砂の大地の終わりは突然に
クジラのように大きな砂の川のものがジャンプすると、滞空時間が長いせいで空を飛んでいるようだった。
口の中の子供たちが大騒ぎしてはしゃいでいるうちにバーツラフに追いついた砂の川のものは、頭のてっぺんの髪だけ砂の波の上に出して、あとは全部砂の川の中に埋もれているバーツラフに向かって、ひげをシュッと伸ばした。
流れの中に突き刺したひげがバーツラフの体を探り当ててからめとり、ずぼっと引き抜く。砂まみれのバーツラフが空中で身震いすると、きらきら光る砂が宙に舞った。
「やれやれ。ひどいめにあったぞ。肌がひりひりする。やすりにかけられたようだ」
紡の横に収まったバーツラフが、ブロンドの髪から砂を落としながらいった。
「助けてもらってよかったね、王様。この人は、砂の川のもの、っていうんだって」
「なに! 砂の川のもの。ということは、名前がないのだな? よし! 余が名前をしんぜよう」
群青の鱗の上にすっくと立ったバーツラフは、尊大な態度で言い放つと、「そなたはこれから、アルフォンソと名のるがよい。アルフォンソは余の下男であった。どうだ、よい名であろう」と、大ナマズにいった。
「キャワキャワ。おじさん、ぼくたちにも名前をつけてよ」
「キャワキャワ。名前をつけてつけて」
「キャワキャワ。ぼくにもぼくにも」
アルフォンソの口の中から、子供たちの声が聞こえてきた。
「よかろう子供たち。余から名前をさずかることを光栄に思うがよい」
バーツラフの瞳がらんらんと光りだした。紡は、王様はほんとうに名前を付けるのが好きなんだなとおもった。紡の考えたことが分かったわけでもないのだろうが、バーツラフは紡を見据えると、
「ツムグよ。名前ほど大切なものはないのだぞ。その他大勢の自分ではなく、世界に一人だけの自分。これほどの誇りがあろうか。名前とは、時代を超えて、自分が生きていたことを証明する記号なのだ」
「王様の、バーツラフという名前のように?」
「そうだ。余の名前はボヘミアに語り継がれておろう」
「うん。王様って、やっぱりすごかったんだね」
気をよくしたバーツラフは、アルフォンソの顔にかぶさって逆さになった状態で口の中を覗き込んだ。
「おお! たくさんいるではないか。つけがいがあるぞ」
「キャワキャワ。おじちゃん、だあれ?」
「キャワキャワ。わあー、あの髪の毛、色が抜けた藻草みたいだね」
「キャワクヤワ。体に藻草がつくのは、すごい年寄りなんだよ」
「キャワキャワ。じゃあ、おじいちゃんだ」
「キャワキャワ。おじいちゃん。おじいちゃん」
キャワキャワ、キャワキャワ。にぎやかに笑い転げる子供たちに、バーツラフはものすごい勢いで名前をつけはじめた。
バーツラフが子供たち全員に名前をつけ終わって一息ついたころ、アルフォンソの川を行くスピードが落ちた。
「皆さまがた。おいらが行けるのはここまでです。ここで砂の大地の世界は終わりです。おいらも皆さま方と一緒に世界をめぐってみたい気持ちはありますが、なにせ、かわいい子供たちを育てなきゃなりませんので、ここで引き返すことにいたします」
そういうと、アルフォンソは頭を一振りして全員を砂の川の中に放り出した。
「キャワキャワ。おじちゃんたちバイバイね」
「キャワキャワ。おねえちゃんたちバイバイね」
「キャワキャワ。お兄ちゃんたちもバイバイね」
「キャワキャワ。ケラケラちゃんとキヨキヨちゃん、バイバイね」
子供たちがキャワキャワ別れの言葉をさえずる。アルフォンソは口を閉じて、別れを惜しむ子供たちを口の中に隠すと、盛大にジャンプして頭から砂の川の中に姿を消した。
「うわああ。こんなところで放り出されても困るよ」
ずぶずぶ砂に沈みながら紡が叫んだ。千早も同じように沈みはじめる。
「ディジュ!」
