緑化計画
「今日は天気がいいから何とも効率がいいね。ガハハハハ」
部長の大声が、ミルクの耳にまで届いてくる。きっと自慢の黒光りする緑頭をペシペシと叩きながら、大口開けて笑っているはずだ。部長の声は本当によく響く。彼らが居るのはビルの屋上で、ミルクが居るのは四階のテラス。垂直方向でだって少なくとも十五メートルは離れているのに。
「ごめん、待った?」
白いワンピースの裾をひるがえしながら、ハニイが廊下を跳ねるようにしてやってきた。
昨年から二人は別の部署になってしまったけど、同期入社のミルクとハニイは入社当時から仲がいい。このテラスでお昼を食べるのが二人の日課だ。会社には屋上とテラスに社員食堂があるが、屋上は年配者、テラスは若者と、なんとなく棲み分けができていた。
福利厚生サービスの一環として、社食のNTWはすべて無料。しかも飲み放題。自社製品ということもあり、五十二種類の通常フレーバーの他に、毎週、新作のモニター調査を兼ねた試飲用が二~三種類並ぶ。
ニュートリションウォーターの略であるNTWは、最初はブランド名に過ぎなかったけれど、世界市場の八割を独占していることもあり、近頃は「NTW=グリーン化促進栄養溶液」を指す一般用語として定着している。
「今日は何にしたの?」
自分のボトルをテーブルの上に置きながら、ハニイがミルクの隣に腰を下ろす。
「今日は、新作のピーチミルク。ハニイは?」
「私はいつものレインボーフルーツミックスだよ」
「それ、好きね?」
レインボーフルーツミックスは、ここ二週間ほどのハニイのお気に入りだ。透明なボトルに、綺麗に層を成して入れられるので、見た目も鮮やかで女子社員に人気だ。
ミルクは、持参してきたミニトートから小さな包みを取り出して開いた。
膝の上にお弁当箱を拡げたミルクとは対照的に、ハニイはNTWのボトルひとつだけだ。
「またそれだけ?」
「うん」
差し込んだストローをくわえながらハニイは蜂蜜のような甘い瞳で頷く。
「今日はバニラ&チョコバナナトッピング」
レインボーの層の上部に、ふわふわのバナナクリームとチョコレートソースがトッピングされている。
「大丈夫なの? 無理しているんじゃない?」
ミルクはまだNTWだけでは足りなくて、毎日小さなお弁当を持参している。ハニイはもともとだいぶスレンダーだし、昔から小食だったけれど、それでも去年までは、もう少し固形物を食べていた。
「違うって。本当にこれで充分なの。春に植栽した部分が定着してきて、本当に効率が良いの」
ミルクは、ハニイの白いノースリーブワンピースから覗く手足を交互に見た。
先日まで巻かれていたシルバーフィルムが取れて、上腕から手の指まで、すっかりエメラルドグリーンになってしまっていた。
「この色は、あまり効率が良くないって言われていたんだけど、それでもビックリするくらい。天気がいい日なんて、NTWだけで大丈夫なこともあるのよ。この新製品のhiNTWのせいもあるんだと思うけど。マルガメ部長のような深緑だったら、一週間くらい雨の日が続いてもhiNTWだけで充分なんじゃないかなぁ」
ハニイはそう言って屋上の方を見上げた。相変わらず大きな笑い声が聞こえてくる。
緑放散虫から取り出したフォトンクロロフィルを細胞に組み込み、シート状に加工したものを皮膚の一部に植栽するという技術が確立してから、人類は、その姿形を保ったままで、自律的な栄養供給が可能となった。液体栄養であるNTWだけで、基礎代謝エネルギーは十分に補充できる。しかも、植栽の際に用いる定着剤の改良で、植栽域の自発的拡大を完璧にコントロールできるようになり、事故のように起こっていた予期せぬ領域拡大を防ぐことができるようになった。それに、色味の調整も、かなり自由度が高くなった。そんな技術革新が進んでいることもあり、ファッション性を重視する若者世代の間で、フォトンクロロフィルの植栽は爆発的な流行となっている。
「確かに部長はここ数ヶ月hiNTWしか飲んでないとか言ってたけど」
「でしょ。うちのミナミカワ部長も、マルガメ部長のような色にしようか悩んでいるって」
ミナミカワ部長は、どちらかというと黄味の強い緑で、深い黒緑色のマルガメ部長とは全然印象が違う。
「えー。ミナミカワ部長は、あの色が似合うと思うんだけどな」
「そう。うちの女子達みんなでそう言って止めているんだけど」
ハニイとミルクは顔を見合わせて笑った。
テラスには、燦々と初夏の日が降り注いでいた。空は雲ひとつない青空だ。広いテラスのあちらこちらで、寝転がったり腰掛けたりして、社員達は思い思いに時間を使っている。
労働基準法では、社員に二時間の昼休みを取らせることが定められている。さらに、十年前の法律改訂で、社員達のために、日光を充分に浴びることができる屋上やテラスを作ることも義務付けられた。もちろん、ほとんどの照明がフォトンクロロフィル活性に適合した波長を出すものに変更されているが、生物は本能的に日の光を求めるものらしい。この立派な日光浴場は、社員の精神衛生を保つために不可欠な場所となっていた。
「で、ミルクはもっと植栽導入しないの?」
NTWを飲み終えたハニイがその場に寝転がった。ガラス張りの天井が広がるテラスの床には、フカフカの人工芝が敷かれている。
「私は、緑色が壊滅的に似合わないんだよね」
小さなお弁当箱を空にして、ミルクもNTWのストローを口にくわえた。
「左腕だって二回も色変えたんだから」
ブルーのノースリーブから除く腕は、肘を境に微妙なグラデーションがついている。
