表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
笑うバーツラフ  作者: 深瀬静流
12/14

子供にだって、きっとできることがある

 はじめは全体像が掴めなくて何が何だかよくわからなかった。何かが動いているのは光と影が動いているのでわかったが、影をつくっている物体の正体がわからなくて戸惑っていた。エルリラがさらに上昇し、何百キロも旋回してようやくわかったときには、全員が口をあんぐり開けていた。

 紡たちが見たものは、巨人という表現では収まらない、身の丈が二千メートルぐらいありそうな、山のような大きさの娘だった。娘は、アルプスの少女ハイジという古典アニメにでてくるような服を着ていて、三つ編みに編んだ栗色の髪を頭に巻きつけ、フリルのついた前あて付きのエプロンをしていた。

 エルリラが驚異的な体力で娘の周りを飛翔し続け、数百キロにも及ぶ距離を超スピードで旋回して分かったことは、柵の中とよんでいた場所は、紡がよく知っているもので例えるなら植木鉢だった。

 植木鉢の中に鳥の巣箱を刺した棒を何臆本も立てて鉢の底に網を張り、娘がそれを揺すっていたのだ。

 娘から見ればノミより小さい虫が、わさわさ網に落ちていく。悲鳴を上げてもがいている人々の声は、巨大すぎる娘の耳には届いていない。

 エルリラは娘の目のあたりを飛んでいたが、一本のまつげの直径が五十センチもあり、そのまつげに囲まれた眼球は、人を乗せて飛ぶ気球ぐらいの大きさがあった。娘はうるさそうにエルリラを手で払った。まるで羽虫を払うような軽い払いかただったが強風にあおられてエルリラはバランスを崩して失墜した。

「あぶない!」

 紡が叫んだ。

「私にきつく掴まって」

 エルリラが声を強くして叫んだ。エルリラの両目の間にはまっているクリスタルが透明な光を強く放射しはじめた。

 バーツラフがさっと剣を抜いた。バーツラフが握っている剣の柄のガーネットも真っ赤に光りだす。

「エルリラ! もっと近づくのだ」

 バーツラフが剣を振り回して叫んだ。

 ミレーゼのティアラのサファイヤも青い光を一直線に放射しはじめた。

「エルリラよ。わたしの武器は弓ばかりではありません。終焉の粉がかかるように、あの娘に近づいてください」

 エルリラは体制を立て直してぐんぐん上昇していった。

「ねえ、ミレーゼ。終焉の粉ってなに」

 紡の質問に答えたのはエルリラだった。

「黒い粉です。姫が黒い粉をふりかけると、すべてのものが燃え尽きた炭のようになって崩れ落ち、粉となって風に吹かれて消えていくのです」

「へえぇ」

 そういえばミレーゼは、銀の粉をふるってこの世界の言葉がわかるようにしてくれたんだっけ。では、黒い粉も出せるのか、と紡はおもった。

 ディジュとロージェがエルリラから落ちそうになるほど身を乗り出して下を見ている。落下した人々を案じているのだ。千早は冷めた目で巨大な娘を観察していた。

 身長が二千メートルぐらいありそうな娘は、年のころなら二十歳ぐらいか。ウキウキしたようすで、いかにも楽しそうに鉢を揺すっている。純粋に収穫を楽しんでいるのだ。彼女からみれば、我々はノミやダニより小さい虫なのだろう。身を屈めて、どれくらい鉢の底にたまったか確認している。ときどきエプロンのポケットから霧吹きを取り出して鉢の中に霧を吹きかけ、さらに鉢を揺すりだす。

 そのようすをみて千早は、蜂飼いが蜂の巣箱に近づくときに、煙を巣に吹きかけるのを思い出した。もしかしたら、彼女からすれば、飼育箱の虫が興奮して騒ぐことのないようにそうしているのかもしれなかった。

 娘はときどき手を止めて顔を鉢に近づけ、うっとりと匂いを嗅いだ。とてもいい匂いらしくて娘は何度も鼻をうごめかせた。蜂蜜なら匂いもさることながら舌で味わうものだが、匂いだけ楽しむとなると話は違ってくる。

 千早はアパレル関係の仕事をしている関係でファッションには敏感だった。ピンとくるものがあった。香水だ。ムスクの原料はジャコウジカやマスクラットの体内から採取されるため、動物愛護団体が虐待にあたるとして停止を世界に呼びかけたことがあったが、もしかしたら、あの娘は、香水の原料として人々を収穫しているのではないだろうか。