ロージェがディジュに助けを求めると、ディジュは流れの早い砂をかき分けてロージェのもとに泳ぎ寄り、がっしりと胴をすくいあげて流れの上にロージェの上半身を持ち上げた。
「おにいさん、すごいね! ぼくにもしてよ」
「二人は無理だ」
紡の頼みをにべもなく退けて、ディジュとロージェはべったりと抱き合って見つめ合ったまま流れていく。
「だから! おにいさんとおねえさん。くっついてばかりいないで、離れてよ」
流されながら怒鳴る紡の声をききながらバーツラフがクスクス笑いだす。ガブニとボナは砂の川の表面を楽しそうにくるくる回りながら流れていくし、肩から上だけ出したミレーゼを見ると、どうやらエルリラが羽をひらつかせて引っ張り上げているらしい。
問題は千早だ。千早は砂に溺れそうになりながら、必死で泳いでいた。
「パパ。だいじょうぶ?」
「だいじょうぶじゃないよ。こんなところで放り出さなくてもいいだろうに、アルフォンソのやつ」
溺れそうになりながら千早が憤懣の声をあげたら、その声が聞こえたかのようにアルフォンソの声が、はるか遠くから聞こえた。
「みなさあーん。気を付けてね。砂の世界の終わりは、いきなりくるからねー」
なんのことをいっているのかわからないので、紡と千早は気にも留めなかったが、先頭を流れていたバーツラフが、「滝だ。滝になっているぞ」と叫んだので、ぎょっとした。
砂の世界のすべての砂が、断崖になっているところから落下していた。滝だと叫んだバーツラフが、真っ先に落下して姿を消した。
「ロージェ。俺にしっかりつかまるんだ」
「ええ。絶対に離れないわ」
ディジュとロージェの二人は一つになって崖から消えていった。
「ケラケラ」
「キヨキヨ」
ガブニとボナも放り出されたボールのように落下していく。
「パパ」
「ツムグ。目を閉じろ。怖くないぞ。きっとだいしょうぶだ」
「なんでだいじょうぶなの。どうしてそう言いきれるの」
「パパがそう言えば、だいじょうぶなんだ。パパを信じろ」
手を伸ばして紡を引き寄せて抱きしめると、千早は力強く言い切った。紡は必死に千早にしがみついて、パパのいうとおりでありますようにと祈った。
落ちていく瞬間、目を閉じる前に、先に落下していくミレーゼの姿が視界に入った。ミレーゼは投げ出されても空中に浮いていた。え? どうしてミレーゼは落ちないの? とおもったが、体が猛烈な落下速度で失墜していく恐怖になにも考えられなくなった。
千早が耳元で大声で悲鳴をあげるので、「だいじょうぶなんでしょう?」と怒鳴り返してやりたかったが、一分たっても二分たっても地に叩きつけられる衝撃が来ないので、いったいどれほどの高さから落ちているのだろうとおもった。もしかしたら、延々と落ち続けるのだろうかと別の恐怖にとおそわれた。
王様はだいじょうぶだろうか。おにいさんとおねえさんはどうしただろう。ガブニとボナは近くにいるのかな。ミレーゼは一緒なのだろうか。そんなことを、落下する砂の中で考えていると、ザブンと水に落ちていた。
ブクブク沈んでいく。口を閉じて水の中で目を開けた。夢中で手足を動かして、陽光がさしている明るい水面めざして水を蹴った。水面に顔が出たので大きく息を吸ってあたりを見回すと、見渡す限りの海だった。
果てしない大海原だ。濃い藍色の海の水は怖いくらい透明で、はるか底のごつごつした黒い岩場まで透き通って見える。海の中には色とりどりの海の生きものたちが泳いでいて、まるで花園のように鮮やかで美しかった。
「ツムグよ。だいじないか」
バーツラフが不器用な泳ぎ方で寄ってきた。抱き合ったままのディジュとロージェも、手で水をかき寄せて近づいてくる。ガブニとボナはふざけながら水の上を泳いでくる。しかし、千早とミレーゼがいなかった。
「王様。パパとミレーゼがいないよ。パパは泳げないんだよ」
