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笑うバーツラフ  作者: 深瀬静流
6/14

ディジュと黄金の果実

 二メートルほど斜面を転がり落ちて、柔らかな砂の上で折り重なって止まった。痛む腰や背中にうめきながら周りを見回すと、ガラスの粉のような砂地がキラキラ光って広がっていた。今までいた森は消えてしまって、遠くに砂が盛り上がった山があった。

 服についた砂を払いながら、紡は、ここは日本の鳥取砂丘みたいだとおもった。鳥取砂丘の山を登りきると群青の日本海が広がっているが、いま見えている、あの砂山の頂に立ったなら、いったいどんな景色が見えるのだろうかとおもったりした。

「ツムグ。いたよ。あの泉のところだ」

 千早にいわれて、遠くへ向けていた目を千早が指差すほうへ向けた。いわれるまで気がつかなかったが、少し離れたところに、水がこんこんと湧き出ている泉があった。雨上がりの水溜りのような1メートルほどの水面がキラキラ光っている。湧き出る水の量と砂に消えていく量が等しいのか、泉は計ったように同じ大きさを保っていた。

 その泉の周りを、涼しげな椰子が何本もとりまいていて、まるで真夏のカレンダーのようだ。その泉のそばに若者がいた。祈りの姫もいた。バーツラフもいた。よく見ると、カエルとカニもピョンピョンはねている。

「あの人たち、なにをしているのかな」

 紡は眩しさに目を細めながら首をかしげた。彼らは、泉のそばに生えている一本の細い苗木を見つめていた。

「ほらツムグ。あの苗木は、たしか、若者が抱えていた苗木だよ。黄金色の丸い実がなっているだろ。黄金色だったから、よく覚えているんだよ」

「パパって恥ずかしいよね。聖ヴィート大聖堂のバーツラフの礼拝堂のドアとか、バーツラフのお墓とか、金目のものとなると見境がないよね」

「ツムグは生活の苦労を知らないから、そんなことをいうんだよ。ああ、そうか。バーツラフって、そのバーツラフだったのか。国が危機に陥った時は、白馬に乗って助けに来るって信じられている、チェコの英雄だったね。生意気そうなヤツだったけどね」

 紡と千早が、のんきな会話を交わしているうちに、苗木は目に見えて大きくなっていった。ありえない成長の早さに紡と千早は無言になった。

「どうなっているの」

 紡の呟きは、そのまま千早の呟きでもあった。樹高が九十センチぐらいしかなかった細い苗木は、根から泉の水を吸収してぐんぐん大きくなっていった。幹も太り、何本もの枝が放射状に伸びだして、若葉色の新芽が吹き出し、瞬く間に葉を広げはじめた。幹は見ている間に直径十センチに太り、樹高は二メートルまで達した。

 枝から枝までは横に測って五メートルあまり、こんもり葉を茂らせた木の姿は、大きな緑色のビーチパラソルを砂浜にさしたようだったが、千早が黄金色だと表現した果実は枝葉の中に埋もれて見えなかった。その果実も木とともに成長しており、枝葉の隙間から、黄金色の光がこぼれてくる。

 それまで呆然としていた祈りの姫が、はっと気づいて木に向かって走り出した。成長を続けている木の幹にしがみついて、力任せに引き抜こうとした。しかし、十二歳ぐらいの少女の力では、二メートルもある木を引き抜くのは無理だ。それでも彼女は、諦めずに木を揺すぶって、なんとか木を倒そうとしていた。

 若者が飛んでいって、祈りの姫を引きずり倒した。身長が百九十センチぐらいある、みごとな若者と、百四十センチぐらいしかない少女とでは、力の差がありすぎる。若者は誕生の木に成長した木の下で両腕を広げ、大きく実った果実を受け止めようとした。

 果実が放射している黄金色の光はしだいに強さを増していった。幹も、わずかな間に三倍に太り、今では直径が三十センチまで成長している。樹高も伸びて、三メートルになっていた。

 バーツラフは枝葉の中に隠れて成長している果実に注目していた。木の幹はますます太り、樹高もぐんぐん伸びていく。それにともなって黄金色の果実も大きくふくらんでいった。やがて直径一メートルまで成長した果実の重さに耐えかねて枝がしなり、果実が全貌を現した。

