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笑うバーツラフ  作者: 深瀬静流
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歩いた距離と心の距離

「さて、困ったな」と千早は、気が抜けたように顎をさすった。

「どうするのパパ。王様に置いていかれちゃったよ」

「そうだなあ。とりあえず二つの選択肢があるな。一つは、僕らが出てきた宝物庫のドアのところに戻る。二つめは、骸骨男を締めあげて知ってることを全部吐かせる」

「骸骨男じゃなくて、あの人はバーツラフっていう王様だよ。王様っていわないと怒るんだよ」

「どこかで聞いたことがある名前だな」

「ボヘミアの王だって」

「それも聞いたことがあるね。でも、どうでもいいや。それよりこれからのことだよ。ここから戻るか、あるいは先に進むか、どっちにしようか」

「あのドアのことろに戻ってドアを開ければ戻れるんじゃないのかな」

「でも、ドアは僕が体当たりしてもびくともしなかったじゃないか。ツムグも見ただろ」

「見たけど、でも、それしか思いつかないし」

「あのドアには七つの鍵穴があって、大統領、首相、プラハ大司教、上院の議長、下院の議長、首都の聖堂参事会長、プラハ市長、の七人が鍵を持っているんだってさ。7つの鍵が揃わないと開かないってきいたよ」

「ふう~ん。じゃ、無理だ。開かないね。でもさ、あの7つの鍵穴から、七色の光が漏れていたよね。ええと、赤と緑と、白と紫。青もあったな。あとは透明と黄色だ。えへ。全部言えたよ」

「それがどうしたの。光の色なんて」

「まあね。でもさ、七色の光がきれいだったんだよね。だから印象に残っていたというか、さ」

 紡はため息をついてから自分を励ますように言葉を続けた。

「帰らなきゃ。このままじゃ困るよ。ぼくは日本に帰って、学校へ行って、順調におとなになって、平凡で安全な人生を送るのが目標なんだ」

「平凡で安全な人生なんて無いんだけどね。でも、どんな人生設計を描こうと、それは本人の自由だけどさ」

「ぼくは、パパみたいになりたくないんだよ」

「おや、ずいぶんだね。パパの稼ぎでプクプク育っている最中だというのに」

「実際に育ててくれているのは、おじいちゃんとおばあちゃんだよ。パパはいつもいないじゃないか」

「親父とお袋には感謝してるよ」

 軽い調子で言って、千早はバーツラフが歩き去った方向に目をやった。

「バーツラフっていったよな。あいつ、いやに張り切っていたよね。向こうに何かあるのかな。あ、そうか。女の子がいたよね。銀色の髪のとても綺麗な女の子。鎧と弓を投げ捨てて、変な格好をした若い男を追いかけていった少女戦士。あの女の子、かっこよかったよね。ケータイで一緒に写真を撮りたかったな」

 使い物にならなくなった携帯電話をジーンズのポケットから取り出して、未練たらしくいじりだす。

「無駄だよ」

「しかたがない。携帯は諦めよう。じゃ、行くよ。ツムグ」

「行くの? 戻るんじゃなくて?」

 紡は耳を疑った。

「そうだよ。バーツラフが言っていたじゃないか。時の狭間とかなんとか。あいつはきっと何か知っているよ」

「でも、戻ってドアを試したほうがいいよ。王様がいっていたんだ。ぼくたちが、ここの世界で生きていけるとは限らないって。ぼくたちの命の在り方と、この世界の命の在り方が同じとは限らないって。それって、もしかしたら、急いで元の世界に戻らないと、死んじゃうかもしれなということなんじゃないのかな」

「考えすぎだよ。それでも十歳なの? 十歳って、もっと単純な年頃だろ。それじゃあ、こうしよう。ツムグは元のところに戻ってドアを試してみる。僕はバーツラフのあとを追って締め上げる。そのあと、ここで落ち合おう」

 紡は、言葉を話す人体模型を見るような目つきで父親を見た。まさか、本気でそんなことをいっているとはおもわなかったので、千早がほんとうにバーツラフが去ったほうに歩き出したので呆然としてしまった。

