4.樋口蘭子の激情
主人公が気絶しているので、蘭子さん視点です。
4/29マクスウェルの瞳の色を「ターコイズブルー」から「ペリドットグリーン」に修正。
樋口蘭子は激怒した。
(なんですの?なんなんですの、この男!?まだ起きられない、目も開けられない、そんな彼女を見て『無事』だなんて……っ!!)
これが八つ当たりだというのは、蘭子もわかっていた。
元はと言えば、彼女が悪いのだ。
親が決めた許嫁というだけの関係性にある京極顕を、彼女はそれでも愛そうとした。
愛し愛されるのはたやすいことではないとしても、最初はまず信頼関係を持ってからだと歩み寄りもした。
同じ会社に入ってからは、彼の周りに寄ろうとする女性に苛つかされたし、つい先走って「私のものよ」と主張してしまいそうになったこともあったが、それでも同僚から友人くらいの気持ちは持ってもらえているのだと自負していた、のに。
いつしか彼の目が、一人の女性を追っていることに気づいた。
今年入ってきたばかりの新人で、仕事はまだダメダメだが何事にも一生懸命でひたむきで……叱られても泣かされても、いつしか立ち直っている前向きな彼女。
自分とは、正反対の可愛らしい女性。
ダメだわ、と即座にわかった ──── 彼の目が、彼女を熱っぽく見ているのがわかってしまった。
だけどどうしても諦められなくて。
仕事納めの今日、彼女をこっそり非常階段へと誘いだした。
言い訳になってしまうが、なにかするつもりは毛頭なかった。
ただ、どうして最近彼に急接近しているのか……本当なら彼の隣にはいつもあの小さなアシスタントがいるはずなのに、その場所にどうして彼女がいるのか、それを知りたかった。
そして、京極顕には自分という家族公認の許嫁がいるのだと、それを知っているのかと問いただしたかった。
だって彼女は、ただ彼に愛されて守られて、戸惑ったようにでも何処か嬉しそうにふわふわと笑っているだけだったから。
蘭子がどんな思いでこれまで彼に歩み寄ろうと頑張ったのか、彼のアシスタントである高遠玲がどれだけ周囲に気を使いながら完璧な仕事をこなしてきたか、それを知っているのかと現実をつきつけてやりたかったのだ。
(なのにわたくしは…………あの子を、高遠さんを、突き飛ばしてしまった。わたくしは、犯罪者、ですわ。このまま死んでしまえば殺人犯……いいえ、殺意がなかったのですから過失致死。生きていても傷害罪は免れません。でも、だからこそ、なんとしても彼女を助けたいの)
あの非常階段から、白い光に包まれて一瞬にしてこの無機質な大理石の部屋へと移動してきた自分達に、この偉そうな男……恐らく年下らしい彼は、実に尊大な口調でもって「話がしたい」と切り出してきた。
少し離れた場所に、ぐったりと倒れたまま動かない彼女がいるのがまるで見えていないかのように。
確かに、蘭子としてもこれがどういう状況なのか話を聞きたい気持ちはある、だが殆ど己の所為で傷つき倒れ伏した同期の女性が生死不明という状態において、はいそうですかと話をするほど薄情でも冷酷でもないつもりだ。
むしろ、怪我人がそこにいるのにどうして気遣えないんだと、怒りの感情すら抱いている。
(これは、一言物申してもいいかしら?いいわよね?)
が、物申す前におろおろと視線をさまよわせていた後輩……蘭子にとっては忌々しい恋敵である七瀬星璃が、「あのっ」と声を出したことで蘭子はギリギリで口をつぐんだ。
「お話は、あたし……こちらとしても伺いたい、のですが。でも先輩がっ、……ここに倒れてる人はあたしの先輩なんです。先輩が心配で、その、ここを動きたくないんです!」
(…………………………は?)
「せめて先輩が無事だってわかるまで、ここにいさせてもらえませんか?お願いします!」
(……あの、ちょっと、貴女?貴女、医師免状はお持ち?看護師の資格は?せめて医療の知識は?まさか、なにもないのにただ傍にいたいだなんて言っておりませんわよね?)
ここしばらく、蘭子が見ている限りでは七瀬星璃という二十歳の女性は特に変わったところもない、普通の家庭で愛されて育った普通の子という印象だった。
そんな彼女が医療の知識を持っている、という意外性もないことはないと一瞬そう思ったが、しかしだとするならあんな状態の彼女をいつまでも放っておくことはしないはず。
なら、ここで最初の疑問に戻る ──── 医療の知識もない者が、ただ傍にいてなんになるというのか?
「…………はぁ」
なんなのこの子、と呆れた思いで思わず出てしまった深い溜息に、星璃はビクリと怯えたように体を揺らしたが、すぐにまたこの場の責任者だろう尊大な男に視線を戻し、お願いしますと胸の前で手を組んだ。
普段の蘭子なら「あざとすぎ」と眉をしかめるような仕草だが、彼女も現在混乱の真っ最中であることは幸いと言えるだろうか。
そして。
星璃の「お願い」を聞き入れたらしい男が少し待つと宣言したお蔭で、その場にしばしの沈黙が訪れた。
その間その男は医師を呼んでくれるでもなく、周囲に取り巻きのように侍る年齢層様々な男達もまた何も言わず、次第に蘭子がイライラしはじめたところで玲がはくはくと空気を求めるように口を開いた。
が、うめき声すらも出てこず体もピクリと動いた程度でまた動きを止めてしまったため、蘭子がもしかしてという最悪の事態を想定して駆け寄りかけた、その時
(…………今、なんて?……彼女の『無事』がわかったから、話を聞けですって……?)