 そこまで考えて千早は、エルリラがいっていた、時の狭間からやってきた闖入者の置き土産という言葉をおもいだした。

 時の狭間を越えてやってきた千早と紡みたいな闖入者は、この世界において、ありとあらゆる想像や妄想を抱いたに違いない。想像すること、空想することは、人間の特性だからだ。だとしたら、これまでこの世界に闖入してきた人々は、どれだけの影響をこの世界に及ぼしたのか。千早はめまいを覚えた。

 心正しい人ばかりではなかったはずだ。勇気のある人ばかりではなかったはずだ。この世界に戸惑い、恐れ、もとの世界に帰りたいと願って狂気のようにもがいたものもあっただろう。

 紡がいたから、千早は平静を取り戻せたが、自分一人だったらどうなっていたかわからない。恐怖が生み出す空想は予想もつかなかった。

「エルリラ。いちど上空に出てくれないか。この娘を遠くから観察してみたいんだ」

 千早は固い声でいった。

「いいでしょう。では掴まって」

 エルリラは頭を上に向けて大きく旋回した。力強く羽を動かしぐんぐん上昇していく。日差しがきつく感じられるほど上昇したが、やはり太陽はどこにもなかった。そのことに気がついているのは千早だけだった。それが意味することの重大さを、うすうす感づいていたので、バーツラフと、特に紡には知られたくなかった。

 娘の頭の上を越えてエルリラは延々と飛んだ。眼下に草原が広がっていた。草原のあちこちに牧歌的な丸太小屋が建っていて、煙突から薄煙が上がっている。牛に似た動物がのんびり草をはみ、家の屋根で猫ような小動物が昼寝をしていた。農夫のような服装の男が馬車を引いて道を行く。教会から子供たちがにぎやかに走り出てくる。井戸では女たちが水汲みをしていた。

 ありふれた風景のように見えた。もちろん千早が生きている二十一世紀の時代とは違うが、ヨーロッパの過去の風景として許容できるものだった。

 娘が両手で掴んで揺すっている鉢底から霧が漏れ出していた。その霧は大きく膨らんだり縮んだりしながら地を這って水たまりのように大地に広がっていた。

「おい。ディジュ。おまえ、網の底を破って地面に転がり落ちて、霧の中を夢中で走って逃げたといったよな」

 千早は霧の溜まりを凝視しながらいった。

「はい。どこをどう走ったのか覚えていないけど、祈りの里のことだけ考えて走っていたら、別の世界に飛び出していました」

「と、いうことは、もしかしたら、あの霧がこの世界の出口なのかもしれないな」

 千早の呟きは紡の感情的な声に掻き消された。

「ねえパパ! あの女の人は、霧を吹きながら鉢を揺すっているけど、どうしてあんなに楽しそうなんだよ。花の香りをかぐように匂いを嗅いでいるし。だって、あの人、柵の中の人たちを殺すんでしょ。それなのに、どうしてあんなに楽しそうなの。残酷で恐ろしいことをしているのに、なんとも感じないなんて、狂っているよ」

「そうだね。でもさ、あの娘は、どうみたって狂気の殺人者にはみえないよね」

「見た目で決めつけたらだめだよ。どんなに優しそうでもきれいな人でも、恐ろしい人なんだから」

「そうだね。だからさ、あの娘には、罪悪感がないのかもしれないんだよ。悪いことをしているとは思っていないんじゃないのかな」

「どうして! パパはどうしてそんなことをいうの!」

「だってさ、あのこから見ると、僕たちはノミより小さいんだよね。エルリラの大きさあたりで、やっと見える羽虫? あのこは、単純に小さい虫を集めているだけなんだとおもうな。自分が人を殺しているとは思っていないんじゃないかな」

「そんな! だって」

 だって、そりゃあぼくだって、うっかり蟻を踏んでしまったことがある。蚊なんか叩き潰している。トカゲを見つけて尻尾をつかまえて振り回したら、尻尾が切れてどこかに飛んで行っちゃったこともある。セミもつかまえて死なせたし、夏のさかりに地上に出てきたミミズが、地中に戻れずにアスファルトの熱に焼かれてのたうっているのを、気持ち悪がって走って逃げたこともある。ほかにもまだまだいっぱいある。でも。