「なんだ。あれ」

 千早が目を見開いて、くいいるように黄金の果実を見つめた。果実の表皮がやわらかく波打ち始めた。表皮がしだいに半透明になっていく。果実の中で、何かがうごめいていた。

「人だ。中に人がいるよ!」

 紡が果実を指差して叫んだ。祈りの姫が動きをとめて目を見開いた。若者の黒い瞳が期待に燃えてらんらんと輝きだし、頬がみるみる紅潮していく。バーツラフは好奇心を隠そうともせず木に歩み寄った。カエルとカニも騒ぎ立てながら跳ね回った。

 果実の内部では、卵の中に納まっていた雛が、殻を破って出てこようとするように、中の生きものが動いていた。

 全員が固唾をのんで見守っていると、やがて皮を破って、娘の真っ白なつま先がそろりと出てきた。続いてほっそりとした美しいふくらはぎが現れる。さらに足の付け根まで外に出た。みずみずしい桃のような臀部が現れ、くびれた胴が出現し、豊かな胸を両腕で隠すようにして、つるんと全身が落下した。

 果実の下で待ち受けていた若者が全裸の娘を受け止めた。栗色の髪をした菫色の瞳の美しい娘は、若者の腕の中で目を開き、花のように微笑んだ。

 千早が紡の目を手で隠そうとした。

「なにするんだよ。パパ」

「だって、彼女、裸だからさ」

 紡は目を塞ごうとする手を払った。

「パパのほうこそ、見ちゃだめだよ」

 若者は、自分の上着を脱いで娘に着せかけ、ウエストに巻いていた幅の広い布をはずして、娘が着た上着のウエストに巻きつけた。若者の袖なしの上着は、娘が着るとロングドレスのようにエレガントだった。若者のほうは、ベルトがなくなってしまったので、だぶだぶの服になってしまったが、引き締まった若い体は、服の上からでも美しかった。

 抱き合って見詰め合っている二人の横で、役目を終えた誕生の木は、みるみる枯れていった。緑の葉は茶色に変色してかさかさと音をたてて散っていく。葉が落ちた木はてっぺんの枝の先から茶色の粉となって風に吹かれていった。

 祈りの姫が胸の前で手を組み、消えていく誕生の木に、哀切な旋律の周波を送り出した。魂を揺さぶる悲しみの周波は鎮魂歌だった。

 祈りの姫は、はらはら涙をこぼし続けた。祈りの苗木を取り戻せなかった姫の悲痛な周波は、紡と千早の体を冷たく締めつけていった。痛みというより、苦悩に近い感情に締め上げられていくうちに、胸が張り裂けそうな悲しみがおそってきた。

 二人はもがくように身をくねらせて砂の上に膝から崩れた。心細さと不安が大きくなっていく。悲しみに絡め取られた心から、千早の気楽な陽気さや、紡の子供らしい元気がみるみる消えていった。無気力が二人の心を支配しはじめた。

 地に植えられて誕生の木に成長した祈りの苗木は、黄金色の果実が娘を生み落としたあと、役目をはたして消滅しつつあった。

 葉が静かに落下し、枝が細って枯れはじめ、茶色の粉になって消えていく。あんなに立派だった幹も焦げ茶色の粉になって降り積もり、しまいには風にさらわれて、あとには何も残らなかった。

 祈りの姫は、祈りの苗木があった場所に身を投げ出して泣き続け、小さな蝶が慰めるように羽を揺らめかせて姫の髪をなでている。若者と娘は、抱きあったまま、そのようすをじっと見つめている。カエルとカニも、騒ぐことを忘れたように動かなかった。

 バーツラフは冷静な緑色の瞳を、打ちひしがれている紡と千早に向けた。二人の表情からは希望の光が消え、悲しみと絶望が色濃く滲み出ていた。もはや、生きることよりも、死を願うような目の色をしていた。バーツラフは二人に歩み寄ると、腰を屈めて二人の顔を覗き込んだ。

 子供のほうは、学校や友だちとの約束や祖父母を思い出して泣いていた。懺悔することがたくさんあるらしい子供の泣きしゃべりは、他愛もなくて微笑ましかったが、父親のほうは大人だけあって複雑だった。どんな苦悩を抱え込んで生きてきたのかは知らないが、心の奥に閉じ込めた悲しみの感情が浮かび上がってきて、千早の死へ対する渇望が大きくなっていくようだった。