 なんて勝手なのだろう。パパはいつも自分のしたいようにする。こんな困った状況に陥った場合、話し合って、問題点を見つけて、それを解決するために協力しあうという、あたりまえのことさえしようとしない。ほんとうにパパは一人で行ってしまうつもりなのだろうか。

 紡の戸惑いをよそに、千早は鼻歌でも歌いそうな足取りで、どんどん林のほうに歩いていった。悔しくて、紡は握ったこぶしをふるわせた。パパなんか、知らないや! 心の中で叫んで、紡は千早に背を向けた。パパなんかどうなってもいいから、ぼくだけでも元の世界に帰ろう。しかし、千早に不安はないのだろうか。こんなばかげた世界を受け入れて、よく考えもしないで行動できる神経を正常といえるだろうか。もともと何を考えているかわからない人だったけど、父親だからと受け入れてきた。でも、ここまで性格や考え方が合わないと悲しくなってしまう。

 自分を信じて自分を貫く信念は、子供の紡には荷が重過ぎた。人生経験をいっぱい積んで年をとって、ようやく固まってくるのが信念だ。信念とまではいえない小さな決意を奮い立たせて、紡は不安を押し殺して歩き出した。

「ぼくは、一人でも元の世界に戻るよ」

 千早に背を向けて砂利だらけの茫洋とした土地を進んでいった。蝶の群れと、地に倒れた少女たちがいるはずだから、その人たちにこの世界のことをきいてみようとおもった。

 振り返ると、少し歩いただけで草原の地は蜃気楼のようにかすんで揺らぎ始めた。揺らめいている景色が、みるみる薄くなっていく。ついに草原の地が消えてしまい、心細さに息が震えた。

 紡が立っているところは風も吹かず、音もなく、ぼうとかすんで視界は悪い。地平線さえ見えない曖昧模糊とした薄明かりが相変わらず不安を誘う。うなだれて足元を見ると、スニーカーが土埃で白くなっていた。気を取り直して歩き出したが、蝶と少女たちの姿はなかった。歩いても歩いても蝶と少女たちは探せなかった。

 風も吹かず、音もしない、なにもない砂利だらけの寂しい大地が広がる世界に、自分ひとりだけだとおもうと、寂しくて心細くて胸がキリキリした。

「こっちの道でいいと思うんだけどな。ぼくの判断は正しいと思うんだけどな。パパの考えよりも、ぼくの考えのほうが現実的だと思うのに、パパはどうしてあんなに自信たっぷり、元気いっぱいでいられるんだろう。それとも、ぼくが間違っていたのかな。なんだか、わからなくなってきた」

 足が止まってしまった。どう考えても、あの扉のところに引き返してドアを開けて、元の礼拝堂に戻るというのが正しいようにおもう。バーツラフが、時がどうのこうのといっていたから、たぶん早くしないといけないのだろう。

「そうだよ。早くしないと、タイムアウトになっちゃうかもしれない。きっと、大聖堂の鐘が鳴っているうちに帰らないといけないんだ。パパをつれて来ないと。一緒に帰らなきゃだめだなんだ」

 紡はくるりときびすをかえした。急ぎ足になり、心せかれて走り出す。足元から黄色い粉のような砂が舞い上がった。しかし、少し走っただけで紡の足から勢いがなくなった。どの方向から来たのか、わからなくなっていた。景色に変化がないから、どこもみな同じに見える。紡の足がついに止まってしまった。

「どうしよう。道がないんだもの。草原も消えてしまったし、パパのところへどうやってたどりつけばいいんだ」

 ぽろりとこぼれてきた涙を、紡はぐいと袖で拭った。目をいっぱいに見開いて、なにか手掛かりになるものはないかとあたりを見回した。歩いてきた足跡があればいいのにとおもって地面を目を皿のようにしてさがした。しかし、地面は乾きすぎていた。粉ぼこりが足元から立ち上れば、下の地面はコンクリートのように硬くて足跡はつかない。粉ぼこりは軽すぎて、紡が足をつけただけで舞い上がってまたふわふわと落ちてくる。そして足跡を隠していった。