 でも、と紡は強く首を振った。それとこれは一緒にできないような気がした。でも、だけど、それはやっぱり……と、ぐるぐる考えが回っている。もしかして同じことなのだろうか。ぼくがしたことは、たった一つしかない命を粗末にして、遊びの対象にしたことと同じことなのだろうか。苦しくなって、紡はうめき声をあげそうになった。

「僕たちの世界でもさ、あの娘と同じことをいっぱいしているんだよね」

 千早が醒めた声で続けた。

「毛皮が欲しいからって動物を殺して毛皮をとって絶滅に追い込んり、香水の原料を採るために動物に堪えがたい苦痛を与えて死なせたりとかさ。絹の布を織るために蚕を育てて茹でて殺して絹糸をとるんだよね。ほかにもいっぱい人間はひどいことをして繁栄してきたんだよね」

「だって、それは」

「おんなじだよ。ツムグ」

「じゃあ、パパは、あの女の人を許して、おとなしく殺されろっていうの」

「そうじゃないよ。ものごとの見方をいっているんだ。公平に見ることが、まず大事なんだよ。そのうえで、自分の立場に覚悟を持てばいいんだ」

「むずかしい言い方はしないでよ。わかりやすくいってよ」

「簡単だよ。ツムグならどうする? ツムグはどうしたい?」

「ぼくは、あの女のひとと戦って、柵の中の人たちを助けたい!」

「それが自分の立場の覚悟ってことさ」

 二人の会話を、バーツラフもエルリラもディジュもロージェも聞いていた。そして、強くうなずいた。

「そうだツムグよ。虫だとて、おとなしく殺されてはおらぬぞ。噛んだり、針で刺したり、小さいながらも何百倍もある人間に痛手を与えるではないか。それぞれの命が、おのが命を守ろうとするのは正しい行為なのだ。迷うでない!」

 バーツラフにいわれて、紡は強く頷いた。

「うん! ぼくたちには、ぼくたちの命を守る権利があるんだ!」

「権利ってなんだろう。ロージェは権利っていう言葉を知っているかい」

 困ったようにディジュがロージェの耳元で囁いた。

「権利なんて、はじめてきいたわ。ほんとうに闖入者のいうことはわからないわねえ」

 ロージェも肩を落として囁き返した。エルリラが戦意をみなぎらせて、ぐんぐん娘に近づいて行った。娘の頬の金色の産毛が剛毛にみえる。産毛に触れるほど接近して、バーツラフは剣を振りかぶって大きく切りつけた。ほんのわずかではあったが剣は頬に赤い筋をつけた。

 娘は怒ってエルリラを両手で叩き潰そうとした。風圧がエルリラを襲った。おもわず紡が目を閉じたとき、エルリラの両目のあいだのムーンストーンが、さらに強い光を放った。

 娘が両手で叩いた爆発音と空気の圧縮がエルリラを襲ったが、瞬時に羽を閉じて真っ逆さまに落下していった。木の葉のように落下していくエルリラの羽は、空気の抵抗を受けてひらひらと舞い、すぐに体制を立て直して再び上昇していく。動きに無駄がなく、強靭な羽を縦横に操って再び娘の胸のあたりまで飛んでいった。

 こんどはミレーゼが大きく片手を動かして何かを投げつけるような動きをした。ミレーゼの手から放たれた黒い粉が、意思をもった生きもののように一直線に娘に向かって飛んでいく。粉は娘の首筋にふりかかって、白い肌をかぶれたような赤さにした。

「エルリラ。もっと近づいて。あの娘の大きさでは、終焉の粉はききめが弱いわ」

 ミレーゼが叫んだ。エルリラは、叩き潰そうとしてくる手をかいくぐって目にもとまらぬ速さで複雑に飛行した。まるでハエが一瞬にして消えてしまうのに似ていた。娘は苛立ち罵る声を上げた。すると、娘の父親ぐらいの老いた男がやってきて一緒になってエルリラを叩こうとした。男は娘よりさらに大きく、しかも動きは俊敏だった。

 エルリラは苦戦していた。エルリラに乗っている紡たちも、振り落とされないようにしがみついているのがせいいっぱいで目が回ってきた。男にエルリラをまかせた娘が、ふたたび鉢を揺すりだした。エルリラは男の攻撃をかわしながら、いったん上昇した。背中に回り込んで後ろ首を攻撃しようとした。

