪魔がしたいの……そんな悪い子、私にはいらない、いらない!……あんたは、いらない子よ……』
……僕は、いらない子、いらない、いらない
いらない、俺は、いらない
「────ッ!!」
三条はそこで目を覚ました。汗で寝間着が肌に張り付き、呼吸も絶え絶えになっていた。今見たのは彼がまだ10歳だった頃の記憶だった
「……くそっ…………またこの夢か……」
三条はある日を境に何度も同じ夢にうなされていた。汗で濡れた前髪をかきあげ、時計を見るともう日付はとっくに変わっていた
「はぁ………喉乾いた……」
そう呟くと、さっきの夢のことは忘れようと頭を振り、隣で寝ている合田を起こさないようにゆっくりと部屋を出て行った
──
階段を降り、土間へ行くと普段店で出す料理を作っているせいか、皿やお椀などの食器がいくつもあった。大きなかまどが2つに流し台、その隣には水を貯めておく水瓶も置いてあった。三条は大量の食器の中の一つのコップを手に取り水瓶の蓋を開けた
「後でちゃんと洗えばいいよな…………」
柄杓で少しぬるくなった水をコップの半分くらいまで注ぐと、三条はそれを一気に飲み干した
「はぁ…………」
さて、もう飲み終わったし元通り洗って早く寝よう……そう思ったその瞬間──
「誰……?」
「……!?」
思わず驚いて振り返ると、そこには千春の姿があった
「三条さん……?こんな時間にどうなさったのですか……?」
千春は月明かりでほんのりと見えるぐらいだった
「あ、えっと……喉が渇いて……」
三条は突然の出来事に驚き、声が詰まっていた
「そうだったんですか〜実は私も少し喉が渇いてしまって……」
千春はそう言うと三条と同じようにコップを取り、静かに柄杓を持った
「すみません、勝手に使ってしまって……」
「いえいえ好きなだけ使ってください!今日はいつもより暑いですから」
「そう、ですね…………」
三条は先ほどかいた汗が冷え、少し寒くなっていた。三条が落ち着きなく目をそらすと千春が心配そうに尋ねた
「何かあったんですか?」
「え……?」
「なんだかすごく怖い顔をしてるから……」
そう言うと千春は三条の顔をチラッと見上げた
「…………千春さんはお優しいんですね」
「え…?そうでしょうか……」
「だって、今日会ったばかりなのにそんなに心配するなんて……」
三条は少し自暴自棄になったかのような声を出した
「そりゃ心配しますよ!だって、なんだか三条さんとは初めて会った気がしないんです。一緒にお話ししててすごく楽しいし……そんな人が一人で辛い思いしているのなんて嫌ですから……」
千春のその言葉を聞いた三条は少し明るい声で言った
「……俺も貴女と話していてすごく楽しいです」
「本当ですか?よかったぁ……迷惑だったらどうしようって思いました」
「迷惑なんてとんでもないです。むしろこっちが心配してたくらいですよ。憲兵という仕事柄、皆には嫌われているので……」
三条は諦めたように笑った
「貴女も最初見たときは怖かったでしょう?今も本当は気を遣わせてしまってるんじゃないかって思うと申し訳なくて……」
「気なんか遣っていませんよ。ほら、三条さんのお部屋でお話ししたじゃないですか?三条さんはとってもお優しい方だって」
千春は「忘れたんですか?」と微笑んだ
「……そうやって笑ってくれるのも千春さんだけです」
そう言うと三条は小さく笑い、店へと続く段差に腰を下ろした
「…………実は、さっき夢を見たんです」
「夢?」
千春も三条の隣に座った
「ただの悪い夢ですよ。それで目が覚めてここに来たんです」
「そうだったんですか……」
千春が暗い声を出すと三条は慌てて謝った
「あ、すみません急にこんなことを言って……」
「いえ、よっぽど怖い思いをされたんですね」
「怖い……というか、虚しい気持ちです。断片的だけど……」
三条はそう言うと俯いた
「そういう嫌なことがあった時はおまじないをかけるといいんですよ」
「おまじない?」
三条が顔を上げそう聞くと、千春は隣に座っている三条に耳打ちをした
「…………それ、どういう意味なんですか?」
三条は思わず吹き出しながら聞いた
「さぁ?意味は分からないけど小さい時に祖母に教えてもらったんです。これで今日はぐっすり眠れますよ!」
自信満々で言う千春を見て、三条も笑顔になった
「なんだかそんな気がしてきました!やっぱり千春さんと話していると元気が出ます」
「よかったぁ……さっきまでの怖い顔が嘘のようです」
千春は少し照れ臭そうにはにかみ、安心したのか小さく欠伸をした
「そろそろ戻りましょうか」
「はい……あ、今夜のこと誰にも言ったら駄目ですよ?」
「駄目ですか?」
「だって、私が真夜中に男の人と会っていたなんて母が聞いたら卒倒しちゃいますから」
千春は小声で言うとチラッと天井の方を見た
「……じゃあ、二人だけの秘密ですね」
三条も千春と同じように口元に指を当て小声で言うと、千春は嬉しそうに「はい!」と笑い、階段を上ったところで二人はそれぞれの部屋へ戻った
「第一章 季節外レノ春一番 第一節」 終演
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました(はたしてそんなツワモノいらっしゃるのでしょうか?)
すごく読みにくい文だったと思います。
本日はお付き合いくださり誠に有難うございました!次の章でまた皆様に会えたらいいな……(と、密かに思っております)