 死にたい。この苦しさから解放されるのならいっそのこと死んでしまいたいと訴える千早の、絶望にとり憑かれたような目の色を見て、バーツラフはブロンドの眉をひそめた。それは、かつてバーツラフがボヘミアの王として一国を守っていたときの民の表情と同じだった。

 ヨーロッパの真ん中にあるボヘミアは、常に近隣諸国の侵略に脅かされていた。戦に疲れ、飢えて生きる希望を無くした民の絶望が脳裏に焼きついていた。自国を侵略から守ることに翻弄されていたバーツラフにとって、戦火にあえぐ民こそ救わねばならぬものだった。絶望こそ敵! 希望こそ味方! バーツラフは、意思的な唇を引き結ぶと、祈りの姫のところにつかつかと歩み寄った。

「そなた。立つがよい」

 砂に身を投げだして泣いていた祈りの姫が顔を上げた。

「あそこにいる親子を見よ。そなたの思念が彼らに流れ込んで危険なことになっておる。この世界の住人は平気らしいが、彼らは命あるもの。この世界のものではない。泣き止んで、彼らを助けよ」

 ぴしりと命令されて、祈りの姫は紡と千早を振り向いた。十二歳ぐらいの少女にしか見えない姫だったが、立ち上がって驚いたように目を見開いた顔はおとなびていた。

「まあ! 闖入者ではありませんか。どうやってこの世界にやって来きたのですか。まさか、祈りの力が弱まっているのでは。時の狭間にほころびができたのですか」

 祈りの姫はバーツラフにそう尋ねた。

「そなたの言葉はわからぬ。言葉だけではなく、この世界そのものもわからぬ。なんとかいたせ」

 命令することに慣れているバーツラフは、胸を張って手を後ろに組んだ。尊大な態度だったが、祈りの姫は気にするふうでもなくバーツラフに向かって手を大きく振った。祈りの姫の手の動きに合わせて銀色の粉がキラキラとバーツラフに降りそそいだ。

「さあ。これで言葉が通じるでしょう。話しなさい」

 これまた命令することに慣れている祈りの姫がバーツラフに命じた。

「話しなさいだと! お話くださいませ、王様、といわぬか。無礼な小娘だ」

「小娘とはなんです。わたしは祈りの里の祈りの姫です。祈りの浜に流れついた命の種を大切に育てて、生き者を誕生させる、祈りの里の長です。おまえこそ、どこの誰か!」

「おまえだと! 里の姫ぐらいで生意気な。余のほうはボヘミアの王であるぞ。打ち首にしてくれる」

 カエルとカニが弾かれたように走り寄った。バーツラフに向かってピョンピヨン跳ねる。

「ケラケラ。伝説の祈りの姫に向かって、なんてことを言うんだよ。祈りの里はこの世界のすべての根源なんだぞ」

「キヨキヨ。そうよ。伝説の祈りの姫はこの世界で最も大切な方なのよ。口のきき方に気をつけて」

「カエルとカニもしゃべるのか。ふん、これはおもしろい。では姫よ。早くあの二人をなんとかいたせ」

 指差されて、祈りの姫は紡と千早に歩み寄った。バーツラフにしたように、二人に向かって手を振り上げた。銀の粉がきらきらと降りかかった。

「闖入者たちよ。立ちなさい」

 姫に声をかけられて紡と千早は我に返った。ぼんやりした顔つきでのろのろ立ち上がる。

悪夢を見ていたような気分だった。急になにもかもどうでもよくなってきて、次から次に悲しみが襲ってきて絶望的な気持ちになった。一度に押し寄せてきた悲しみに押し流されて、自我が流されていった。千早は夢から覚めたように顔をごしごし擦った。

「いまのは何だったんだ。急に死にたくなるなんて」

 まだはっきりしない頭で千早は紡に振り向いた。紡は頬を濡らしている涙を不思議そうにぬぐっていた。

「なんで泣いていたのかな。よくわからないけど、無性におじいちゃんとおばあちゃんに会いたくなったんだよね。パパ。ぼくはお家に帰りたいよ。おじいちゃんとおばあちゃんのところに帰りたい」

「うん。そうだね」

 千早が紡の肩を抱き寄せた。目の前にいる祈りの姫と目が合った紡は、思わず千早の背中に隠れた。祈りの姫のほうは、子供が珍しのか紡のほうに寄って行った。そんな二人の様子に、千早がにっこり笑った。