 男を見下ろす高みに昇ったとき、上空にもう一つの世界が浮かび上がっていた。

「なんなのだ。あれは!」

 バーツラフがひきつった声を上げた。エルリラはもちろんのこと、みんなが驚きのあまり声もだせないでいた。揺らぐ大気の向こうに、もう一つの世界が展開していた。

 暗い洞窟の中で火を焚き、その明るさの中で何人もの原人が、一心不乱に洞窟の壁に画を描いていた。槍を使って動物の狩りをしているところだ。どんな顔料を使っているのか、色彩豊かな壁画は躍動感と色彩にあふれ、狩りの緊張が伝わってくる。千早が小さな声で囁いた。

「ツムグ。ショーヴェ洞窟って知っているかい。人類最古の壁画といわれているんだけど、これがそうなのかはわからないけど、動物の狩りをしているところが描かれているだろ。重要なのは、あの、槍なんだよ。次に発明されるのが弓なんんだ。弓と槍は戦争の強力な武器に発展していくんだよ」

「ふう~ん?」

「わかってないねえ。あの槍は、武器が人類の歴史を変えていくスタートなんだよ」

「ふう~ん?」

 紡は説明されてもわからなくて、ただじっと上空に浮かんでいる世界を睨み付けていた。すると、もう一つ、別の世界があぶりだされるように出現した。

「あ。パパ。ぼく、あれなら知ってるよ。古代ローマのコロシアムだよ!」

「ほんとだ。コロシアムで思い出すのは、ローマコンクリートだよね。すべての道はローマに通ず、といわれているように、古代ローマは建築だけでなく道路をつくることにも優れていたんだ。強固で防水性に優れたローマコンクリートが重要な役割をはたしたんだが、道路ができたから人が行き交うようになり物流が始まった。でも……」

 千早は不安に駆られて顔をしかめた。一つの世界にくっつくようにして違う世界が広がっている。目を凝らしていると、また別の世界が浮かび上がってきた。バーツラフがうめき声のようなかすれた声を漏らした。

「あれはなんだ。鉄の箱が盛んに煙を吐いて走っておるぞ。それに、むこうのは船ではないか。船も煙を吐くのか!」

 バーツラフが驚いていたのは蒸気機関車と蒸気船だった。イギリスの産業革命だ。千早も紡も、イギリスが二千十二年にロンドンオリンピックを開催したとき、世界の歴史に大きな影響を及ぼした産業革命のパフォーマンスを見ていたのですぐにわかった。

「あれは? トンボか?」

 また新たに出現した世界に、ディジュが唖然とした。ライト兄弟の有人飛行機が十二秒間の飛行を終えて草地に着地したところだった。

「な、なに! あの恐ろしいキノコのような雲は!」

 またもや次の世界が出現した。ロージェが悲鳴をこらえて見ていた世界は、日本人ならけして忘れることのできない原爆投下の映像だった。

「あの奇妙なものはなんですか」

 ミレーゼが震える指で指さした次の世界では、広島に原爆を投下されてから九年後の千九百五十四年、ロシアが人類初の人工衛星を打ち上げた映像だった。

 世界は無尽蔵に連鎖していた。ありとあらゆる世界が展開している映像にめまいを覚えた。この世界に迷い込んできた闖入者たちの思念の残滓だとしたら、千早と紡が旅してきたミレーゼたちの世界も、誰かの空想の置き土産なのかもしれない。そう考えたとき、紡はわけのわからない恐怖にかられた。

 確かなものなどなにもない、ただの空想の産物の中に、ぼくとパパは取り込まれている。だいじょうぶなのか? ぼくたちは、生きているのか? もしかして、こうしていること自体、死にかけているときの意識の混濁なのではないか。

「ねえ。パパ」

 不安に満ちた声で助けを求めるように千早を見ると、千早も困ったように肩をすくめた。

「どうなっているんだろうね。ありえない世界だから、なんでもありなのかも」

「軽い言いかたはやめてよ。もしかして、ぼくたち、死んでいないよね?」

「さあねぇ。この世界に紛れ込んだおおぜいの人たちの記憶や思念が、この世界に影響を与えたことは確かだろうね。僕たちとバーツラフが入り込んだミレーゼの世界は平和な世界だったけど、ディジュがいた柵の中は、あの不気味な世界と繋がっていて、鉢底から流れている霧が、かろうじてミレーゼの世界に通じていたんだろうね」

