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笑うバーツラフ  作者: 深瀬静流
4/14

ぼくたちは闖入者

 少し行くと、苔と草におおわれていた地面は、紙のように乾いた落ち葉でおおわれるようになった。歩くとかさこそと音がするのに、茂っている樹木の枝の葉は濃い緑色だ。葉が枝から落ちて地面につくと瞬時に枯葉になってしまうのだ。

 時々小鳥が飛んできて高い梢に止まり、警戒するように二人に首を伸ばした。耳をすませば、獣の鳴き声も聞こえてくる。不気味な感じではないが、生きものの気配が濃くなってきたので二人は身を寄せ合った。

「よくわからない世界だから、気をつけようね」

 千早がいった。紡はうなずいて千早の手をしっかり握りなおした。森はしだいに木が密集してきて土が湿りだした。乾いていた枯葉は水を含んだ腐葉土となり踏むと足が沈んだ。足を抜けば足型にじわじわと水がたまってくる。木漏れ日もなくなってきて薄暗い。

「パパ、王様の足あと、わかる?」

「見失ったねえ。さすがに腐葉土じゃあねえ」

「どうするの」

「ツムグならどうする」

 きかれても困ってしまう。人生の経験値は紡より千早ほうが三倍もあるのだから、千早にわからないなら紡にわかるわけがない。それでも紡は考えた。

「大きな声で王様を呼んでみたら? ぼくを呼んだときみたいに」

「そうだね。ほかにできることないもんね。じゃ、ツムグが呼んでみてよ」

「どうしてぼくなの」

「子供の声のほうが届くでしょ」

「じゃ、ぼくが」

 紡は息をいっぱい吸って声を張り上げた。

「おうさまーああああ。ガ、イ、コ、ツ、だ、った、お、う、さ、ま、あああああ」

 呼びおわって耳をすませた。森の中のあちこちから、紡の呼びかけにこたえるように生きもののざわめきが伝わってきた。紡の頭の上で何かが光を反射したので見上げてみると、木の枝に張り巡らせたクモの巣の真ん中に、ミラーグラスのサングラスをかけたピンクのクモが寝そべって、ハンモックのように巣を揺らしていた。たくさんある手の中の一本で東を指差す。

「あっちに行ったの?」

 紡が訊ねると、ピンクのクモが寝そべったまま足を組み替えて頷いた。

「あなたが探している闖入者は、銀色の髪の女の子を追いかけて行ったわよ。わたしたちの世界にとっては、あの闖入者はわたしたちに属するものだけど、あなたがたは違うようね。命ある本物の闖入者だわ。本物の闖入者は異物なのよね。異物はこの世界の在りかたの法則にしたがって排除されるのよ。だから早くこの世界から出て行ったほうがいいわよ」

「クモの鳴き声って、はじめてきいたよ。ニワトリみたいだね。コッコッコだって」

 紡はまじまじとピンクのクモを観察した。

「わたしの言っていることがわからないみたいね。銀色の髪の女の子が、おしゃべりな風が言っていた伝説の祈りの姫なら、祈りの姫に助けてもらいなさい」

 そういうと、ピンクのクモはくるりと背中を向けてしまった。

「行こう。パパ」

「うん」

 ピンクのクモの背中に「ありがとう」といって、千早の手を引いた。ピンクのクモが行く道を教えてくれたのがうれしかった。この世界の生きものに親切にされて勇気がわいた。何とかなるかもしれないとおもった。

