パパ。よけいなことはしないでよね
カエルとカニを追って、自分の背丈ぐらいある大岩を身軽によじ登っていく紡を目で追いながら、千早はさらに先にある滝の落ち口を気にしていた。
あと三メートルほど登れば滝口につく。見上げると滝の落ち口は一つではなく、二つの穴から落下していた。二つ並んでいるために遠くからだと一つの穴に見えたのだ。その滝口の周りを大岩が取り囲んでいて、大岩の周りをさらに密生した樹木が覆っていた。
紡はカエルとカニを追いかけていくのに夢中になっているが、このまま登っていっても滝口までしか行けないし、さらに登るとすればジャングルのような山の中に入っていくしかない。
「きりが無いよね。だいいち、僕たちはバーツラフを追いかけているんだよね。カエルとカニを追いかけているわけじゃないんだよね」
千早は小さくため息をこぼして紡に声をかけるために足を止めた。
「ツムグ。戻ろう。バーツラフを追いかけなくちゃ」
カエルとカニが振り向いた。
「ケラケラ。バカズラフだとよ。あの闖入者はバカズラフというのだな」
「キヨキヨ。ちがうわよ。バーツラフよ。バーツラフ!」
「ケラケラ。オレ様はバーツラフといったよ。ちゃんと聞いてろよ。そのバーツラフは、こっちなんだよ。ここを行ったんだ。ケラケラ」
「キヨキヨ。そうよ。バーツラフは、ここを行ったのよ。キヨキヨ」
カエルとカニがピョンピョン跳ねて、今まで以上の速さで大岩を登りはじめた。紡もつられてあとを追う。
「待ちなさい。ツムグ」
千早の制止が聞こえないのか、紡はぐんぐん滝の落ち口に近づいていった。ダムの放水のように大量の水が二つの穴から水煙をあげて、ほぼ垂直の岩場を落下していく。水音もすさまじくて耳がおかしくなりそうだ。濡れて滑りやすくなっている岩にしがみつきながら、紡は首をねじって下を覗いた。
登ってきた岩場のあまりの高さに目を閉じた。きつく岩にしがみつき心の準備をしてからもう一度目を開ける。
岩場に穿たれた二つの穴から水が大量に落下していき、滝つぼに落ちた水は川の流れとなって下っていく。しかし、その川幅が、下れば下るほど細くなっていくのだ。ふつう川とは、分水嶺の山から染み出した水が下っていくにつれて、しだいに細い流れと合流して大河となり、海に注ぎ込むものだが、ここの川は逆だった。山の中腹からダムのように放出された水は、下っていくにしたがって細くなって消えていくのだ。
「どうなっているんだろ」
自然の摂理に反する現象に、紡は忘れていた不安を思い出した。千早を見ると、千早は岩にもたれてハアハアしていた。
「パパ。やっぱりここは変だよ」
「今頃わかったのかい」
息を切らせた千早は、気を取り直して笑みを浮かべた。
「でも、だいじょうぶ。パパがいるからね」
「うへ。いちばん信用できないんだけど」
「傷つくなあ。それが我が子のいうことかい」
たいして傷ついたようすもなく千早は眼下を見下ろした。この高さからなら、宝物庫の扉から放り出された乾いた大地が見えてもいいはずだ。それなのに、はるか先は草原が広がっているだけで、草原は乾いた土地につながってはいなかった。見えないのではなく、消滅していた。消滅する世界などというものはあるのだろうか。消滅しているとおもっても、この川を下って乾いた土地を目指して歩いたら、たぶん、たぶんだが、乾いた土地が出現するのではないか。
千早はくらりとめまいがした。なんという世界だろう。どういう法則で出来上がっているのだろう。自分たちの常識が通用しないように思える一方で、どこかで自分たちの世界を色濃く反映しているようにもおもえるのだ。千早はそんな混乱を胸に収めて鋭く滝の落ち口を観察した。
「ケラケラ」
「キヨキヨ」
カエルとカニが鳴いた。彼らは鳴き交わしながら自分たちの背たけの何万倍もある大岩の隙間をなめらかに進んで、滝の落ち口にたどりついた。
