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笑うバーツラフ  作者: 深瀬静流
13/14

教会の鐘が聞こえる

「急げ! 霧が消えていくぞ」

 集団の最後にいたバーツラフが、消えようてしている霧を追いかけながら走っていた。前にはおおぜいの人々が、互いに支えあいながら懸命に走っていた。人々で見えなくなっている先頭には、ディジュと紡たちがいるはずだ。

 ミレーゼも人々に埋もれるようにして懸命に走っていた。ミレーゼの頭には、ぼろぼろの羽のエルリラが止まっている。ミレーゼはなにか懸命に叫んでいた。

「ツムグ。祈りの里への道を示してちょうだい。ツムグ! 祈りの里よ」

 紡は草原の地へ人々を導こうとしていたが、ミレーゼは祈りの里への道を求めていた。バーツラフは眉をひそめた。めざす地がばらばらでは道に迷ってしまうかもしれない。紡は草原の地、ミレーゼは祈りの里への道を願ったのなら、この道は今は一本道でも、その道があやふやになりだして、どこへたどりつくかわからなくなるかもしれない。

「ミレーゼよ。ツムグは草原の地をめざしておるのだぞ。そなたもそれに従え」

 バーツラフが走りながら叫んだが、大勢の足音と人の声で届かない。見ていると、千早がミレーゼのところに駆け戻ってきた。

「ミレーゼ。祈りの里へ向かおう。柵の中の人たちにそう言ってくれ。みんなの気持ちが祈りの里に向かえば、きみの祈りの力を増幅してくれるだろう」

 千早の言葉を聞いて、ミレーゼは疑うような表情をした。

「闖入者のあなたが、なぜ祈りの里に行きたいのですか。ツムグは草原の地をめざしているのに」

「きみのためだよミレーゼ。祈りの里に帰りたいんだろ?」

「ええ。帰りたい」

「だったら!」

 人をかき分けてミレーゼと千早に追いついたバーツラフが、いきなり千早の襟首を掴んだ。

「おぬし。紡の気を乱す気か。心を一つにしてこそ、事は成るのだぞ。そしてミレーゼよ。おのれの願望ばかりに目を向けるでない。今はツムグのいうとおり、人々を安全な地に導くのだ。ツムグに従うがよい」

 ミレーゼの頭で、傷だらけのエルリラが羽を弱々しく動かした。

「姫よ。ツムグの信念には邪念がありません。ツムグの真っ直ぐな心には誰もかないません。この世界を導いているのは姫ではなく、ツムグなのです」

「エルリラ。だって、わたしは……ぁぁ、そんな。わかりました」

 うなだれたミレーゼに、千早が噛みつくような顔をした。

「きみは祈りの姫だろ。きみだって祈りの力を持っているじゃないか。僕だって闖入者なんだから、この世界に影響を与えられるんだぞ。きみと僕が力を合わせたらツムグなんか!」

「えええい! 黙らぬか。愚か者めが」

 バーツラフに一喝されて千早が怯んだ、そのとき。遠くから紡の千早を呼ぶ声が聞こえてきた。

「パパあ――。動かざるものが見えてきたよぉ――。動かざるものが笑っているよぉ――。すごい笑い声だよ。早くおいでよぉ――」

 うれしくて、楽しくて、しかたがないというような紡の声に、バーツラフは笑みを浮かべた。

「まいろう。子供の喜ぶ姿はよいものだ。はしゃぐツムグを見に行こうではないか」

 動かざるものが笑っていると聞いて、ガブニとボナがバーツラフの肩の上で喜んで飛び跳ねた。バーツラフが歩き出したので千早とミレーゼも仕方なくついていった。

 動かざるものの笑い声は、たしかにすごかった。近づいていくほどに地鳴りのような振動と山を揺るがす音が聞こえてくる。すでに霧は消えてなくなり、あたりは土の匂いがむせかえり、柵の中の人々が目にしたこともない鮮やかな緑色の草や樹木が、すがすがし芳香を放っていた。明るい陽射しが枝の隙間からこぼれてきて、柔らかい土の上に降り注いでいる。

 湿った霧の中で暮らしていた人々は、木の隙間を吹き抜けていく爽やかな風に感動して声をもらし、目に痛いような鮮やかな緑にため息をついた。木漏れ日の陽光が地面に踊り、人々も斑模様に染まっている。どこかで小鳥のさえずりがすると、いっせいにそちらのほうに首を向ける。