 腐葉土の隙間をかいくぐってアリが行列していた。こげ茶に緑色の縞模様のアリたちは、一匹の大きさが三十センチぐらいあって、背中にデイパックのような袋を担いでいた。

「こんにちは。アリさん」

 紡はアリたちに声をかけた。

「闖入者だわ。さっき大きな声をだして誰かを呼んでいたのはこの子ね。何か困っているの?」

 一匹が足を止めて立ち上がった。するとほかのアリたちも次々に立ち上がる。

「王様を見なかったですか。ぼくたち、王様を追いかけているんです」

「何かしゃべっているわね」

「なにをしゃべっているのかしら」

「祈りの姫がいたらいいのに」

「祈りの姫!」

「あの銀色の髪の少女がもしかして!」

「おしゃべりな風が言っていた」

「伝説の!」

「あっちのほうに行ったわ!」

「あっちのほうに行ったわよ!」

「そうそう、あっちに行ったわ!」

「あっちよ!」

「あっち!」

「あっちだよ!」

 いっせいにアリたちがしゃべりだす。アリの声はふくらませた風船をこすりあわせたような声だった。

「あっちだって。行こうパパ」

 こんども「ありがとう」といって、歩き出す。

「なんだか御伽噺みたいだな。まるごと信じちゃっていいのかな」

 千早がつぶやいた。

「これだからおとなはいやだよ。人の親切を疑うなんてパパの人間性がわかるよね」

「いやいや。まるごと信じちゃうほうが問題だよ。信じていい根拠がないときは、信じちゃいけないんだよ。それで大変な目にあっている人たちの多いこと」

「疑り深いんだから」

「だってさ。紡だって信じていい友だちと、信用できない友達がいるでしょ。その友だちは、どういうふうに区別してるの」

「嘘をつかない友だちは信用できるし、嘘をついた友達は信用できないよ」

「嘘をついた友だちは、どうして嘘をついたのか、きいてみたのかい」

「きかないよ。嘘つきだっていうだけで友だちじゃないもん」

「嘘をついたのには理由があるかもしれないじゃないか。ツムグだって嘘をついたことがあるでしょ」

「ないよ」

「一度もだよ? ほんとに?」

 しつこくきいてくる千早を睨みつける。

「パパはどうなんだよ」

「パパはいっぱい嘘をついているよ。嘘も方便だからね。人間関係を円滑にするためには、いい嘘は必要なのさ」

「嘘に、いい嘘とか、悪い嘘なんかないよ。嘘は嘘だ」

 紡は悔しくなって大きな声を出した。

「う~ん。ツムグには処世術なんてわかんないか」

 そんなことを言い合っている間にも周りはどんどん変化していく。腐葉土の表面のあちこちに水溜りができていた。樹木はずいぶん太くなって、木の幹には頑丈そうな蔦が絡まりあい、枝葉を網のように被いつくしているので、ますます暗くなっていく。そんなに遠くないところの木の枝を、獣のようなものが飛び去っていった。サルが笑っているようなけたたましい鳴き声も聞こえてくる。足元に絡みつく下草の根元から、蛇のように太くて大きいミミズが這い出してきた。

「うわああ」

 驚いて紡が飛びさがったら千早が笑った。

「笑うことないだろ」

「ごめん」

 気分を害して千早の手を放した。一人でずんずん歩き出す。うしろで千早がくすくす笑っているのも気にいらない。

「ぼくは怖がりじゃないからね。ちょっと驚いただけだからね」

「うん。わかってるよ。でも、ここって、変だよね。何が出てくるかわからないから、一緒に歩こうよ」

 紡の歩調がゆるんだ。暗くて周りはよく見えないし、獣の気配や虫のうごめきがだんだん濃密になってくる。樹木と土のむせ返るにおいも都会育ちの紡には息苦しい。

「パパ、急ごうよ。こんなところは早く抜け出そう」

「そうだね。トラやヒョウが出てくるかもね。アハハ」

「そういう冗談やめてよね」

 ほんとうにトラが出てきたらどうするんだよ、と紡はおもった。なんだかこの世界は、トラが出るとおもったら、本当に出てくるような気がしたからだ。だから、うっかりしたことはいえないとおもった。千早にそのことを注意しようとしたとき、小川のせせらぎが聞こえてきた。千早も耳をすませている。

 二人は音のするほうに歩いていった。太い根が絡まりあって地面から盛り上がって歩きにくい。少し行くと水草が茂る細い川があった。水は澄んでいて、川底の砂利は色とりどりで宝石のようにきれいだ。わずかに射し込む光が水面におどっている。

「きれいな水だけど、飲めるのかな」

 そういいながら、千早は両手で水をすくって臭いをかいだ。

「どう、飲めそう?」

「変な臭いはしないけど、用心して飲まないほうがいいね。この世界では、絶対飲んだり食べたりするのはよそう」

「そうだね。不思議にお腹も空かないし、喉も渇かないしね」

 食べ物のことを思い出したら急に不安になってきた。この世界に自分たちが食べられるようなものがあるのだろうか。まさかこの森の中から出られなくなって、さまよったあげく餓死なんてことになったらどうしよう。

「あれ? あの光るものはなんだろう」

 紡の不安を千早が中断した。川面を流れていく一筋の光があった。銀色に光る細い細い輝きは、水の流れにもてあそばれるようにたゆたって流れてくる。千早はためらわず川に入っていった。指にすくいあげたものをまじまじと見つめる。