悲鳴のような声をあげて紡は千早を探して水の中に顔を入れた。千早は十メートルも深いところでパニックになっていた。滅茶苦茶に手足を振り回しているが、体を激しく動かすごとに鼻から空気がもれて細かい気泡が昇っていく。千早のまわりにはたくさんの海のものが集まりだしていた。
「まあ。闖入者じゃありませんか」
「おお。なんと珍しいことがあるものだ」
「闖入者ですって?」
「闖入者だってよ」
クラゲだかイカだかわからない、やたらと派手な色彩の生きものが、何本もの触手を伸ばして千早を触りまくる。そうかとおもうと金魚の出目金にしか見えない真っ赤な魚が、ヒレで千早の顔をさわりまくっている。サメのような大型の魚もいれば、メダカのような子魚もいるし、二枚貝の集団も寄ってきてカスタネットのように貝殻を打ち鳴らして話しかけてくる。
その騒々しさは陸の生きものと変わらないし、闖入者が珍しいものだから、続々とつめかけてきて、今にも千早は息が切れて溺れる寸前だった。
紡が千早を助けるために、肺に溜められるだけ空気を溜めて海に潜ろうとしたときだった。空からミレーゼが降ってきたとおもったら、一本の矢のような体勢で頭から海に飛び込んでいった。
「ミレーゼ!」
紡は驚いてミレーゼの名を呼んだ。空では小さな姿のエルリラが、羽を羽ばたかせていた。
海の中で、ミレーゼがかぶっているティアラのサファイヤが煌々と輝きだしだ。宝石の青い光が海の中を切り裂くように明るくしていく。銀色の髪を揺らめかせて、クモの糸のように薄い衣をたなびかせながら近づいてくるミレーゼは、あまりにも美しく神々しくて、海のものたちは全員息をのんだ。
「あれはもしや! 海を渡るおしゃべりな風が教えてくれた、祈りの里の祈りの姫ではないのか」
一人の海のものが叫ぶと、次々に「祈りの姫」と叫びだした。二枚貝たちは驚きと喜びのために狂ったように貝殻を打ち鳴らし、小魚は集団でループを描いて回りだす。大型の魚から小型の魚、甲羅を背負ったカメだかカニだかよくわからない生きものたちも、くにゃくにゃした骨のない生きものと手を取り合って踊りだす。
サメのような獰猛な顔つきの大型の魚が、ミレーゼに向かってうやうやしく頭を下げた。
「あなた様は、祈りの里の祈りの姫でしょうか」
千早のもとに降りてきたミレーゼは、周りを取り巻いている大勢の海のものたちを見渡した。ミレーゼが首をめぐらすたびに、頭にかぶったティアラのサファイヤが、冴えた青い光を彼らに投げかけた。
「わたしは、祈りの里の祈りの姫。名はミレーゼです」
ミレーゼが名のると、いっせいに歓声が上がった。しかしミレーゼは、海のものたちの喜ぶさまをみても表情を変えることなく、今や失神寸前の千早のわきの下に腕を回して、思い切り海底を蹴って海面を目指した。海のものたちが引き止めるようにミレーゼの薄い衣にとりすがった。
「お待ちください。ミレーゼ姫。我々は、祈りの里は伝説だとおもっていました。その姫にお目にかかれて、こんなにうれしいことはありません。そんなに急がずに、しばらく海におとどまりください。海のもの全員で、姫を歓迎いたします」
サメのような海のものが、ミレーゼの衣の裾を口でくわえて、必死にミレーゼを引き止めた。ほかのものもミレーゼの衣に取りすがるので、ミレーゼは海のものたちに埋もれてしまった。あまりの重さに耐えかねて、ずるずる海底に落ちていく。
「どうしよう! ミレーゼが魚たちに引きずられているよ。あれじゃあ、重くて上がってこれないよ。パパが死んじゃうよ!」
海の中をのぞいていた紡が顔を上げてバーツラフに叫んだ。
「なに! 魚がいるのか。よし! 余が名前を付けてやる」
「そうじゃないでしょ王様。パパとミレーゼを助けてよ」