 柵の中の人々にとっては、何もかもが新鮮で世界は平和で美しかった。その人々を驚かせたのは、動かざるもののけた外れの歓迎だった。

 動かざるものは、人々の先頭を意気揚々と歩いてくる紡に気がついて、大きく口を開けた。大岩のような歯が並んだ上顎と下顎がギギギィと上下に動き、小石がぼろぼろ落ちてきて、羽虫が洞窟の口の中で塊になって飛び回る。開けた口の奥から、滝の音が聞こえていた。

「ウワアハハハハァ――。また会えるとは、うれしいなあ。こんどはずいぶんおおぜいじゃないか」

 動かざるものが笑うと、ジャングルのように密集した樹木がわさわさ揺れた。紡はうれしくなって、動かざるものに向かって走った。

「おじさん。元気だった? ぼくはね、みんなと一緒に柵の中の人々を助けたんだよ。柵の中って知ってる?」

「おしゃべりな風が言っていたなあ。噂好きの鳥たちも話していたっけ。ぞろぞろ歩いてくる、あの人たちがそうなのかい」

「うん。すごかったんだよ。ぼくたちと柵の中の人たち全員で、飼育者を撃退したんだ。そして柵の中の人たちが安心して暮らせるところに行く途中なんだ。おじさんの口の中を通らせてもらってもいいかな」

「もちろんいいとも。その話を聞きたいもんだな」

 紡が目をキラキラさせて話し出そうとしたとき、ディジュとロージェを先頭に柵の中の人々がぞろぞろ洞窟の中、動かざるものの口の中に入ってきた。

 暖かな風が心地よく吹いていた。洞窟の中は空気が乾いていて甘い水の匂いがし、豪快な滝音が聞こえてくる。外の光は眩しいが、洞窟の中は薄暗く、なぜかほっとする安らぎがあった。

 怪我を負い、傷つき、手を借りてやっとここまで歩いてきた人びとは、洞窟に入ると、まるで家に帰ってきたような表情でしゃがみこんでしまった。その中にはロージェの父親のオムジもいて、オムジはディジュに話しかけた。

「ディジュよ。わしを置いていってくれ。わしはここが気にいったよ。動かざるものが許してくれたら、ここで暮らしたいよ」

 わたしも、俺も、という声があちこちでおこった。ディジュが、どうするというように紡に目できいてくる。紡はうなずいて、動かざるものに話しかけた。

「おじさん。いまの聞いた? おじさんはどうおもう?」

「居たけりゃいればいいさ。どうせおれは寝てる時間のほうが長いんだ。目を覚ましたとき、話し相手がいるっていうのもいいだろう」

「うん!」

 動かざるものが許可してくれたので、洞窟に残りたいと申し出た人々はほっとして笑みをうかべた。ロージェがオムジに歩み寄り、自分とディジュは先に進んで、二人が暮らせるところを探して迎えに来るから待っていてくれというと、オムジは快くうなずいた。

 バーツラフが人をかき分けてやってきた。

「動かざるものよ」と、呼びかけて、洞窟をねぐらと決めた人々を指さす。

「よいか。このものたちは、この世でたった一人しかいない人の集団だ。だから、柵の中の人々というひとくくりではなく、この世にたった一人の自分であるためには名前を持たねばならぬのだ。余が、この世界のすべてのものに名前を付けてしんぜる」

 バーツラフは猛烈な勢いで、あちこちでへたり込んでいる人々に名前をつけはじめた。そして最後に、動かざるものに向かって両手を広げた。

「動かざるものよ。そなたにも名前を授けるゆえ、これからはその名前を名のるがよい。そなたの名前はデューガだ!」

「いい名前だね! すごくいいよ!」

 紡がいった。動かざるものは、まんざらでもないような声で「デューガか。それがおれの名前かい。へええ。世界でたった一人のおれってわけだ」

 動かざるものは嬉しそうに笑った。すると、またジャングルのように茂っている山の樹木がわさわさ揺れた。

「行こう。おにいさん」

 紡がディジュを促した。

「そうだな。行こう」

「ええ。行きましょう。ここに残りたいものは残り、進みたいものは進みましょう」

 ロージェの晴れやかな声に引き寄せられるように、ディジュが彼女を抱きしめる。バーツラフの肩に乗っていたガブニとボナが、ぴょんと紡の頭に飛び移った。戻ってきたガブニとボナに紡がうれしそうに笑うと、ガブニとボナもケラケラ、キヨキヨと騒いだ。ミレーゼと千早が追いついてきたので、名前をつけるのに夢中なバーツラフを置いて歩き出した。