「これって、あの女の子の髪の毛だよ」

 千早の言葉に紡が頷いた。

「じゃあ、この川をさかのぼっていけばいいんだね。パパ」

「うん。急ごう」

 川上に向かって歩き出した。千早の濡れてしまったジーンズがふくらはぎにはりつき、ブーツは歩くと水の音がした。

「ブーツの中の水を捨てたら」

「あ、そうだね」

 今思い出したように立ち止まってブーツを脱ぎ、中の水を捨てる。

「寒いでしょ。だいじょうぶ?」

「ちょっと冷たいけど、冷えるほどじゃないよ」

「ブーツを脱いで、ズボンをあげてから川に入ればよかったのに」

「そういうことは、これからは先にいってね」

「パパってさ、ほんとうに二十九歳なの」

「うん。ツムグは僕が十九歳の時の子供だから、そういうことになるよね」

「ほんとにぼくのパパなの?」

「疑うのかい」

「性格がちがいすぎるからさ」

「そうかな。顔はそっくりだけどね」

 濡れたジーンズの裾を折り返してから、ハンカチで足をふいてブーツの中もぬぐった。それだけでだいぶましになったようで、千早は機嫌よく歩き出した。

 紡は、千早が落ち込んだり、元気がなかったりしたのをみたことがない。いつも飄々としていて思いもよらないことをいったりしたりする。いつもだと、そんな千早が変わり者にみえて、友だちのお父さんみたいに普通のお父さんだったらよかったのにとおもうのだが、今はそんな千早に勇気をもらっているとおもった。

 紡一人だったら、とてもこんな状況に耐えられない。いろいろ考えてしまって、一歩も動けないだろう。でも機嫌よく先頭にたって、じゃまな枝や葉っぱを払いながら歩いていく千早を見ていると、大丈夫、何とかなるとおもえてくる。楽天的なのは、きっといいことなのだ。

 細かった小川は、遡るごとにしだいに川幅を広くして、水草の背丈も伸びてきた。川幅が広くなったぶん、樹木の枝のかぶさりがなくなり、落ちてくる光の量も増えてくる。森は樹海のように濃く暗くなっているが、川のところだけでも明るいので気持ちはだいぶ楽だった。

 川の上に伸びている枝の葉の中で、何かが動いた。小さな動きだったが紡はすぐに気がついた。千早は気づかずに先を進んでいく。呼びとめるほどでもなかったので、紡だけ足を止めて目を凝らした。

「ケラケラ。闖入者だな。一番最初の若いのはこの世界の住人だし、二番目もこの世界の住人だったし、三番目は闖入者だったが、あれはオレ様たちと同じ類だ。でも、これは本物の闖入者だな。ケラケラ」

 紫色にピンクと緑と茶色と金色の縞模様が縦に入っている派手な模様のカエルは、体に似合わない大きな声でケラケラ鳴いた。鳴いたというよりケラケラ笑った。こういう派手な模様のカエルは、毒をもってると図鑑に書いてあったので、紡は用心した。

「どうしたの、ツムグ」

 千早が戻ってきた。

「なんでもないよ。カエルがいたんだ。ほら、ここに」

 葉がかぶさっている枝をどかして千早に見せた。千早がひょいとカエルを掴んだ。

「パパ! 毒蛙かもしれないのに」

「そう? ねえごらんよ。このカエル、前足の指が五本あるよ」

「五本じゃ変なの?」

「ふつうカエルの指は前足が四本で後ろ足が五本なんだよ。でも例外があって、日本の奄美大島や沖縄あたりに生息するオットンガエルとホルストガエルは前足が五本指なんだ」

「じゃあ、このカエルはめずらしいの」

「僕たちの世界でならね。でもこの世界は僕たちの世界とは違うから、一緒にはできないな」

「放してあげてよ。もがいてるよ」

「お腹が空いたときの食料にならないかな。カエルって、鶏肉みたいなんだってさ」

「放してあげてったら!」

 千早の言葉がわかったのか、カエルは千早の手の中でもがきながら、じりじりと体をひねって、ぴょんと手からとびだし、紡の肩に飛び移った。ネコが毛つくろいするみたいに片手で顔をくるくる撫でる。よく見ると、カエルのお腹には、へその代わりとでもいうようにムーンストーンの白い石がはまっていて、乳白色の光を反射していた。