「どうしたらいいの」

「そんなの、わかんないよ」

「考えてよ! パパはおとななんだから」

「困ったなあ。僕ならこの訳のわからない世界とミレーゼの世界を分離しちゃうけどな」

「どうやって」

「だから、そこまではわからないって!」

 千早が癇癪をおこして大きな声をだした。バーツラフが苛立ったように剣を振り回した。

「エルリラよ。あの娘に突っ込め。柵の中を助けなければならぬ。わが剣で切り刻んでやる!」

「エルリラ。わたしの終焉の粉がかかるように、もっと近づいて!」

 バーツラフとミレーゼが叫んだ。

「戦えるのは王様とミレーゼだけなのかよ! ぼくにできることはないのかよ!」

「子供に何ができるっていうんだ!」

 千早が怒鳴った。

「ぼくにだって、子供にだって、きっとできることがあるよ。でなきゃ、悲しすぎるよ!」

 エルリラの額のクリスタルが強く光った。

「ここはいったん引きましょう。振り落された人々が気になります。ボナとガブニのことも」

 エルリラはそういうと、大きく旋回して霧が満ちている鉢の中に降りて行った。

 霧で満たされた鉢の中は混乱のるつぼだった。家や吊り橋にしがみついている人々は泣き叫び、振り落とされた家族や友人を呼び続けている。収穫されたあとどうなるのかロージェから聞いて知ってしまったので、彼らの恐怖は声にも態度にも現れていた。

 エルリラがクモの巣のように張り巡らされた縄梯子の隙間をくぐって降りていくほど悲鳴は大きくなっていった。鉢の底では、武器など何一つ持っていない無力な人々が、網の上で救いを求めてもがいていた。人の上に人が重なり、その上にまた人が落ちてくる。手足が折れたり、網にこすられて肌が破けて出血したり、中には圧死している人もおおぜいいた。恐怖と苦痛の入り混じった悲鳴が鉢底に充満していた。

 紡は目を見開いて恐怖におののいた。こんなにおおぜいの人々を、どうやって助けたらいいのだろう。漁師が魚で重くなった網を港で陸揚げするように、この網も人々をひとまとめにして飼育者のあの娘が収穫していくのだろう。そして、大きな入れ物に入れられて、マッシュポテトのように潰されるんだ。ドロドロに。

 紡はぶるりと身震いした。怖かった。こんなところでぐずぐずしていたら、自分たちも掴まってすり潰されてしまうのではないだろうか。そんなのはいやだ、と声に出そうになったとき、バーツラフの恐れをしらぬ力強い声が響いた。

「いたぞ! あそこにガブニとボナがいる。いま行くから待っていろ」

 言うが早いかバーツラフは剣をかざしてエルリラの背中から飛び降りた。

 ボナは頑張っていた。背中の琥珀がらんらんと金色に光っている。ボナは二本の小さなハサミを猛烈な勢いで振るいながら網を切り開いていた。ボナが人間だったら、きっと全身汗まみれでハアハアいっていただろう。でもボナは沢蟹だったから、汗一つかいていない。だけど紡には、ボナが死に物狂いでハサミを使っているのがわかった。赤い体に黒い目玉で爪の先が白い、かわいい小さなボナが、自分の何百倍もある大きな人びとのために頑張っている。紡は胸が熱くなった。ガブニはどこかと探したら、ガブニはボナがあけた網の穴から下に降りて、長く伸びる強靭な舌を使って、猛烈な勢いで折り重なっている人を順番に引きずろおろしていた。

 穴から落ちた人に、「霧が流れるほうに向かって走れ」と怒鳴っている。ガブニのおへそのムーンストーンも乳白色の強い光を放っていた。

 バーツラフが、重なり合ってもがいている人々を踏みつけながら、ガブニとボナのところに急いだ。

「どけ。じゃまだ」と、泣き叫んでいる人々を強引に押しのけて場所を作ると、ボナがあけている場所を剣で切りはじめた。バーツラフの剣の柄のガーネットが深紅に光りだした。

 ディジュとロージェも飛び降りて三人のところに走った。ディジュは走りながら、「霧が流れているほうに走れ」と叫んでいる。そうしているあいだにも、鉢は立っていられないほど揺すぶられて、上から人々が落ちてくる。