 洞窟を出たところにある岩場に立ったとき、前方をふさぐように落ちてくる滝の勢いに、ディジュとロージェが立ちすくんだ。轟音をたてて落下する瀑布のしぶきが、たちまち体を濡らしていく。洞窟から張り出している岩場は、周りも岩で囲まれているので、前進するには恐ろしいほどの水量で落下している滝をくぐらなければならない。ディジュとロージェが浮かべている恐怖の表情は、かつて紡が、千早から滝の中に入って行けといわれたときと同じものだった。

「だいじょうぶだよ。この滝は怖くないんだ。ほら!」

 紡は彼らを安心させるために、腕を滝のなかに入れてみせた。滝の水はレースのカーテンのように柔らかく紡の細い腕をすり抜けていった。安堵が二人の表情に浮かんだ。紡が千早ににやっと笑って見せたら、千早は素知らぬふうでそっぽを向いた。

 ガブニとボナが紡の頭から飛び降りて、するすると滝の中に入っていった。紡も後に続く。滝から出て、紡はおもわず歓声を上げた。

 眼下には美しい草原がひろがっていた。爽やかな風が草原に足跡をしるして吹き流れていく。滝壺から流れていく川の川幅が、下るにしたがってしだいに広くなっていき、やがては大河となってとうとうとはるか彼方に流れていた。遠く見渡せば、ガラスの粉でできたような砂山がキラキラ輝いていた。その向こうには、針のように鋭くとがった連峰もあった。さらに遠くには広大な海も広がっていたのだが、紡のところからは、そこまでは見えなかった。

 視線を近くにもどせば、乾燥しきった大地も広がっている。紡と千早が、はじめてこの世界に足跡をしるした乾いた土地だ。しかし、昼だか夜だかわからない、曖昧模糊とした世界であったはずの乾いた地は、陽光に溢れてどこまでも明るかった。

 紡はあまりの美しさに声も出なかった。千早が滝をくぐって隣に立った。

「パパ。この世界は、こんなにきれいだったんだね」

「やあ。ほんとだ。僕たちが旅してきた世界が、一つになったんだね。それに、ほら。この川は川下から川上に向かって川幅が広くなっていたのに、いまは、僕たちがよく知っている普通の川のように、川下に向かって広くなっているよ」

 指さされて、紡は川を見下ろした。たしかに、川は川上から川下に向かって川幅が広くなっていた。見つめていると、流れている川から細い支流が何本も生まれはじめ、さらに支流は一つになった世界を毛細血管のように張り巡っていき、いくつもの湖を誕生させた。どこからか鳥たちが集まってきて湖に降り立っていく。湖の周りには木々生えはじめ、オアシスのような日陰を作り始めた。

 変化していく世界に見とれていたら、あとからやってきた人々の歓声で我に返った。人々に押されるようにして紡と千早は大岩にしがみつきながら下って行った。

 人々の感動は尽きなかった。霧に塞がれた世界しか知らない人々から見れば、何もかも珍しく、世界は目に染みるように美しく映った。肌を撫でていく風も、暖かい陽光も、なにもかも。

 ボナは自分が住んでいた場所が近くなって興奮していた。それはガブニも同じだった。二人は滑るように大岩を下って行って河原に降り立ち、早く来いというようにピヨンピヨン跳ねている。

 紡のほうは逆に気持ちが沈んでいった。ボナとガブニとの別れの時が近づいているからだ。

「どうしたんだよ。ツムグ。急に元気がなくなっちゃってさ」

 千早がからかいながら紡の肩に手を置いた。紡はその手をぱっと払った。

「おやおや。こんどはご機嫌ななめか」

 岩場を降りて、平坦な河原を下流に向かって歩く紡の口数は少ない。後ろではディジュとロージェが二人にしか聞こえない声でおしゃべりをして楽しそうにクスクス笑っている。ミレーゼは頭にとまっているエルリラとなにかぼそぼそ話している。あとに続いている大勢の人々は声高で元気いっぱいだ。