カエルとカニが鳴き交わす声で二匹の生きものの存在を思い出した千早は、みるともなく彼らを眺めた。するとカエルとカニは千早の見ている前で姿を消した。
「パパ! カエルとカニがいなくなったよ」
紡も見ていたようで、大きな声を出した。
「どこかの隙間にでも隠れたんだろ」と、千早。
「滝の中に入っていったのかもしれない」
紡は心配で泣きそうな顔をしている。
「水の中に戻っていったわけだ」
「まあ、そうなんだろうけど」
紡は腑におちないような顔つきでカエルとカニが消えたあたりを探したが、何トンもの水量が落下している滝の中に入っていって無事だとはおもえない。キヨキヨ、ケラケラと鳴き交わすかわいいカエルとカニに慰められていた紡は、二匹が水圧で潰されて死んでしまったとおもって泣きそうになった。
「戻ろうツムグ。先に進んでも体力を使うだけだし、戻って草原で昼寝でもしようよ。疲れちゃったよ」
「……」
紡は返事をしなかった。唇を噛んで泣くまいと我慢している気持ちもわからないではないが、いつまでもこうしていたってしかたがない。千早は岩の隙間の石ころを拾いあげると、気を紛らすように滝に向かって投げつけた。
石は流れ落ちる激流に跳ね飛ばされるとおもったが、意外にすんなりと滝の中に消えた。千早は「あれ?」と首を傾げた。滝の端からカエルとカニが出てきて、ケラケラ、キヨキヨ、と騒がしく鳴いた。
「ケラケラ! 石を投げたのは誰だ。危ないだろうが! もう少しでオレ様に当たるところだったぞ」
「キヨキヨ! へたくそ! はずれたじゃないの。おもしろいところを見損なったわ」
「ケラケラ! なんだとブス。おまえこそ石に当たってつぶれてしまえばよかったんだ」
騒がしく鳴き交わしているカエルとカニは、鳴き交わしながらまた滝の中に姿を消した。千早は目を見開いて声を飲み込んだ。
「ツムグ! 滝の中に入ってみてよ。滝の中に、なにがあるかたしかめてみてよ」
カエルとカニの元気な姿に安心して胸を撫で下ろしていた紡はぎょっとした。
「なにいってるんだよパパ。子供のぼくに、このすごい滝の中に突っ込めっていうの。死んじゃうよ!」
「大丈夫だよ。だって、カエルとカニは滝の中に入って行ったよ」
「じゃあ、パパが行けばいいじゃないか。子供のぼくにさせないで、そういう人体実験は、親がするべきでしょう」
「ううううんん。僕は泳げないんだよ。そんな恥ずかしいことを、親に言わせないでよね」
紡は呆れて目を見開いた。千早は顔を真っ赤にさせて震えていた。泳げないのは本当かもしれなかった。小学四年生の自分が泳げるのに、いい年をした男が泳げないといって身を震わせているのをみると、なんだか哀れになってくる。父親の小学生の時には、水泳の授業はなかったのだろうか。
「あのさ。小学校の授業を真面目に受けていたら、水泳の授業で水に浮くくらいはできるようになっているとおもうんだけど」と紡は、少しばかりの優越感で肩をそびやかした。
「僕は水が怖いんだよ!」
怒ったように千早が怒鳴った。紡は、ハァーとため息をついた。ここまで怯えてダダをこねているのをみては、何とかしないといけないとおもってしまう。
「わかったよ」
しぶしぶいったら、千早がぱっと顔を輝かせた。
「ツムグ。ありがとう。気をつけてね。死にそうだったらすぐに引き返してね」
ああ、失敗した。うまく乗せられた。騙されたような気もする。相手は自分より一枚も二枚も上手だ。なんと自分はお人よしな小学生なのだろう。
紡は肩を落として千早を睨みつけた。しかし、そんなことをしても気にする千早ではない。うきうきしながら両手をこすり合わせている。
「さあ、行って。ツムグならできるよ。おまえには勇気がある。おまけに逞しくて頼りになる男の中の男だ。パパはここで待ってるよ」
だめだ! この親は、なんの頼りにもならない。信じられるのは自分だけだ。生き延びたければ、自分がしっかりしなくてはいけないんだ!