ふざけんじゃないわよ、とお嬢様らしからぬ荒々しさで怒鳴りつけそうになったところで、またしても可愛らしい声がそれを遮る。
「わかりました。でもっ、せめて先輩はお医者様に診せてもらえないでしょうか!?このまま残していくなんて、あたし、やっぱり……」
「ふむ、お前は優しいのだな。心配することはない、この者は後で医局に運ばせよう」
「ありがとうございますっ!」
(ねぇ、そこ感謝するところかしら?この男は『後で』『運ばせる』と言ったのよ?死なせないとも、治療するとも言ってないわ)
『後で』という言葉は便利だ、だってそれは『今』でなければいつでもいいのだから。
『運ばせる』というのも、運ぶだけで後は放置という意味にも取れるし、最悪の場合いらないものとして消されてしまう可能性だってある。
なのにどうして、わけのわからないこの状況下で偉そうに指示してくる男の言うことをほいほい信じてしまうのか。
倒れたまま動かない彼女のことを気遣っている様子を見せながら、今この時でも状態が悪化しているかもしれないと考えないのか。
イラつきながらもちらりと倒れた玲の方を見て、蘭子は青ざめた。
医療関係者じゃない彼女には詳しくはわからない、だが遠目で見た限りでも唇の色は青紫に変色しているし、元々白かった肌の色は死人のように白い。
バクバクと、心臓の音が煩い。
そうだ、彼女は蘭子が突き飛ばして……非常階段の途中でしたたかに背中を打っていたじゃないか。
脊椎は、人の急所のひとつだ。
なら、もしかしたら、彼女は。
気がついたら、彼女は倒れた小柄な体に駆け寄りその場に跪いていた。
お気に入りのスカートが汚れるだとか、ヒールが脱げてしまっただとか、そんなことはどうでもいい。
彼女の頭は必死にフル回転し、以前受講した救急救命の実務講習を思い出していた。
(まずは肩をたたいて、名前を呼びかける)
「高遠さん!高遠さん、聞こえる!?高遠玲っ、聞こえるなら返事なさい!」
返事はない。屍のようだ。
(って!そういうブラックなネタはどうでもいいわ!返事がなければ呼吸の確認!……息、はしてない、……落ち着け、落ち着くのよ蘭子。そう、頸動脈で脈の確認っ)
震える指で頸動脈あたりを確認してみるが、ないのかそれとも弱すぎてわからないのか、確認できない。
ならばと彼女はカーディガンの袖を肘までまくりあげ、両手を組んで胸の中央に押し当てた。
幸いなことに、さほど胸のサイズの大きくない彼女の心臓の位置はすぐにわかった、その場所に向かって垂直に体重をかけて押していく。
(いち、にっ、さん、しっ!確か押すリズムはあの国民的アニメの主題歌のリズムでしたわねっ、不謹慎ですけれど歌わせていただきますわ!)
そうして彼女は、頭の中だけであの『お菓子の顔を持つヒーローの歌』をエンドレスで歌い続けた。
それと同時に、同じリズムで心臓マッサージを続ける。
どれだけそうしていただろうか、額に汗が浮かび腕が痛みを訴えてきたところで、ぐいっと片腕を引かれる感触があり、蘭子は不機嫌そのものといった顔で救命行為を中断させた邪魔者を見上げた。
そして、今度こそ力いっぱい眉間にシワを寄せる。
「邪魔しないでちょうだい!」
「もうやめてください!先輩が、先輩が死んじゃいます!」
「はぁっ!?何言ってるの!とにかく手を離しなさい!死なせたくないんでしょ!?」
「ダメです!先輩、痛がってるじゃないですか!」
痛がってる、と言われて意識が戻ったのかと玲を見下ろすが、さして変化は見られない。
自発呼吸もなし、表情も変わらない、なのにこの後輩は何を言ってるのだろうか。
離して、と手を振り払うと、キャッと声がして星璃が尻餅をつく。
気にせず蘭子が心臓マッサージを続けようとすると、今度はあの尊大な態度の男が彼女の両肩を掴んで無理やり玲から引っ剥がし、ドンと力を込めて床に突き飛ばした。
「もうやめろ!こちらの彼女が必死で止めているというのに、何故聞く耳を持たない!」
「貴方には関係がないでしょう!?わたくしはあの子を助けたいだけよ!」
「やめろと言っている!あの娘を気遣うなら、もうやめてやれ。……死者に鞭打つような真似は、見苦しいだけだ」
「死者!死者ですって!?あの子はまだ死んでない!勝手に殺さないで!」
(そうよ、まだ死んだって決まったわけじゃない!死んでないわ、まだ、生きてるもの)
なりふり構わず駆け寄ろうとするが、それまで動く気配を見せなかったガタイのいい男に阻まれ、無理やりその場から引きずって行かれる。
このままじゃダメだ、彼女は殺される、見殺しにされるんだ、そんな危機感を抱いた蘭子は、気の毒そうな視線を向けながらも動こうとしない他の男たちに代わる代わる視線を向け、「助けて」と叫び続けた。
「お願い、助けて!あの子はまだ生きてる!誰か、誰かあの子を助けて!!」
カツン、とその声に応えるように靴音が響く。
涙に濡れた漆黒の瞳が捉えたのは、見た目三十代半ばほど……ミルクティベージュの柔らかそうな髪にペリドットグリーンのやや垂れ目気味の双眸を持つ、華やかな顔立ちの男だった。