「いっそのこと、もっと青みを入れたら? 青系の緑なら、クールビューティって感じで、ミルクに似合うと思うんだけど」
「そうかな」
「それにしても、この辺りにも緑が増えたね」
チューチューとストローを吸いながら、ハニイが眼下を見下ろした。
確かに、「都市部グリーン補助金」が導入されてからこの辺りは特に緑が増えた。
世界人類緑化計画、いわゆるグリーンヒューマンプロジェクトは、提唱されてから今年でちょうど百年経つ。過去三百年間に二回起きた修復不可能な気候変動のせいで、深刻な食糧難に陥っていた地球の起死回生案として提唱されたが、最初の三十年は、あまりにも突飛な考え方だと批判の声が大きかった。しかし、提唱者のアベが、自らの一族を人身御供にする形で七十年かけて緑化技術を進歩させ、実用化にこぎつけた。それからの発展は急速で、先進国を中心にプロジェクト参加国が拡大している。
国策として多額の予算を投入する技術開発の甲斐あって、国産のフォトンクロロフィルシートの光合成効率は世界平均より二桁ほど良い数値を叩き出していて、常にトップを走っている。
ミルクたちの会社も、その恩恵に預かりNTW開発技術で世界市場を独占しつつある。
そしてもちろん、ニッポンでも、グリーン補助金の導入でグリーンヒューマンプロジェクトは進行している。植栽割合によって補助金の額が変わってくるのだ。しかも植栽自体の費用は国庫負担ということもあり、植栽を希望する人数が加速している。
「結局、植栽している人の費用を、植栽していない人たちが賄っているんだから、なるべくたくさんした方が得なのよ」
寝転がったまま、ハニイが現実を口にする。
「私も、来年には、マリエ先輩みたいなビキニが着れるような体になりたいな」
少し離れたベンチの上で男性社員に囲まれている秘書課の先輩を、ハニイは羨ましそうな目で見た。
グリーン化している部分は露出することが認められているので、会社内でビキニ姿でいても咎められない。
「ハニイは似合うと思うけど、私には無理だな。その前に痩せなきゃ」
ミルクも寝転がった。
「そういえば、マルガメ部長、今夏で退職なんだって。知ってた?」
寝転がって手足に燦々と日の光を浴びながら、ハニイが視線だけをミルクに移す。
「え? そうなの?」
「じゃぁ、まだここだけの話、ね」
「人事部はさすが情報早いなー」
「もう今日明日中には内示が出ると思うんだけどな」
せっかく定年制度が廃止されて、働きたいものは何歳まででも働くことが許されるようになったのに、早期退職者は年々増えているらしい。早期退職して、一刻も早く緑豊かな生活を送りたいと希望する人が多いらしい。これも緑化計画による影響のひとつであると言われている。
「部長、地元のミヤギの海岸付近に定着したいんですって」
「へぇ、そうなんだ」
マルガメ部長に、そんなに強い郷土愛があったなんて知らなかった。と、ミルクは心の中で思った。そして、数年前に訪れたミヤギの美しい海岸線を思い出していた。
「あそこの海岸も、どんどん砂漠化が進行しているらしいからね」
「それに、都市部ほどじゃないけど、沿岸域もグリーン補助金の特別指定地域だからね」
ハニイは人事部で社員個別のグリーン補助金申請割合を算出する部署にいるので、補助金の指定地域云々の話には人一倍詳しかった。
「部長、五人の子持ちだしね」
グリーンヒューマンプロジェクトを支えるために、働ける世代に課される税率は平均して四十%。部長の年齢と役職だと、六十%くらいとられているのかもしれない。
「私も、そろそろ定着先を考えはじめなきゃいけないのかなーと思って」
「やだ。まだ早いよー」
冗談のようなハニイの言葉に、ミルクは苦笑いを浮かべる。
「いやいや。人気の場所は早く埋まっちゃうし、それに、この補助金だっていつまで続くかわからないし」
「まぁ、それはそうなんだけどね」
人事部に移ってからのハニイは、妙にがっちりと人生設計を語るようになった。
日当たりや風通しの良い快適な土地は、これから長いグリーンライフを送る定着先として人気があり、地価も高騰していると聞く。なにせ、うまくいけば、旧世紀に生えていたという縄文杉のように、千年単位での老後が待っているのだ。土地選びは慎重にならざるを得ない。
「でも会長が会社の目の前に定着するとか、ないよねー」
ハニイの声はだいぶ眠そうになってきていた。
「坊ちゃん社長のことが心配でならないんでしょう」
一昨年リタイアした会長は、会社の目の前の公園を定着先に選んだと、社内ニュースで報告していた。厚いガラス越しだから直接聞こえたとは思えないが、正面玄関に正対するひょろっとした小さな木が、小さく震えた。あの木が太くなりこの辺り一帯に枝を張るくらいになる頃には、世界はどう変わっているのだろうか。
「そういえば私、腕の追加植栽してから、無性に眠いんだよね」
ハニイはそう言いながら大きな欠伸をした。
「植栽が五十パーセントを超えると睡眠時間が平均二時間増えるって言われてるよ」
「そうだっけ……だか…ら……」
ハニイの言葉はそこで途切れ、小さな寝息に変わっていた。
暖かな室温に保たれたガラス張りのテラスには、燦々と日の光が差し込んでいる。
「もう、ハニイったら。寝るの早すぎ」
小さく愚痴りながら体を横たえたミルクも、程なく、フカフカの芝生に埋もれて意識を手放した。
四階のテラスでも、屋上でも、社員たちは思い思いの格好で昼寝をはじめている。
そして緩やかに、白飛びするほどの光の下で、体は静かに光合成を続けていた。