紡は悲壮な決意で滝を睨みつけた。大岩の隙間から乱暴なほどの水圧でとびだしてくる水の体積に体が震えてくる。小さな自分の体など、ひとたまりもなく押しつぶされてしまいそうだ。無理だ。どう考えても無事でいられるわけがない。
紡は恨めしげに千早を振り返った。千早は気楽な顔をして小石を手の上でもてあそんでいた。それをひょいと滝に投げつけた。水圧で弾き返されるとおもった小石は、紡の見ている前で滝に吸いこまれて消えた。千早がもう一つ石を手にして、こんどは別の場所を狙って投げた。こんども小石は滝の中になめらかに飲み込まれていった。カエルが再び滝の際から這い出てきて紡たちに向かってケラケラ鳴いた。
「ケラケラ。だから石を投げるなっていってるだろうが。わからねえやつらだな」
次にカニが出てきた。
「キヨキヨ。わたしは子供は好きだけど、いけないことをしたら叱らなければいけないわ。子供は、していいことと悪いことの区別がつかないから、正しく教育しないといけないの。それがおとなのつとめというものよ。キヨキヨ」
カニはてっきり紡の仕業だとおもったようだ。でも、カエルのほうは小首をかしげた。
「ケラケラ。でもよ、子供より、どうもおとなのほうが問題ありなようなきがするな。子供っていうのは、たいがいおとなを見て大きくなるものなんだろう。てえことは、おとなに問題があるということになるだろうよ。ケラケラ」
「キヨキヨ。いいえ。わるいことをするのは、物の道理をわきまえない子供のすることときまっているのよ。だから子供なんですもの。でも、わたしは子供が大好き。キヨキヨ」
「ケラケラ。とにかく二人とも、早くこっちに来いや。ケラケラ」
「キヨキヨ。バーツラフを追いかけるんでしょう。いらっしゃい、子供とおとな。キヨキヨ」
カエルとカニは、鳴きあいながら滝の端から水の中に戻っていった。その様子をまじまじと眺めていた紡は、二匹が消えたあたりににじり寄った。たちまち飛沫が全身を濡らした。細かすぎて霧状になっている飛沫は、息をすると肺にまで流れ込んでむせて咳き込んだ。
紡は落下する水のなかに恐る恐る手だけ入れてみた。どれほどの水圧がかかるかとおもったら、水の幕はレースのカーテンほどの抵抗感で紡の細い腕を撫でるように滑り落ちていった。水は冷たいけれど、これなら大丈夫と安心できたので、大きく息を吸い込んで目をつむり、思いきって頭を水の中に入れてみた。
水の幕の向こうに頭が出たので目を開けてみたら、大きな洞窟が目の前に口を開けていた。紡は急いで水の幕をくぐり抜けた。
洞窟の入り口は濡れていて、背丈ほどもある大きなシダの葉が猛々しく群生していた。シダの根元には青や紫のキノコがびっしりはえている。洞窟の天井からは水が滴り落ち、木の根が天井の岩を破って垂れ下がっている。洞窟内は暗くてよく見えないが、真っ暗というわけでもなくて、奥のほうは明るかった。中に入って目が慣れれば、もうすこしよく見えるようになるかもしれない。トンボとよく似た虫が無数に飛び交っている内部に入ると、湿った土の臭いのする暖かい風が、奥のほうから吹きつけてきた。濡れて寒さでこわばっていた肌が、たちまちほぐれていく。頭にへばりついている髪をかき回すと、ドライヤーを当てているようで気持ちよかった。
「すごいな。洞窟があるのをカエルとカニは知っていたのかな。行き止まりかとおもって、どうしようかとおもっていたんだ」
カエルとカニが苛立たしげに土を掻いた。