 ブロンドの髪をなびかせてバーツラフが追いついてきた。

「一仕事終わったぞ。みな、余が与えた名前を喜んでくれた。しかし、この世界のすべてに名前を付けるのは大仕事だな」

 頬を輝かせるバーツラフに千早が嫌味な目を向けた。

「おまえには無限の時間があるんだから、ゆっくりやればいいさ」

「おまえとはなんだ。王様とよばぬか!」

「いやだね。だって、僕のほうがいっこ年上だもん」

「うううぬぬぬ!」

 憎まれ口をききあっていても二人の仲がいいのを紡は知っていた。そうしているうちにも川をしだいに下ってきていて、ボナがついに叫んだ。

「とうとう帰ってきたわ! わたしの場所よ」

 うれしくてはしゃぎまわるボナの姿に、紡はしょんぼりした。ガブニがボナと一緒に飛び跳ねている。

「ケラケラ。よかったなあ。ボナ。ぶじに帰ってこれて」

「キヨキヨ。ええ。ここがわたしの居場所だからね。あなたも、じきに帰れるわね」

「ケラケラ。ああ。楽しかったぜボナ。たまには遊びに来るから、おまえさんも遊びに来いよ」

「キヨキヨ。ええ。もちろんよ。一緒に旅をした仲間ですものね」

 ふたりはつかのま固く抱擁した。それから名残惜しそうに離れると、ボナは紡を見上げた。

「キヨキヨ。ツムグ。あなたのことはずっと忘れないわ。ここでお別れだけど、あなたが自分の世界に帰れることを願っているわ。元気出でね。ツムグ」

「うん」

 紡はうつむいて頷いた。別れが悲しくて、顔を上げられなかった。ボナを見てしまったら、涙が止まらなくなりそうだった。それはボナも同じだった。泣きべそをかいている紡をみると、せつなくて泣きたくなってしまう。でも、別れは必ずやってくる。そのことを知っているボナは、心を隠して小さな赤い爪を振り回した。

「キヨキヨ。ツムグ。行きなさい。あなたの旅は終わっていないわ」

「う、うん。行くよ。ボナのことは忘れないよ。お母さんみたいだったボナのことを」

 紡はもっといいたかったが、ぐっと言葉を飲み込んで歩き出した。ガブニが気軽な調子でボナに、「じゃあな。ケラケラ」と声をかけて元気に歩き出す。いくらも行かないうちにガブニが住んでいた川岸についてしまった。

「ケラケラ。やれやれ。やっと帰ってきた我が家かな、てか? お疲れお疲れ」

 ガブニはおじさんくさいしぐさで岩の上に飛び乗った。

「ガブニ。元気でね。いろいろありがとう。一緒にいてくれて、うれしかったよ」

「ケラケラ。いいってことよ。じゃあなツムグ。親父と仲良くやれよ」

 ガブニにそんなことをいわれて千早は苦笑をもらした。ぐずぐずしていると未練で足が動かなくなりそうなので、紡はガブニに背を向けて歩き出した。千早も歩き出す。バーツラフとディジュがガブニになにか冗談をいったらしく、笑い声が聞こえた。

 バーツラフとディジュはどうするのだろう。ガブニのところに残るのだろうかと気にしていると、ミレーゼとロージェが横に並んだのでほっとした。ここでみんなバラバラになって別れてしまうのかとおもったら、寂しくてほんとうに泣いてしまうかもしれないとおもった。

「ねえ、ミレーゼ。あなたはエルリラと祈りの里をめざすんでしょ」

 ロージェが訊ねるとミレーゼは頷いた。

「ええ。里のものが待っていますから。ロージェはどこまで行くの」

「わたしはディジュと一緒ならどこでもいいの。ディジュがここにしようというところまで」

 そんな話をしているとバーツラフとディジュが追いついてきた。ディジュはすぐにロージェと手をつなぐ。バーツラフが浮かない顔つきの千早の肩を叩いた。

「どうした。ボナとガブニが、あるべき場所にもどったので、おぬしも故郷が懐かしくなったか」

「故郷か。横浜のことを忘れていたよ。親父とお袋、どうしているかな。この世界に紛れこんで、いったい何日たっているのやら」と、なにげなく空をあおいだ。あいかわらず真っ青な空は陽光で輝いているのに太陽がなかった。いったい、何時間、あるいは何日、経過しているのか、もはや千早には時間の感覚もなくなっていた。

 真夏のように眩しい陽射しなのに千早と紡が着ているのは冬物のジャケットだ。汗ひとつかくわけでもなく、喉の渇きも覚えない。空腹でさえない。この理不尽さに、千早の不安はいつのまにか麻痺していた。紡が空を見上げて、「太陽って、ほんとうに眩しいよね」というまでは。