海の中に顔を入れたバーツラフの肩を掴んで揺さぶりながら紡が叫んだ。紡とバーツラフが海面でそんなことをしているあいだにも、ミレーゼのティアラの宝石の青い光は強さを増していった。
「海のものたちよ。いまは急ぎます。この闖入者が死んでしまいます」
海のものの集団の中からミレーゼの声が聞こえた。
「死ぬですと!? 闖入者には死があるのですか」
「そうです。闖入者は、この世界のものではありませんから、死ぬのです」
ミレーゼに抱きかかえられていた千早は、それを聞いて「もうだめだ」と諦めた。
僕は死ぬんだ。こんな、わけのわからないところで、わけのわからない死にかたをして、ご先祖様が眠る墓にも入れずに、泡のように消えていくんだ。
死ぬ死ぬと呟くたびに、残り少ない空気が口からもれていく。ぐったりしてきた千早を抱えなおして、ミレーゼは凛とした声を放った。
「皆のもの。どくがよい。このものが死んだら許さぬぞ」
そんなきつい言葉を聞こうとは思わなかった海のものたちは、ぎょっとしてミレーゼから離れた。サメのような顔つきの海のものが、恐る恐る口を開いた。
「しかし姫。死んだら祈りの里で再び生まれてくればいいではないですか。このものを深く愛しているものが蘇りを祈り、その祈りが里に届いて、その想いを受けた祈りの里の姫たちが、誕生の木に育ててくれるのでしょう?」
「それはこの世界の話です。闖入者の場合は命の在り方が違うので、確かなことはわたしにもわかりません。でも、死ぬのはほんとうです」
「そうだったんですか。では、いっこくも早くお行きください。我々もお手伝いしましょう」
海のものたちはいっせいに口をすぼめて気泡を吐き出し始めた。大量の気泡がミレーゼと千早を包み込み、ぐんぐん上昇していく。
千早はまぶしい海面を見上げながら、海のものとミレーゼが交わした会話を反芻していた。
千早の注意を引いたのは、深く愛しているものの思いが祈りの里に届いて、その想いを受けた祈りの里のものたちが、祈りの力によって誕生の木に育ててくれる、という部分だった。
ひょっとして、そう、ひょっとして、強く望めば、泉のそばに根を張って成長した誕生の木が、ロージェを産み落としたように、真美をよみがえらせることができるかもしれない。
苦しい息の中で、千早はそんなことを考えていた。祈りの力で死んだ者をよみがえらせることができるのなら、自分にもできないことではないのではないか。
肺の酸素がなくなりかけて朦朧とした状態で、千早は憑りつかれたようにその考えにしがみついた。確かなことはわからない、といったミレーゼの重要な言葉は完全に抜け落ちて、自分にとって、そうであったらいいのにと願う部分だけを反芻していた。
「パパ!」
プカリと海面に顔を出した千早とミレーゼに紡が泳ぎ寄った。
「ハアハア。ゲホゲホ。死ぬところだったよ」
ミレーゼにつかまりながら、千早は息も絶え絶えだった。ガブニとボナ、ディジュとロージェも寄ってきて、ほっとしたように笑いあった。バーツラフはというと、海の中に顔を入れたままだ。きっと魚たちに名前をつけるのに忙しいのだろうとおもって、紡はほおっておくことにした。
ミレーゼが空中のエルリラに向かって手を振ると、桜の花びらぐらいだったエルリラが、みるみる大きくなって、十メートルもある巨大な蝶に変身した。紡たちが初めて見たときのエルリラの姿だった。
「姫。お乗りください」
エルリラが海面すれすれで宙にとどまると、ミレーゼはエルリラの背中に手をかけてひらりと身をひるがえした。それまで支えていてくれたミレーゼが手を放してしまったので、千早がずぶずぶ沈みだす。紡は慌てて千早に手を伸ばしたが、ミレーゼが紡のフードを掴んでエルリラの背中に引き上げたので、かわりにガブニが千早を舌でからめて沈まないようにしてくれた。
「ケラケラ。ボナ。先にエルリラに乗れ」