「ケラケラ。急げったら急げよ。なんてのろまな子供なんだ。バーツラフに追いつきたくないのかよ。ケラケラ」
「キヨキヨ。あの少女の強い思念を感じるわ。おしゃべりな風が噂していたように、あの少女が祈りの姫なら大変だわ。あの若者の思念もどんどん強くなってきている。急ぎましょう。バーツラフは、あの二人と一緒にいるわ。キヨキヨ」
二匹は岩を迂回しながら洞窟の奥に進んだ。紡は岩に腰を下ろして水の幕の向こうにいる千早を大声でよんだ。
「パパ。大丈夫だよ。来て」
声が聞こえたのか、目をつむった千早が勢いよく滝の中から現れた。プハーと息を吐いてから、せわしなく息を吸ったり吐いたりしている。泳げないというのはどうやら本当のようだった。目をあけて周りを見回しながら長髪をかきまわす。
「ヘアースタイルが台無しだよ。僕の髪の毛はこしがないからふんわりさせるのがたいへんなんだよ」
たしかに風で乾き始めた千早の髪は、風呂上りのような、さらさらのストレートになってしまっている。
「行こうパパ。カエルとカニが先に行っちゃったよ」
髪を気にして盛んに頭をいじっている父親を促した。
「今行くよ。洞窟の奥が明るいから出られそうだね」
紡が背中を向けた隙に、千早はポケットから櫛を取り出して急いで髪を整えた。
「髪なんかどうでもいいよ。誰も見てないし、見ていたってパパの頭なんか誰も気にしないよ。ほんとにもう」
髪をとかしているところを見つかって、千早はばつが悪そうに横を向いた。
「いいじゃないか。髪をとかすくらい。意地悪だな」
呟いたが紡には聞こえていない。カエルとカニを追うのに真剣になっている。千早は天井の岩の間から無数に垂れている木の根を一本、何の気なしにひっぱてみた。すると洞窟全体の木の根がぴらぴら揺れた。不思議におもって木の根をまとめて揺すってみたら、洞窟のはるか上の地中から、くぐもった地鳴りが伝わってきた。何か関連があるのかと不思議におもい、手近な太い木の根を力任せに引き抜いた。
地中から、ハアーックションとういうくぐもった音がして、天井の岩の隙間のあちこちから勢いよく風が吹き出してきた。両脇の岩棚が収縮するようにビクビク動いている。前を歩いていた紡が振り向いた。
「洞窟が動いているよ。地震かな」
「いやあ、なんか、へんなんだよね。この木の根をひっぱたり動かしたりすると、洞窟が動くみたいなんだよ」
「よけいなことはしないで、はやくおいでよ」
「うん」
うなずいて千早は、いちばん太くて丈夫そうな木の根につかまってぶら下がった。足を大きく動かして反動をつけて、びゅんと宙を飛ぶ。
「わあ、ツムグ。おもしろいよ。おまえもやってごらんよ」
紡を追い越して岩の上にポンと着地したとき、洞窟が不気味な音をたてて揺れはじめた。近くの大岩が瞬時にせり上がり、天井の大岩と噛みあうように重なり合ったとおもったら轟音が洞窟内に響きわった。
「洞窟が崩れた!」
紡は叫びながら、とっさに岩と岩の隙間にもぐりこんだ。潰されずにすんだが、紡は千早を振り向く余裕もなかった。「へエエークション!」という大きな声が、崩落した洞窟に響き渡った。真っ暗になってしまった洞窟の中で、紡は驚いて腰を抜かした。
「今の聞いた? 洞窟がくしゃみしたよ」
「洞窟はくしゃみなんかしないよ」
間髪いれず千早が言い返してきた。すぐ近くにいるらしいが真っ暗なので姿は見えない。カエルが岩の上で首を伸ばして喉を鳴らした。