「どうしたらいいのです。どうしたら!」

 ミレーゼが悲痛な声で叫んだ。

「わたしの力が、敵に対してこんなにも無力だったなんて!」

 ミレーゼの血を吐くような言葉をきいたとき、紡はおもわず言い返していた。

「そんなことないよ! ミレーゼには祈りの力があるじゃないか。祈ればいいんだ」

「祈りなんて、なんの役にもたちはしないわ。わたしの祈りは命を育む力です。敵を倒す力ではありません」

「そうじゃなくて。だから。ミレーゼは、ミレーゼの世界の中心なんでしょ。ミレーゼの祈りがすべての命の源なんでしょ。だったら、ミレーゼの世界のすべての命を守る力もあるはずじゃないか」

「なんですって?」

「祈ろうよ。ミレーゼの世界を、祈りの力で守ろうよ」

「どうやって……」

 途方にくるミレーゼに、紡は励ますように頷いた。

「想像してミレーゼ。ミレーゼの、争いごとのない、平和で美しい世界を。その世界と、あの不気味な世界を切り離すんだ。あの不気味な世界を、うんと遠いところにやってしまえばいいんだ。そうイメージするんだよ」

 ミレーゼは頭を抱えてしまった。

「想像とは何ですか。イメージってなに。なにをどうしろっていうのです」

「だから」と、いいつのろうとする紡の肩を千早が抑えた。代わって千早がミレーゼに向き合う。

「おちついてミレーゼ。僕を両手で、ポンと押してみて。さあ、押してみて」

 なにをいっているのかわからない顔つきのまま、ミレーゼはいわれたとおり両手で千早の胸を両手でポンと押した。千早は大げさにのけぞってみせた。

「もっとだとよ。もっと強く、力をこめて、消えてなくなれ! ってさ」と、さらにいわれて、ミレーゼは遠慮のない強さで千早の胸を突き飛ばした。千早がエルリラの背中の上で転がった。

「そうだよ。じょうずだね。そんなふうに、両手であの世界をどんどん遠くに押しやるんだよ」

 ミレーゼははっとした。両手を上空に向ける。そして大きく息をすった。

「いらぬ世界よ。去るがよい」

 ミレーゼの声は霧に波紋を起こした。エルリラが波紋の動きに合わせて飛行した。

「姫。一人の力では弱すぎます。人々の思念を束ねるのです。祈りの里で、里のもの全員の祈りの思念を束ねたように、姫が祈りの中心になるのです。姫にしかでないことです」

「わかりました。戦うのではなく、祈りましょう」

 祈りの里の祈りの姫としての誇りと自信がミレーゼの瞳によみがえった。頭にかぶったティアラのサファイヤが青々と輝きだす。霧の中をエルリラが大きく旋回し、ミレーゼが人々に凛として呼びかけた

「みなのもの。わたしは祈りの里の祈りの姫、ミレーゼです。わたしたちの平和な世界は戦いかたを知りません。しかし、わたしたちの世界の命が脅かされるのを見過ごすわけにはいきません。わたしたちは、わたしたちのやり方で、大切な命、大切な世界を守るのです。祈りなさい。わたしとともに!」

 ミレーゼは両手を上空に伸ばして叫んだ。

「みなのもの、わたしたちの世界を脅かすものを、こうして、遠くに押しやるのです。遠くに遠くに、行ってしまえと念じるのです。さあ、両手で押しやるのです!」

 戸惑うようなどよめきが起こった。ミレーゼは決然と両手をかざし、強い思念を放射しはじめた。霧が動き出した。ゆっくりではあるが、渦を巻くように動き出す。

 ミレーゼの思念は周波となって紡と千早の体に感じた。紡と千早も両手を伸ばして祈りに集中した。二人が加わったとたん周波に変化が生じた。まわりの空気が眩しいくらい発光しだしたのだ。湿って重かった空気も流れはじめた。その変化に人々が反応した。一人、二人、やがて全員が上空に向かって両手をかざし、一心不乱に祈りだした。

 祈るかっこうをしたガブニとボナを肩に乗せて、バーツラフも網の上で両手をかざした。ディジュとロージェはたがいの体に腕をまわしてぴったりとくっつき、もう片方の手をかざした。祈りは無言で行われた。心を一つにした思念は、霧の世界を光で満たし、湿っていた空気が乾きだし、無風だった世界に清浄な風をおこした。