「きみは蝶に乗った戦士の女の子だね。驚いたよ。あんなに大きな蝶を見たのははじめてなんだ」

 早くも元の調子に戻っていつもの軽い口調で祈りの姫に話しかける。祈りの姫の髪に止まっていた、桜の花びらぐらいの大きさの蝶が、挨拶するように銀色の羽を羽ばたかせてしゃべりだした。

「私は祈りの里を守る蝶の軍団の長です。祈りの苗木を盗んだ若者を追ってこんな遠くまで来てしまったが、祈りの苗木を失ってしまっては、もう祈りの里には戻れないかもしれません」

 蝶に似つかわしくない重々しい中年の男性の声だった。大きな黒い両目のあいだにクリスタルの石がはまっていて、透明な光を放射している。紡は祈りの姫と向き合った。

「どうして祈りの里に帰れないの」

「それは……」

 祈りの姫は、どのように説明していいのか、悩むように目を伏せた。蝶がまた羽をふるわせて口を開いた。

「若者を追って、結界を越えてしまったからです。蝶の軍団は乾いた土地から先の、草の大地には入ってこなかったでしょう? しかし姫は越えてしまった。だから、祈りの里がどの方角にあるのか、わからなくなってしまったのです。祈りの苗木があったら、苗木が導いてくれたのですが、もう遅い。帰る方向がわからなくなった。つまり迷子になってしまったのです」

 重々しい声で蝶にそういわれると、なんだか悪いことをして叱られているような気分になった。そうおもうのは紡だけではないようで、祈りの姫もしょんぼりするし、若者と娘も困ったように抱き合って頬を寄せ合った。

「じゃあ、これからどうするの」

 紡に訊かれて、祈りの姫は、肩を落とした。

「祈りの里を求めてさすらうことになるでしょう」

「たいへんだね。ぼくたちも、もとの世界に帰りたいんだけど、方法がわからないんだよ」

 紡と祈りの姫は、互いに顔を見合わせてため息をついた。気を取り直して紡は姫に笑いかけた。

「ところで、ぼくは桃井紡。小学四年生だよ。一人っ子なんだ。この人がぼくのパパで、アパレル関係の仕事をしてるの」

 紡は自己紹介した。祈りの姫は銀色の眉をひそめた。

「アパレル? 小学四年生? パパ? なんのことです」

「え? 学校へ行っていないの? パパって、お父さんのことだよ」

「学校。お父さん。とは、なんです」

「お父さんっていうのは、親のことだよ。お母さんとお父さんが結婚して、ぼくが生まれたんだ。だから、お父さんとお母さんは、ぼくの両親」

「両親? 結婚? わかりません」

 紡と千早は顔を見合わせた。まるで話しが通じない。若者と娘が寄ってきた。カエルとカニにもそばに寄る。バーツラフが不思議そうに祈りの姫を見下ろした。

「そなたには、父母はおらぬのか」

「父母の意味がわかりません。あなたがた闖入者は、なにをいっているのですか。そこの幼な子は、いま、お父さんとお母さんが結婚をして、ぼくが生まれたといいましたね。ここでは生きものは、祈りの浜に流れ着いた命の種を、わたしたち祈りの里のものが畑に植えて世話をし、命よ育てと祈り、やがて誕生の木に成長した苗木が黄金の実を実らせて生きものを生み落とすのです」

 そういって姫は、若者と抱き合っている娘を指差して咎めるように睨みつけた。娘が怯えたように若者にしがみつき、若者は娘を庇って胸の中に隠した。

「ええ? じゃあ、この世界では、流れ着いた種を植えて木になって実が熟して、あのおねえさんみたいに生まれるの」と、紡。

「すごいねえ。単純で簡単でいいねえ」

 千早もそんなことをいって笑った。バーツラフもクスクス笑っている。しかし、祈りの姫はそうではなかった。

「祈りの里から苗木を盗んだ泥棒め。許しません。消えておしまい!」

 姫は抱き合っている二人に手を振り上げた。銀色の粉ではなく真っ黒な粉が、振り上げた手から少しだけこぼれた。その手首を、千早が掴んだ。

「やめようね。もう木は枯れてなくなってしまったんだし。いまさら腹を立てても元にはもどらないからさ。この手を下ろそう? それより、君の名前を教えてよ」

 うるさそうに千早の手を振り払って祈りの姫は唇をかんだ。黒い粉が降りかかっていたら、若者と娘は黒い炭になっていただろう。黒い炭になった状態で、朽ちて粉になって消えるまで立ち尽くすことになっていただろう。そんなことも知らないで、恋人達はそっと後退りした。