「ケラケラ。木の根がわさわさ揺れているぞ。くすぐったそうに岩が揺れている。もしかしてこいつ、動かざるものか?」
カエルにこたえるようにカニの目玉がクリクリ動いた。
「キヨキヨ。わたしの住んでいた場所じゃないからわからないけど、この岩の並びかたは獣の歯並びに見えない?」
「ケラケラ。おいおい。物騒なことをいうなよ」
「キヨキヨ。だって、くしゃみをしたじゃないの。垂れ下がっている木の根は、鼻毛だったのよ」
二匹がめまぐるしくあたりを走り回った。二匹が動き回ったところが緩やかに波打ちはじめる。洞窟の奥の、光がさしていたあたりは完全に岩で塞がれてしまっていて、重なり合った岩が歯軋りするように横に動くと、洞窟内に不気味な轟音が充満した。
「よく寝たなあ。寝すぎて口の中がカラカラだ」
洞窟の中に、誰のものとも知れないくぐもった野太い声が轟いた。まだ寝ぼけているのか、間延びした声だった。
「喉が渇いたなあ」
呟きとともに滝の水が、ごっくんごっくんとリズムをつけてどっと流れ込んできた。
「水だツムグ! 垂れている木の根に飛びつけ
「そんなこといったって、暗くて何も見えないよ」
叫び返しているあいだに、流れ込んできた水に足を取られてたちまち濁流に沈み込んだ。
「たすけて」
声を出そうとしたが口の中に水が流れ込んできて溺れそうになる。真っ暗な水の中で目を開けても何も見えないし、耳の中に入り込んだ水が耳の中でごうごう音をたてる。回転する水にもみくちゃにされながら、夢中で千早に助けを求めていた。
千早は大きな岩の上にはいつくばって何も見えない暗闇を見回していた。
「ツムグ。どこだ。返事をしろ」
叫んでも、渦を巻く水の音しか聞こえない。千早は青ざめて震えだした。
「ツムグ、泳いで自力で這い上がって来い。パパはなんの助けにもならないぞ」
そう叫びながら、両手を上に伸ばして無茶苦茶に振り回した。木の根が両腕に絡みつく。それを渾身の力で引きちぎった。
「グブファアア――クション!」
くしゃみによく似た轟音が洞内を震わせたとおもったら、奥にある出口の岩が跳ね戸のように大きく開いた。眩い光が差し込み、大量の水が流れ出していく。その水の上をカエルとカニがくるくる回転しながら流れていった。
「ケラケラ。どうやらこいつは、洞窟じゃなくて、オレ様たちと同じ住人みたいだな」
「キヨキヨ。だから、動かざるものよ。話しに聞いたことはあるけど、はじめて見たわ」
「ケラケラ。オレ様の知らない住人だな」
「キヨキヨ。わたしだって知らないわよ。あなたもわたしも、自分たちの居場所から離れたのは初めてですもの」
「ケラケラ。そうだな。オレ様たちは、自分たちの、いるべき場所、から離れなれない理だからな」
「キヨキヨ。その理のことなんだけど、どうしてわたしたちは、いるべき場所から出られたのかしら」
「ケラケラ。たぶん、闖入者のせいだとおもうぜ。バーツラフとかいう闖入者は、オレ様たちと同じ類だが、この子供とおとなは、本物の闖入者だ。たぶん、この二人にくっついて来たから、いるべき場所を離れることができたんだ」
「キヨキヨ。そうね。きっとそうだわ。いるべき場所のものは、いるべき場所から出られない。それが理。でもそれなら、あの少女が祈りの姫なら、どうして祈りの姫はいるべき場所からこんなところまで来れたのかしら」
「ケラケラ。あの子が祈りの姫なら、祈りの姫は若者が抱えていた、誕生の木を追いかけていたんだよ。でも、結界をこえてしまったから、姫はもう祈りの里に戻れないかもしれねえな」