「この世界の生きものって、人に苛められたことがないから人を怖がらないのかもしれないね」

 肩の上にちんまり止まっているカエルを間近で眺めているうちに、カエルのことをきもち悪いとか怖いとはおもわなくなった。

「ケラケラ。でかいほうは要注意だが、小さいほうはかわいげがあるな。ケラケラ」

 カエルが紡の顔を見上げながらケラケラ鳴いた。

「またカエルが笑ったよ」

 紡がカエルと見つめあいながら「あはは」と笑った。

「行こう」

 千早が歩き出したので紡もあとに続いた。肩のカエルは放っておいた。そのうち自分でどこかに行くだろうとおもった。カエルはだんだん大胆になっていって肩の上をうろちょろしたり、頭に上ったりしていたが、やがて紡のジャケットのポケットの中にもぐりこんでおとなしくなった。紡は歩くことに気を取られていたので、ポケットの中のカエルのことは忘れてしまった。

 川に沿ってどのくらい歩いただろうか。水草が少なくなってきたあたりから河原が続くようになった。ふつう河原の石は、大雨や洪水で流されているうちに角が取れて丸くなるものだが、ここの川石は鋭く尖っているものばかりだった。

「ツムグ、足元に気をつけてね。この石、危ないから」

「うん」

「でもさ。さっきから気になっていることがあるんだけど、僕たちは川上に向かっているんだよね」

「そうだよ。川の流れと逆のほうに歩いているんだもん」

「川ってさ、上流になるほど細くならないか」

「なるよ。あたりまえでしょ」

「でもこの川、川幅が逆に広くなっているんだよね」

「あっ」

 そのとおりだった。何も考えずに歩いていたけど、たしかに上流に向かうほど川幅が広くなっている。止まりかけた紡を千早が促した。

「止まらないで歩こう」

「でも」

「僕の気のせいでなければいいんだ。この世界は、自然の法則から微妙にズレているみたいだね。僕たちの世界のコピーに失敗した世界みたいだ」

「それって、ぼくたちの世界観と入り混じっているからじゃないのかな。もしかして、ここは、ぼくたちの空想の世界かも。だとしたら、現実のぼくたちは、大聖堂の鐘が鳴ったとき、あわてて扉に激突して気を失っちゃったのかもしれないよ。失神して、二人で同じ夢を見ているんだよ」

「いいねえ、その考え方。それがいちばん理にかなっていそうだ」

 そんなことを千早はいうが、実際は紡の言うことなんか信じていなさそうだ。のんきそうにしているが、千早は千早で神経質にあたりを見回していた。

 小さい川石が敷きつめられている河原は、歩くと靴の底に鋭い角を感じたが、前方をみれば岩というほうがふさわしい大きな石が、積み木のように積みあがっていた。

「ほんとうに王様はここを行ったのかな」

 紡のつぶやきは流れの速い瀬音に消えた。

「ツムグ。また大きな声で呼んでみてよ」

「こんどはパパが呼びなよ」

「いやいや、やっぱりツムグでしょ」

 しかたがないというように溜め息をついて、紡は息をおもいきり吸って叫んだ。

「お、う、さ、ま、ああああああー。が、い、こ、つ、の、お、う、さ、ま、ああああああ!」

 岩の隙間から、小さな赤いカニが顔を出した。体長は五センチぐらいで目玉が黒くて、つめの先が白く、赤い甲羅に琥珀の石がはまっている、かわいい沢蟹だった。

「キヨキヨ。まあ! 闖入者だわ。まあ! 小さい子ね。きっと子供だわ。子供はかわいいわ。わたしは子供がすきよ。キヨキヨ」

 沢蟹は爪を振り回しながらキヨキヨ鳴いた。紡のポケットからカエルが顔をだして沢蟹を見下ろした。

「ケラケラ。とっとと引っ込め。おまえなんかお呼びじゃないぞ。岩の隙間にもぐりこんでいろ。踏み潰されてもしらないぞ。ケラケラ」

「キヨキヨ。なんですって、キヨキヨ。あなたこそそんなみっともない姿をよくさらせるものだわ。あなたにふさわしい下流の住み家にお帰りなさい。ここは美しい生きものだけがすむ上流よ。キヨキヨ」