「わたしの名前は、祈りの姫です。みなからそう呼ばれています」

 姫が気を取り直して、誇らしげに胸を張った。カエルとカニも跳ねる。

「ケラケラ。オレ様は川下のものっていうんだ。川下にいるものは、みんな川下のものと呼ばれているんだよ」

「キヨキヨ。わたしは川上のものよ。わたしたちが通ってきた洞窟みたいなものは、動かざるものっていうのよ。動かざるものは移動しないの」

「それって、名前じゃないよ。名前というのは、自分とほかの人とを区別する呼び方だよ」

 紡がそういうと、彼らは首をかしげた。紡は恋人達にも訊いてみた。

「おにいさんとおねえさんの名前は? あるよね、人間だから」

 恋人達は互いに顔を見合わせて首を横に振った。

「人間がなんなのかは知らないが、俺は、柵の中だ」

「わたしも、柵の中よ」

「なに、それ」

 紡は目を丸くした。

「名前という概念がないのだな」と、バーツラフが全員を見わたして続ける。

「われらは、父母から生れ、名をさずかる。しかし、この世界では、浜に流れついた種から生まれるという。名をつけてくれるものがおらねば名は無くて当然。われらの世界では、すべてのものに名前がある。ならば、この世界でも、名をつければよいのだ。余が名を授けよう」

 バーツラフは祈りの姫を指差した。

「姫よ。そなたの名はミレーゼだ。次に蝶。蝶の名はエルリラ。カエルはガブニ。カニはボナ。若者はディジュ。娘はロージェ。どうだ。よい名であろう」

「ずるいよ王様! 一人で全部つけちゃって。カエルとカニはぼくが名前をつけたかったのに。ずっと一緒だったんだからね」

 紡が文句をいっても、バーツラフはフンと鼻で笑っただけだった。紡は悔しくて髪をかきむしって泣き出した。

「いやだ、いやだ。カエルとカニはぼくが名前を付けるんだ。だって友だちなんだもん!」

「ケラケラ。ともだちってなんだ」

「キヨキヨ。ともだちってなにかしら。この子供は、訳の分からないことばかり言うわね」

 千早は髪の中から紡の手を抜いて、「だからツムグ。髪が抜けて禿げちゃうでしょ。やめなさい」といってから、カエルのガブニとカニのボナを見下ろした。

「あのね。友だちってね、仲良しのことなの。仲良しのふりをして悪口を言ったり、陰で苛めたりするけど、会えば一緒に遊ぶ子のことをいうんだよ」

「なにいってるんだよパパ! 違うよ。友だちはそんなことしないよ。一緒にいると楽しくて、いやなことも忘れちゃって、ずっと遊んでいたいとおもう仲良しのことだよ。だからカエルとカニはぼくの友だちなんだ」

「ツムグとやら、カエルとカニではなく、ガブニとボナである。ところで、そなたの父親はなんという名だ」

「ぼくのパパの名前は桃井千早といいます。あ、チハヤ・モモイになるのかな」

「桃井さんと呼んでくれたまえ」

 千早が偉そうに胸をはって握手をしようとバーツラフに片手を差し出した。

「無礼者! 平民が王に向かって馴れ馴れしくするでない。打ち首にされたいか」

 バーツラフが腰の剣に手をかけたので、千早は慌てて飛び下がった。

「そう怒るなよ。堅苦しいことは抜きにしようよ。ここはボヘミヤじゃないんだからさ」

「王に敬意を払うなら大目に見てもよいが、余のことは王様と呼ぶがよい」

「じゃあ、僕のことは桃井さんと呼んでね」

「『さん』とはどういう意味だ」

 バーツラフが紡に尋ねた。

「王様。『さん』というのはね、『あなたは偉い。あなたは立派。あなたはすごい。私とあなたは対等だ』、という人にだけ、名前のあとに『さん』を付けるんだよ」

「なんと! 恐れ多くも余に向かって『さん』を付けろというか。打ち首決定だ!」

 剣を抜いたバーツラフが千早に向かって大きく剣を振りかぶった。

「パパ、逃げて!」

 千早が慌てて走り出した。バーツラフが剣を振り回しながらあとを追う。

「すこしは懲りるといいんだ」

 呟いて紡は、抱き合っている恋人たちに振り向いた。


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