「キヨキヨ。じゃあ、あの若者は、もしかして!」
「ケラケラ。うん。大変なことをやらかしたんだ」
「なんだか騒がしいけど、なにかあったのかい。客人」
動かざるものの声が洞窟の中に伝わってきた。
「ケラケラ。昼寝してたんだろ? 邪魔して悪かったな」
「キヨキヨ。あなたのような動かざるものは、ほかにもいるの?」
「さあな。いたとしても、会ったことが無いんでわからないなあ」
「ケラケラ。たしかにそうだな。動けないんだから」
「キヨキヨ。わたしたちは、ずっと川下のほうから来たのよ」
「旅人とは珍しいな。あそこでぐったりしている男と子供は闖入者じゃないのかい」
「ケラケラ。闖入者なんだよ」
「キヨキヨ。親子みたいよ」
「親子の闖入者か。ほんとうに珍しいな。で、どこに行くんだい」
「ケラケラ。バーツラフという、お、う、さ、ま、を追いかけているんだよ」
「キヨキヨ。お、う、さ、ま、を追いかけているのよ」
「そうかい。お、う、さ、ま、に会ったらよろしく言ってくれよ。おれはもう少し寝るとするよ。じゃあ、達者でな」
「ケラケラ。ありがとうよ」
「キヨキヨ。あとで子供とおとなに、あなたのことは話しておくわ」」
カエルとカニは、動かざるものに挨拶してから後ろを振り返った。引いた水の中で、紡がゼイゼイ喘ぎながら岩にしがみついていた。全身ずぶぬれで、顔の色は紙のように白い。恨めしげに見上げる先には、大岩の上にしゃがみこんだ千早が、目をぱちぱちさせて紡を見下ろしていた。
「心配したよ、ツムグ。真っ暗で何も見えないし、呼んでも返事をしないし、流されちゃったのかと思ったよ」
千早のほうは、ブーツの先が濡れているだけで、あとはどこも濡れていない。光が射し込む明るさのなかで、さらさらの髪をかっこよくかきあげて岩の上に座りなおし、何もなかったかのようにのんきに笑う。
紡の顔がみるみる赤くなった。ようやく息がととのったので、怒りに任せて立ち上がった。
「死ぬところだったんだよ! たすけてって言ったのがきこえなかったのかよ」
「きこえなかった」
「きこえなくても、親ならたすけるでしょ。ふつう」
「でも、僕は泳げないし。人にはできることとできないことがあるし。それに真っ暗で何も見えなかったし」
「言い訳ばっかり。それでも、たすけようとするのが親でしょ」
「過剰に期待されても困るよ。努力はするよ。でも、無事だったからよかったじゃないか。さあ、行こうツムグ。出口は開いたしね」
ひらりと岩から飛び降りて紡の手をとり、しっかり握りしめて歩き出した。紡はもっと怒りをぶつけてやりたかった。悔しくて悲しくて、どんなに怖かったかを、死ぬほど苦しかったかを、声を限りに訴えたかった。でも、なにを訴えてもこの親には通じないとおもうと、うつむいた頬にぽろりと涙がこぼれた。
「パパじゃなくてママだったらよかったな」
つぶやきがこぼれていた。ママが生きていたら、きっとなにを犠牲にしてもぼくをたすけてくれるだろう。強く抱きしめて無事を喜んでくれるだろう。なんの助けにもならない、あてにできない父親なんか、いらないや。パパなんか、いらない。
紡は千早の手をほどこうとして力をふるった。しかし、千早の手はびくともせず紡の手を握ってくる。その手の強さと暖かさに、もうひとしずく涙がこぼれた。