 盛んにつめを振り回している沢蟹を紡は捕まえた。

「かわいいカニだね。甲羅にきれいな石がはまっているよ。めずらしいね。こんなカニ、はじめて見たよ。水のあるところに放してあげよう」

 沢蟹は上流のほうにつめを向けて小さな口を動かした。

「キヨキヨ。あなたが探している闖入者は向こうよ。この河原をさかのぼって行ったわ。キヨキヨ」

「カニの鳴き声ってはじめて聞いたよ。カニってふつう鳴かないよね」

 紡は目を見張って千早に振り向いた。

「泡をふくだけだよ。この世界の生きものはなんでも鳴くみたいだね」

 千早が沢蟹を取り上げた。

「沢蟹って、から揚げにするとカリカリしておいしいんだよね。お酒が飲みたくなってきたな」

「だめ。川にかえしてあげるの」

 慌てて千早からカニを取り返した。

「キヨキヨ。大きいほうは気に入らないけど、やっぱり子供はかわいいわ。子供のあなたのために、わたしが道案内をしてあげるわ。さあ、こっちよ。キヨキヨ」

 沢蟹が紡の手を軽く爪のはさみではさんだ。おどろいて手を開いたら石の上に落ちたが、カニの甲羅は硬く、足を使って器用に体制を立て直して、誘うように歩き出した。

「うわあ、あのカニ、横歩きじゃなくて、正面をむいて前進しているよ」

 紡は腰をかがめてカニのあとを追った。一抱えもある大岩を、カニは八本の足を滑らかに動かしてすべるように移動していく。岩から岩へ移るときは、いったん岩のくぼみに降りて行ってから岩の側面を昇って移動するのだが、小さいにもかかわらず動きが早いものだから、高速回転のフィルムを見ているようだった。

「ツムグ。足元に気をつけて。カニばかり見ていると岩の隙間にはまっちゃうよ」

「うん。でも、このカニ、すごく動きが早いんだ」

「ツムグ、前を見て!」

 危うく衝立のような大岩に頭をぶつけるところだった。川は大岩の隙間を音をたてて流れていた。激流といってもいい激しい流れに水煙が上がる。うっかり川に落ちたら命がないほどの急流だった。

 流れてくる川の先を目で上にたどると、五十メートルほど急峻な岩場を上ったところから滝になっていた。鋭い岩が滝の落ち口の両脇を囲っているが、その岩のまわりに熱帯のジャングルのような大ぶりの葉が茂っていて、シダ系の植物も混じっている。岩場の穴から突然大量の水が落ちてくるような滝だった。

「行き止まりだよ。パパ」

 紡はがっかりした。千早は滝口を見上げている。岩場は滝が落ちるあたりで終わっていて、その上はジャングルのような山になっていた。標高はどれくらいあるのかはわからないが、緑に覆われた山の境はぼやけて見えない。

「太陽がないのか」

 眉間にしわをうかべて千早は空を見回した。日中のように明るいのだが、その明るさには時間の経過が感じられなかった。ずっと同じ明るさが続いているのだ。

「どういうことなんだ」

 千早は不安な面持ちで呟いた。

「何か言った?」

「なんでもないよ。さて、どうしたものかな」

 垂直に近い岩場から落下してくる滝を前にして、千早は考えるように腰に手をあてた。紡のポケットに入っていたカエルがそろりと顔をだして岩場にいるカニに声をかけた。

「ケラケラ。おい。おまえ。どこまでついてくるつもりだよ。いいかげんに帰らないと帰れなくなるぞ。ケラケラ」

「キヨキヨ。あなたこそ下流にお帰りなさいな。この世界で子供に出会うなんてめったにないから、わたしはしばらくこの子といるつもりよ。キヨキヨ」

 カニが言い返したらカエルがポケットから出てきてカニの前に飛び降りた。

「ケラケラ。オレ様が先に見つけた闖入者なんだぞ。ついていくならオレ様だ。おまえは帰れ。ケラケラ」

「キヨキヨ。あなたなんか、いたって邪魔なだけよ。子供が探している“お、う、さ、ま”の居場所に連れて行ってあげられるのは、わたしです。キヨキヨ」

「ケラケラ。なにいってやがる。オレ様は、おまえがいたところよりも下流から一緒なんだぞ。だから王様のところに連れて行くのは、オレ様なんだよ」

 自分のポケットからカエルがとびだしたので驚いた紡は、カエルとカニが向かい合って盛んに鳴きあっているのでさらに驚いた。そのカエルとカニは、ひとしきり鳴き合ったあと、揃って岩場を上り始めた。かたや十センチのカエルと、かたや五センチのカニは、歩くというよりすべるようにするする岩を登っていく。張り出した岩の庇のような裏側も背中を下に向けたまま進んでいく。あまりにも滑らかで早い動きに、紡は魅せられたようにあとを追っていた。

「ツムグ、待ちなさい」

 千早の声も聞こえていなかった。ケラケラ、キヨキヨ。ケラケラ、キヨキヨ。陽気でユーモラスなカエルとカニに、ついつい笑みがこぼれていた。この奇妙な世界にきてから、不安続きだった紡が、カエルとカニに笑顔を誘われているのをみて、千早は眉間のしわをひらいた。どっちにしても、どうしていいかわからないのだから、しばらくカエルとカニに紡の子守をしてもらうのもいいと思った。


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