 エルリラは上空にのぼった。鉢の外の世界には牧歌的な風景が広がり、その上空には、あの不気味な世界が無限に連鎖して展開していた。そこに変化のきざしはなかった。依然としてそれぞれの世界はそれぞれの世界の在り方で世界を形作っていた。

 エルリラはけして鉢から外には出なかった。鉢から出たら向こうの世界に引きずり込まれると考えていた。だが、祈りの力が及ぼす変化は鉢の中にとどまっているだけで、あれらの世界はいっこうに遠ざかる気配はなかった。紡は焦りを覚えた。

「こんなんじゃだめだ。もっと強く! もっと祈るんだ! あんな世界、なくなっちゃえ! 消えろ! 消えてなくなれ!」

 紡の叫びは鉢の底まで届いた。鉢の中から、怒号のような声が盛り上がった。怒号が「消えろ! 消えろ!」という一つの声になり鉢からあふれ出した。

 ミレーゼの思念と「消えろ」という人々の声の周波が強力な波紋を起こした。その波紋は鉢を中心に渦巻き状に広がっていった。その渦巻きはエルリラの羽を震わせ、飛ぶバランスを崩して吹き飛ばされそうになるほどの強さだったが、エルリラは驚異的な踏ん張りをみせた。エルリラの両目のあいだのクリスタルが、異様な光を放ちはじめた。限界に来つつあった。

「エルリラ! 鉢の中に戻りましょう。これ以上は危険です」

 ミレーゼが叫んだがエルリラは歯を食いしばったような声で言い返してきた。

「いいえ、姫。我々は見届けなくてはいけません。まだ、耐えられます」

 言い終わらないうちに、エルリラの体はぐいっと外に引っ張られて鉢の外にとびだした。

「がんばれ。エルリラ!」

 紡が叫んだ。その声にこたえるように、エルリラがちぎれそうになる羽をひるがえして、風を切るヨットのように体を斜めにし鉢の中に戻った。思念の流れはいよいよ強まり、渦を巻く竜巻は轟音を放っていた。思念の竜巻は牧歌的な草原の世界に踊りだした。そのときだった。

 牛が草を食んでいる草原の世界が歪み始めた。丸太で組んだ家もぐにゃりと歪む。娘も、男も、表情も変えずに姿だけがぐにゃっと歪んだ。

「祈れ! もっと強く! もっと。もっとだ!」

 紡が叫んだ。

「いいぞ。そのちょうしだ! がんばれ!」

 千早も叫んだ。

 紡と千早の声がミレーゼの体の中に響きわたった。強い力が湧き上がってくる。ミレーゼはエルリラの背中に立ち上がった。細く小さな体が、いまにも吹き飛ばされそうに揺れに揺れている。銀色の髪もクモの糸で編んだような薄い衣も、引っ張られるように竜巻が起こす暴風に持っていかれている。ミレーゼが伸ばした両手から強大な周波が放出された。ティアラのサファイヤの輝きが増し、青い光は目をあけていられないほど光りだした。ミレーゼの力を増幅させたのは闖入者である紡と千早の励ましだったが、エネルギーを送り続けたのは鉢の中の人々の必死の祈りだった。

「消えろ!」

 紡は声を限りに叫んだ。心の底からそう願った。迷いのない本心は、上空に展開しているありとあらゆる世界に、電波が乱れたような亀裂を生じさせた。放電現象のように激しく明滅する。草原の世界はあちこちに穴が開き、その穴は見るまに広がって行った。草原の世界にくっついて展開していた無数の世界も、同じように穴が開き、どんどん穴がひろがっていく。完成されたパズルの絵からピースがぼろぼろこぼれていくようだった。そして、ついに最後に残っていたピースのかけらが消え去り、何もない世界だけが残った。

「やった! やったよ。ミレーゼ」

 竜巻の暴風に揉みくちゃにされながら紡が歓喜の声を上げた。ミレーゼが力尽きたようによろめいた。彼女の体が紙のように飛んでいきそうになる。とっさに紡と千早が飛びかかって抱きとめた。エルリラが鉢の中に向かって頭を巡らせた。底に降りていこうと羽をはばたかせるのだが、竜巻の勢いの激しさに、薄い羽はぼろきれのようになっていた。