ぐずぐず鼻をすすってこぶしで目元を拭っている紡をやさしいまなざしで見下ろしていた千早は、表情を引き締めて前方を見据えた。
洞窟の外は相変わらずの森だったが、この森に吹いている風は軽やかで涼しかった。それまでは湿度が高くて暗い森だったのでシダやコケが多く、キノコもうじゃうじゃ生えていた。
この森は明るくて風通しがよくて陽光もシャワーのように降りそそいでくる。樹木も生き生きと緑の葉を茂らせ、色とりどりの美しい花があちこちに咲き乱れている。艶やかな実を重たげに実らせて甘い芳香を放っている木もあった。
梢からは小鳥のさえずりが聞こえてくるし、足元を見れば見たこともない昆虫が動いている。枝の葉っぱに隠れて、リスのような小動物がじっとこちらを窺っていたりする。紡は楽しくなってきた。柔らかな土の上を、先導するように先を行っていたカエルとカニが足を止めた。
「ケラケラ。遅いぞ、遅い! さっさと歩け! いや、走れ!」
「キヨキヨ。早く早く。感じるのよ。祈りの苗が成長しはじめたわ。急がなくちゃ!」
カエルとカニがピョンピヨン跳ねて、狂ったように走り出した。それが紡には、カエルとカニも喜んでいるように見えた。
「見てパパ。カエルとカニが、あんなにはしゃいでいるよ。たすかって喜んでいるんだね」
「僕には興奮しているようにしか見えないけどね。ものすごい速さで走っているじゃないか」
「そういわれれば……」
カエルとカニは、二人を先導するように草の隙間をどんどん進んでいく。ときどき姿が見えなくなるが、じきに戻ってきて二人を見上げてケラケラキヨキヨ鳴き声をあげた。
「ケラケラ。走れっていってるだろ」
「キヨキヨ。急ぐのよキヨキヨ。若者が抱えていた、祈りの苗木が成長して、誕生の木になろうとしているのよ。誕生に間に合わなくなるわ。急いで、キヨキヨ」
「ケラケラ。こいつらを置いて、オレ様たちで行っちまおうぜ。祈りの苗木の成長なんて、話には聞いたことがあっても、見るのは初めてだからよ」
「キヨキヨ。わたしもよ。だって、祈りの姫だって、伝説の人だと思っていたもの」
「ケラケラ。なら、行っちまおうぜ」
「キヨキヨ。ううんん。どうしようかしら。わたしも見逃したくないけれど」
「ケラケラ。オレ様は先にいくからな。おまえさんはそこで悩んでな」
「キヨキヨ。あ、ちょっと。キヨキヨ」
カエルがすばらしい跳躍で姿を消した。カニが慌てて両方の爪を振り回した。後ろでは、千早がツタを払いながら前進していた。紡は千早の服を掴んで、のろのろとついていく。
「このツタ、邪魔だね。ずっとこんなぐあいなのかな」
千早の背中に守られて楽をしている紡が、千早の苦労をいい気味だというように眺めている。
「ほんとに邪魔な蔦だな。鉈があればいいのにな。バーツラフは剣を持っていたよね。あれがほしいよ」
千早は枝に髪を絡ませながら奮闘していたが、もう疲れた声をだしている。
「頑張ってよ。パパはおとななんだからさ。父親だし、頑張れるよね」
紡は千早を励ましたが、ほんとうは自分もへとへとで、こんな森から早く抜け出したいとおもっていた。そんな紡の心の内を知ってか知らずか、千早が疲れたように息を吐いて、
「頑張れない。頑張らない。それが僕の生き方」といった。
「なにそれ」
情けないなあ、とがっかりしたときだった。前方を塞いでいる藪の茂みに千早が腕を一振りしたとき、足元の土が崩れて前につんのめった。腰にくっついていた紡も一緒になって、えぐれた斜面を転がり落ちていた。