「キヨキヨ。わかったわ」
ボナがピョンとジャンプしてエルリラの背中に乗る。ディジュが千早の服を掴んでエルリラの背中に押し上げた。次にロージェを乗せてから自分も軽々とエルリラの背中に這い上がる。ガブニが身軽にボナの後ろに収まったのを見てから、名前を付けるのに夢中になっているバーツラフに紡は声をかけた。
「王様。エルリラに乗ってよ」
「忙しい! 一日や二日では足りないぞ」
「だったら、王様は残ればいいよ。ぼくたちは行くからね」
「なんだと! 生意気な家来どもだ。打ち首にしてやる」
めんどうになった紡は、ディジュに目配せした。ディジュが頷いて、強引にバーツラフを海から引き抜いて自分の後ろに乗せた。全員が背中に収まったので、エルリラはゆるゆると銀色の巨大な羽を羽ばたかせて、雲一つない大空に舞い上がった。
空高く昇ってみると、太陽の光が広大な海原に惜しげもなくふりそそぎ、海面は鏡のようにきらきら反射して油のように光っていた。
「海のものたちに、陸の方向をきいておけばよかった」と、ミレーゼが途方に暮れたように水平線を見つめて呟いた。紡も同じような表情で目を遠くに向けた。
エルリラは高い空を、疲れを知らぬようにどこまでも飛び続けた。丸い水平線のところまでたどりついたくらい長い時間飛んでも、世界にはやはり空と海しかなかった。
風の集団がときおりにぎやかにおしゃべりしながら彼らのそばを吹いていった。ミレーゼがおしゃべりな風たちに声をかけようとするのだが、おしゃべりな風たちは、ありとあらゆる世界の噂をしゃべるのに夢中で、いつも、あっという間に去っていくのだった。
相変わらず太陽は無表情ともいえる明るさで海面を照らし、エルリラと、背中に乗っている彼らを照らし続けた。ガブニとボナがあくびをしてうとうとしはじめた頃、紡がぽつりとつぶやいた。
「時間の無駄だ。早く柵の中の人たちを助けに行かないと」
千早も頷いた。
「そうだね」
しかし、千早はまったく別のことを考えていた。柵の中という場所に行くことを、闖入者である自分が願えば、そこに行けるのだろうか。だとしたら、祈りの里に行くことを願ってみるのはどうだろうか。闖入者である自分が願うことによって、この世界が変化するなら、試してみる価値があるのではないか。
千早がそんなことを考えているとき、ミレーゼは絶望的な気分に落ち込んでいた。
「エルリラよ。祈りの浜が見えますか」
「いいえ。姫。見えません」
「わたしたちは、祈りの里に帰れるのでしょうか」
エルリラの返事はなかった。ミレーゼは沈んだ声で続けた。
「砂の世界から海に落ちたとき、わたしは希望を持ちました。この海の世界のどこかに、祈りの浜があると。祈りの浜にたどりつけさえすれば、すなわち、そこが祈りの里です。祈りの里に帰りたい。緑と清らかな水と美しい山に囲まれた里に帰りたい」
ミレーゼの頬に涙が流れた。
「でも、柵の中の人たちを助けるのが先だよ。こうしている間にも柵の中の人たちは飼育者に殺されているかもしれないんだから。そうでしょ。ミレーゼ」
紡の子供らしい正義感が、ミレーゼの悲しみに拍車をかけ、紡への怒りを駆り立てた。
「お黙りなさい。そなたに何がわかるのです。みながわたしとエルリラの帰りを待っているのですよ。きっと心配していることでしょう。浜に流れ着いた命の種も、みなの祈りを一つに束ねるわたしがいなかったら育たないのです」
「でも、でも、種もだいじだけど、柵の中の人たちが飼育者に収穫されて殺されるのは、もっとかわいそうだよ」
紡の懸命な訴えに、ミレーゼは頭を抱えた。激しい頭痛がするのか、険しい表情でうめき声がもれる。
「帰らなければ。なんとしても里に帰らなければなりません」
「柵の中に行こうよ。ミレーゼ。柵の中の人たちを助けてから祈りの里に行こうよ。ね。そうしようよ。お願いだよ、ミレーゼ」