「ツムグ。中に向かって終わったことを知らせろ。このままじゃエルリラが危険だ」

 紡は大きく息を吸って口に手でメガホンを作った。

「みんなああああ――! 終わったよおお――。ぼくたちはやったんだ。飼育者は消滅したよおお――!」

 わあああ――! という爆発的な歓喜の声がおこった。

 バーツラフは、はるか上空から聞こえてきた紡の声に、険しかった眉間をひらいた。血だらけのものや骨折して動けないでいるものを抱きかかえながら祈り続けていた人々が、全員笑っていた。ガブニとボナもバーツラフの肩の上で飛び跳ねている。ディジュとロージェはきつく抱き合った。

 きらきら輝いている上空から、エルリラが木の葉が舞うように力なく舞い降りてきた。エルリラの羽は布を裂いたようなありさまで、体のあちこちには血が滲んでいた。額の真ん中のクリスタルは、今にも消えそうに光は弱まっていた。

 ミレーゼの美しかった銀色の髪は擦り切れたように毛先が摩耗し、衣もずたずたにほころび、肌には痣や出血が見られた。紡と千早も同じようなものだったが、闖入者の二人は白い歯を見せてニコニコ笑っていた。

 バーツラフは二人の晴れやかな笑顔を見て大きく頷いた。

「よし! よくやった。ものども!」

「あはは。やっぱり王様は偉そうだよね」

 紡が笑ったら、鉢の中は笑い声でいっぱいになった。輝いていた空気が光を失いはじめ、陽光が降りい注いだ。柵の中のものたちが初めて体感する太陽の光だった。

 暖かく輝かしい陽光に人々は声を失った。風が吹き付けてきた。爽やかな乾いた風だ。感動のあまり泣き出すものもいた。霧の残滓が鉢の底から流れていた。その霧の動きに気がついた紡は、はっと顔を上げた。

「ぐずぐずしてはいられないよ。早くここを脱出しよう。こんな柵の中にいたらだめだ。みんなが暮らす世界はここじゃないよ。光があふれていて、緑が豊かで、川が流れてる、自然豊かな世界へ行くんだ!」

 紡はディジュにむかって叫んだ。

「おにいさんが逃げた方向にみんなを導いて。ぼくたちがいた世界に帰ろう!」

「よし! こっちだ」

 ロージェの手を引いて、ディジュは霧の残滓が流れていく鉢の底にもぐっていった。傷ついた人々を助けながら人々がディジュに続いた。

「草原の地だ!」

 紡が高らかに叫んだ。紡が草原の地にむかうというのなら、たどりつくのは草原の地だろうと千早はおもった。この世界の方向性を決定するのは紡だ。いつも迷いなく、心の底から信じて疑わない、まっすぐな子供の信念が、世界を正しく導いていく。千早は、わずかなあいだにすっかり逞しくなった十歳のわが子を、複雑な表情で見つめた。

 ディジュは道が見えているような足取りで走っていた。その手にはロージェの手をしっかり握っている。恋人たちは希望にあふれていた。苦難を乗り越え、見つめているのはバラ色の幸せだけだ。この手を離さない。二度と離ればなれにならない。二人の喜びが全身から溢れていた。

 緑豊かな、川が流れている草原の地。ガブニとボナはバーツラフの肩の上で揺られながら、ワクワクしていた。自分たちの地に帰るのだ。あの、動かざるものの滝から落ちる川の上流にはボナ。下流にはガブニ。美しい川の流れと木の葉の囁き。なつかしい仲間たち。ガブニとボナはワクワクしながらバーツラフの肩の上で揺られていた。

 まず、動かざるものの鼻の穴を通って、あの断崖のような崖を下って、流れが逆になっている川のほとりを歩いて、と紡は頭の中で映像をおもいうかべていた。動かざるものの鼻毛を抜いたのはパパだ。川上にはボナ。川下にはガブニ。はじめて顔を合わせた二人は、川上と川下のことでケンカしたっけ。紡は走りながら、出会ったころを思い出して笑みをこぼした。

 ディジュは先頭を走っていた。柵の中から脱出した時と違って、道がまっすぐに伸びていた。こんな道だっただろうかと不審におもったが、その道をはずれようとしても踏み外せなかった。明るく浮かび上がっている道は、ほかの場所へ行くことを許さないようだった。ディジュは、その道を走るしかなかった。逃げ出したときは、祈りの里を目指していた。祈りの里だけを目標にしていた。ロージェを蘇らせるために。でも、明るい道は、祈りの里ではなく、草原の地に続いていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