 千早は足を止めて後ろを振り返った。まさか、ほんとうに紡が自分と別れて、一人で元来た道を戻るとはおもわなかった。こんな、なにがなんだかわからない世界で、いったいなにが自分達に起こったのか理解できない状況で、よくも親と別れて一人で行動できるものだと驚いた。泣き虫の甘ったれだとばかりおもっていたが、なかなかどうして、たいした強情者だ。たった十歳なのに!

 千早は顔をしかめて歩いてきたほうを振り返った。草原が広がっている中に、若い木立が点在していて、その向こうに広がっているはずの乾いた大地は掻き消えていた。

 そんなに歩いたわけではないのだから、もしかすると歩いた距離と時間は、この世界では関係ないのかもしれなかった。それでは、なにが関係するのだろう。千早は眉間に皺を寄せて考え込んだ。感覚かもしれない。漠然とそうおもった。紡との心の距離が、この距離になって現れたのだとしたら、これは大変なことになる。千早はぞっとした。

「ツムグ! ツムグ――!」

 叫ぶ声に必死さが滲んた。紡と二度と会えなくなったらどうしよう。紡に何かあったらどうしよう。千早は声をかぎりに紡の名を呼び続けた。



「あ! パパがぼくを呼んでいる!」

 ピクンと耳をそばだてた。遠く、かすかではあるが、確かに紡を呼ぶ千早の声が聞こえる。あっちのほうだ。紡は声のするほうに走り出した。



「ツムグー! おーい、ツムグー!」

 千早は両手で口を囲んで声をかぎりに叫んだ。この声が届かなかったらどうしよう。いまさらながら自分の軽率さに腹が立った。同時に紡の強情さにも腹が立った。そして、このまま紡を失うことになったらとおもうと、息が詰まりそうだった。不安と怒りがないまぜになって目が血走りはじめたとき、草原のはじまりあたりにポツンと小さな人の姿が出現した。

 紡だった。夢中で走ってくる我が子に、千早は目を見開いて言葉を飲み込んだ。つんのめりそうな勢いで走ってきた紡は、体当たりするように千早にしがみついた。小さな肩が大きく上下し、薄い胸も背中も激しい呼吸で波打っている。千早の胴に両腕を回してしがみついたあと、やおら千早の胸を両こぶしで叩きはじめた。

「パパなんか嫌いだ! パパなんか」そういって、声を放って泣き出した。千早は黙って紡を見下ろしていた。千早にもいいたいことはあった。思い切り怒鳴ってやりたかった。心配させるなと揺すぶってやりたかった。しかし、子供の紡が体験したであろう心細さをおもうと、千早には何もいえなかった。黙って紡の気持ちが静まるまで待った。やがて鼻をすすって紡は涙を拭いた。

「気がすんだかい。ツムグ」

「すまないよ。まだ腹の虫がおさまらない」

「戻ってこれてよかったよ。これからは、別行動はよそうね」

 口をとがらせて、紡は不満そうに頷いた。

「じゃあ、行こうか」

「行くって、どこへ?」

「決まっているだろ。バーツラフのあとを追いかけるんだよ」

 そう言って、千早は紡の手をとった。有無を言わせず歩き出す。強い力で手を握りこまれて、紡はいいたいことがいえなくなった。ぐいぐい引っ張っていく千早に引きずられて、紡も歩き出した。この手を二度と離さないといわんばかりの千早に、心のどこかで身をゆだねている自分がいた。反発する心と、親へ寄せる無条件の愛情が、紡の心を引っ張りっこしていた。