紡に懇願されてミレーゼの表情がますます歪んだ。苦しそうに身を揉みだす。
「帰るのです。なにがなんでも、わたしは帰らなければならない」
悲痛な周波がミレーゼを中心に波紋のように広がり始めた。はじめは小さなさざ波のようだった周波は、みるみる波長を強めて強靭に広がり始めた。どこまでも続いている大海原に、ミレーゼの、祈りの里に帰りたいという悲願がものすごいスピードで広がっていった。
千早は祈りの里に帰りたいというミレーゼの願いに力を添えて、祈りの浜の出現を願おうとした。ミレーゼにくっついて祈りの浜に上陸し、あわよくば命の種を手に入れようともくろんだ。しかし、ミレーゼが発している悲痛な周波は、電磁波のように千早の脳を締め付けて苦痛を与えた。
あまりの痛みで何も考えられないうえに、体まで縛りつけらたように動かない。ミレーゼの激しい悲しみが容赦なく千早の中に流れ込んできて、瞬く間に千早から生きる気力を奪っていった。
人は魂を揺さぶるほどの絶望的な悲しみに直面すると、生きたいという気持ちがなくなって、死んでしまいたくなるものなのだな、と苦痛にも似た悲しみの中で、千早は気がついてしまった。
真美が分娩室で息を引き取ったとき、自分はどうしていただろう、と虚無的な感情の中をまさぐった。あれは、恐怖そのものだった。目の前で、医師や看護師が必死の手当てをしているにもかかわらず、真美が死んでいこうとしているのを、呆然と見ているしかなかったのだから。
心の中では、たくさんの言葉を叫んでいた。いやだ。死なないでくれ。真美。頑張れ。なんとか生きてくれ。怖いよ。真美。死ぬなよ。赤ん坊だけ残されても、どうしていいかわかんないよ。死ぬなら、赤ん坊も一緒に連れて行ってよ。赤ん坊を置いていかれても、どうやって育てていいかわかんないよ。真美。いやだ。死なないで!
耳の中でゴボゴボと音がしていた。千早は自分が海に落下して、吸い込まれるように沈んでいることにも気がつかなかった。千早の耳の奥のさらに奥で、新生児の元気な産声が聞こえていた。死と生の入れ替わりに立ち会って、十九歳だった千早は、どう対応していいかわからずに、いつの間にか両腕に抱かされていた、生まれたばかりの赤ん坊を眺めていた。赤ん坊が無事に生まれて、うれしいのかどうかさえわからなかった。
千早は海水の中で、はらはらと涙をこぼした。あの赤ん坊は、十歳になったよ真美。紡っていうんだ。僕がつけた名前だよ。物語を紡ぐんだ。君と僕の物語。そして、紡と僕が生きていたという証の物語だよ。ちょっと生意気だけど、とてもいい子だ。真美。紡を残してくれて、ありがとう。紡がいたから頑張れたよ。
沈みながら、千早は朦朧とした目を開けた。少し先を胎児のように体を丸めた紡が、目を閉じて、ぐったりと沈んでいく。
紡! と千早は水の中で紡を呼んだ。口からも鼻からも空気の気泡がかたまりになって吐き出された。一緒に死のう、紡。パパが抱いてあげるよ。二人で、ママのところに行こう。ね、紡。
千早は苦しい表情で紡に泳ぎ寄ると、かきいだくように抱きしめた。苦しそうだった千早の表情が安らぎにかわった。千早の肺の中にはすでに空気がなくなっていた。このまま海水を鼻や口から吸いこめば、肺は海水で満たされて溺死する。
最後に千早は、光り輝く海面を見上げた。なんてきれいなのだろう。姿を現さない太陽は、時が止まったように同じ陽光を投げかけている。影さえできない眩しさなのに、不思議なことに熱を感じない。やはり変だよな、と千早は薄れていく意識でおもった。それにしても、青い海の中から見上げる海面は、キラキラ輝いて鏡のようだ。
その乱反射する海面から、二本の矢が鋭く水を切り裂いて突入してきた。バーツラフとディジュだった。