 千早はぎょっとして空をあおいだ。太陽が、黒ずむほどの眩しさで輝いていた。

「ツムグ。おまえ、太陽を探したのか」

「うん。お日様が見えないから、変だなとおもって。そしたら現れたよ」

「いつだ!」

「今だけど。それがどうかしたの。明るいのに太陽が出ていないって、変だからさあ」

 のんびりしている紡と違って、千早はみるみる顔をこわばらせた。雲一つなかった空に真っ白な積乱雲が生まれはじめていた。その雲は、フィルムの早回しのようにみるみる成長していく。積乱雲は大空のあちこちに発生した。太陽が出現したせいで、この世界に今まで無かった大気の循環がはじまったのだ。

 急に汗が噴き出してきた。冬のジャケットが暑苦しくてたまらない。喉が渇いて水がほしかった。紡はダウンジャケットを脱ごうとした。

「だめだツムグ。服は着ていろ」

「どうして。だって急に暑くな」

「シッ!」と千早は紡を黙らせて耳を澄ませた。はるか彼方から、聞き覚えのある教会の鐘の音が聞こえてきた。

「おお! あの鐘は聖ヴィート大聖堂の鐘の音だ」

 バーツラフが荘厳な鐘の音に目を見開いた。バーツラフ礼拝堂の窓から見えた冬の空の雲が、礼拝堂の床に影を落とすのを、千早はまざまざと思い出した。あの影を踏んでバーツラフの墓に近づき、聖ヴィート大聖堂の鐘が鳴り響き、犬小屋のようなところから煤けた頭蓋骨が飛び出してきたのだった。

 鐘の音はかすかではあるが、はっきりと聞こえた。音は乾いた大地のほうから聞こえていた。初めてこの世界に足を踏み入れた場所だ。千早は紡の手を掴むと走り出した。

「急ごうツムグ。太陽が出てしまったからにはぐずぐずしていられない。時間が動き出したんだ!」

「どういうこと。時間が動くとどうなるの」

「この世界に入り込んだとき、太陽がなかったんだ。僕の想像だけど、時間が止まっていたんだとおもう。でも、ツムグが太陽を出してしまったから、止まっていた時間が動きだしたんだよ」

「じゃあ、ぼくのせいだっていうの」

「そんなことはどうでもいい。僕たちはあのとき、礼拝堂の中にいて、バーツラフの墓の前にいたんだ。そして、聖ヴィート大聖堂の鐘が鳴りだして、バーツラフにこの世界に連れてこられたんだ。まだ間に合うはずだ。鐘が鳴り終わる前に、あの宝物庫の扉を開けて帰るんだ」

 紡は驚いてしまった。では、暑さ寒さが気にならなかったのも、喉が渇かなかったのも、お腹がすかなかったのも、ぜんぶ時間が止まっていたせいだったのか。いや、待てよ? と紡は千早に手を握られて全速力で走りながら首をひねった。バーツラフ礼拝堂で鐘の音をきいたけど、あの鐘は正午の鐘だった。ということは、お昼ごはんの時間じゃないか。

「パパ。思い出したよ。お昼の時間だ」

「やめろツムグ。思い出すな。おまえが何かを思い出して言葉に出すと、この世界が影響をうけて変化していくんだ」

 紡の目が大きくなった。おにいさんとおねえさんに、二人はこの世界のアダムとイブみたいだね、といわなくてよかったとおもった。この世界の生きものは、祈りの里で誕生する。だから、アダムとイブはいらないのだ。祈りの里の姫、ミレーゼが、祈りを捧げて誕生してくる命だけでできあがっているこの世界に、痛みや苦しみや戦いや空腹など、いらないのだ。夢のような世界。ありえない世界。シャングリラの世界。それがこの世界なのだ。

 うっかり紡が太陽を出現させてしまったせいで太陽が動きだし、昼と夜が生まれたら、これまで夜を知らなかった生きものたちは、夜の恐怖と戦うことになるのだろう。夜の暗さから身を守るために、もしかしたら人々は火を発見するかもしれない。そうしたら、その次は。その先は……。紡は、飼育者の世界の向こうに展開していた、人類の歴史の無数の断片世界を思い出して頭がくらくらしてきた。

 大変な失敗をやらかしたのかもしれない。この世界が、このさき大きく変化していくきっかけを作ってしまったのかもしれない。

「どうしよう。パパ。太陽なんか出しちゃって、大変なことにならないかな」

「しかたがないさ。この世のものは、すべて変化する、っていうからね」

「でも、この世界は、この世のものではないんじゃないかな」

「あとで考えよう。もとの世界に帰ってから、ゆっくり考えよう。今は走るんだ」

「どこに向かって?」

「きまっているでしょ。あの乾ききった大地にポツンと立っている宝物庫の扉にだよ」


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