「足跡が消えないうちにバーツラフのあとを追おう。あいつが向こうの世界に戻る鍵なんだ」

「足跡なんかないよ。乾いた土のところとおんなじだよ」

 うつむいて、足元を見ながら歩いていた紡がいいかえした。草原の世界も、同じように足跡はついていない。ためしに後ろを振り返っても歩いた跡は残っていなかった。

「あるよ。足跡。ほら、ちゃんとついている」

 千早が指を下に向けてから、それをたどるように前方に動かした。

「ないよ。見えないよ」

 紡には指差されても見えなかった。

「見えないとおもうから見えないんだよ。よく見てごらん。草がわずかに踏み倒されているだろ。これが道なんだよ」

 そういわれてみると、今まで見えなかった道が、炙りだしのように浮き上がってきた。たしかに踏み跡がある。草がわずかではあるが踏まれて続いている。

「ほんとうだ。ふしぎだな」

「もしかしたら、この世界は、何でもありなのかもね」

 生来の軽さを取り戻した千早が、フフン、と笑った。千早の大きな手に強く握られているうちに落ち着いてきた紡も、なんとなく笑った。

「来た道を戻ってみたけど、大きな蝶々と女の子たちはいなかったよ。きっとみんな消えてしまったんだ」

 千早は聞いているのかいないのか返事をしなかった。注意深くあたりを見わたしながら歩いている。

「でもさツムグ。草原は見晴らしがいいし、バーツラフの歩いた跡も草の踏みあとでわかるけど、林に入ったら気をつけないとね。足跡を見失ったらアウトだぞ」

 細い木の林は、進むにつれて太い木にかわり、森を形成していた。森は山の裾野に続き、山の中腹まで覆っている。そこから先の上部は険しい岩山になっていた。紡は岩山の頂を眺めながら首をかしげた。

 さっきは確かに草は生い茂って木立が林になっていたけど森はあっただろうか。草原が広がっているだけで、森や山などなかったはずだ。いつのまにか森になって山が出現している。熱帯や温帯、あるいは寒帯といった植物体系など関係なしに、見たこともない大木で形成されてる森は、木々の枝が天蓋のようになって日差しを遮り薄暗かった。

 枝葉の隙間からこぼれてくる陽光が、地面をおおっているビロードのような地衣類に斑模様を描いている。樹木に絡んでいる蔦が高い枝から無数に垂れ下がって、わずかな風にカーテンのよに揺れていた。湿った空気。静寂の中にひそむ生き物の息遣い。こちらを窺っている無数の視線。

 足元の草がかさこそ鳴った。見ると、十三センチぐらいの大きさの赤と緑の水玉模様のトノサマバッタが草の隙間から紡を見上げていた。

「おや、闖入者じゃねえか」

 トノサマバッタがつぶやいた。

「あ、バッタだ」

 しゃがみこんで、紡は両手で囲ってトノサマバッタを掬い上げた。

「へえ、生き物がいるんだねえ」

 千早も紡の手の中を覗き込んで、そういった。

 トノサマバッタは両前足でくるりと自分の目玉を撫でた

「オレを食ったらいけないぜ。食ったりしたら一瞬で毒がまわって死んじまうからな。この世界の住人には毒なんか効かねえが闖入者は別だぜ。命の在り方が違うから死んじまうぞ。そのことを知っているのかな。知らねえだろうな。違う世界から来た闖入者だもんな」

「ぴよぴよ口を動かして鳴いているよ。ヒヨコみたいな鳴き声だね。でも、バッタがいるっていうことは、ほかにも生き物がいるってことだよね」と、紡。

「そうだろうねえ」

 紡に返事をしながら、やはり千早はあたりを見わたしている。バッタはもう一度目玉を前足で撫でた。

「オレのいっていることがわからねえんだな。先に行った銀色の髪の少女が、もしかして、おしゃべりな風が話していた、伝説の祈りの姫だったら、頼んで言葉が通じるようにしてもらえばいいんだが、まあ、オレには関係ねえや。ああ、忙しい忙しい」

 バッタは紡の指の隙間から外に這い出て、たたんでいた羽を広げて飛び去った。

「あっ」

 トンボのようにすいすい飛び去っていくバッタをしばらく目で追っていたが、「行こう」と千早に促された。


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