どうやって戦ったらいいんだろう
全身で飛び込んできたミレーゼを受け止めて、紡はよろけて倒れそうになった。
「ツムグ!」
「ミレーゼ! よかった。心配していたんだよ」
うれしくて大きく笑う紡に、ミレーゼは小さく頷いた。
「ツムグやみんなの声が聞こえたのです。会えてよかった」
「よし。ではツムグよ。これで全員そろったから進むぞ」
バーツラフが先頭を歩き出す。ディジュやロージェ、ガブニとボナが、紡とミレーゼを中心に盛んにおしゃべりしながら歩いていくあとを、千早は無言でついていった。
ミレーゼは自分一人の力で祈りの里にたどりつくことに失敗したのだ、と千早はおもった。なぜだろう。祈る力なら、この世界の中で一番強いはずなのに。それなのに、ミレーゼは紡に助けを求めた。「ミレーゼがぼくを呼んでいる」と紡がいったのは、そういうことなのだろう。ということは、この世界で紡が及ぼす力は、ミレーゼよりも大きいということなのだろうか。
千早の足は遅くなった。祈りの里に行きたいのはミレーゼだけではない。千早も行きたかった。紡が柵の中の人々のところに行こうと言い張らなければ、祈りの里に行って、祈りの浜で命の種を拾って……。
「みなのもの。これを見よ」
先頭を行くバーツラフの声で千早の思考はとぎれた。見ると針山の世界は、バーツラフの足元で線を引いて切り落としたようにスッパと無くなっていた。横にどこまでも延びている針山の世界の淵に立って崖の下を覗くと、雲海のような霧に塞がれて下は何も見えなかった。
針山の世界は生きものさえいない瓦礫の世界だったが、目の前に広がっている世界は、暖かそうな霧がたっぷりと溜まっていて、その霧は踏めばふわふわと体を受け止めてくれそうだった。バーツラフもそうおもったようで、一歩、足を踏み出した。
「わ! 王様が落ちた」
紡が叫んだ。バーツラフは一瞬で霧の中に姿を消した。みんながぎょっとしたとき、ディジュが目にもとまらぬ速さで霧の中に身を屈め、片手を伸ばしていた。ディジュの左の耳たぶにある緑色の瑪瑙がぴかりと光る。
「手を離さないでください。王様」
「うむ。早く引き上げよ」
霧の中から、偉そうな王様の声がした。ディジュが力をこめると、バーツラフが軽々と持ち上げられて現れた。
「やっぱり、おにいさんはすごいね」
紡が憧れるようにディジュを見上げたら、ロージェがディジュに飛びついてべったりくっついた。
「だからさあ、子供の前なんだからさあ」と、いいかけて、紡はそのあとをいうのをやめた。もういいや。すきなだけくっついていればいいや。一生くっついていればいいんだ、と口をとがらせる。バーツラフが乱れた衣服を整えながら顔をしかめた。
「霧が濃くて何も見えなんだぞ」
ディジュとロージェは、バーツラフの声も聞こえていないように抱き合ってじっと霧の世界を見下ろしていた。二人からは、いつもの甘やかな雰囲気は消えていて、張り詰めた表情のせいで別人のようにみえた。
「どうしたの。おにいさんとおねえさん」
不思議におもって紡は、抱き合っている恋人たちが見つめている霧の世界に目をやった。
「ここだわ。ディジュ」
「うん。ここだ。おれたちは、ついに柵の中にたどりついたんだ」
張り詰めた恋人たちの言葉に、みんなは顔を見合わせた。バーツラフは驚きの中にも意気揚々と戦意をみなぎらせて力こぶを作り、ガブニとボナは興奮して走り回り、ミレーゼは唇を引きむすんだ。
紡は、いよいよ飼育者との戦いが始まるのだとおもったが、いざとなると、見たこともない飼育者と、ほんとうに戦ったりできるのだろうかと不安になってきた。王様は元は勇敢な王様だったけど、今は武器といえば大粒のガーネットが柄にはまっている一本の剣しか持っていないし、ディジュはいくら力持ちとはいえ、たぶん口喧嘩さえしたことはないだろうから、戦いかたなんて知らないとおもう。べたべたすることしか考えていないロージェは完全に戦力外だ。かえって足手まといかもしれない。ミレーゼだってそうだ。ミレーゼは弓が使えるけど、今は武器になるものは何も持っていないのだから。エルリラは空を飛べるけど、飛ぶだけだ。ガブニとボナは小さすぎて、潰されないようにぼくのポケットにかくしておかなきゃ。パパはきっと、真っ先に逃げ出すとおもう。ぼくだって、いざとなったら、怖くて動けなくなるかも。
でも。でも、と紡はわが身を奮い立たせた。どうしても、どうしても、絶対に人が殺されていいわけはないんだ。誰からも命を奪われていいわけはないんだ。戦わなくてはならないのなら、そうするしか方法がないのなら、やっぱり、やるしかないんだ!
紡の中で、不安で揺れていた信念が固まりだすのを、千早は無言で見つめていた。単純な思考しかできない子供の決意は、大人より強い意志を持つときがある。子供が一途に思いつめたとき、もしかすると奇跡は起こるのかもしれなかった。
千早は複雑な想いで十歳の息子を見つめていた。飼育者がどんな姿で、どんな力を持っているのか、まったくわからない状態で、むやみに戦いを挑んでも勝ち目があるとはおもえないが、紡が戦うと決心したなら、きっと戦いが始まるのだろうとおもった。けんかなどしたことさえない自分が、たとえ人を助けるためでも、暴力をふるえるだろうか。千早は暴力をふるう自分が想像できなかった。
「ディジュよ」と、バーツラフが厳しい表情で霧を顎で指した。
「霧の中はどのようになっておるのだ」
「はい。霧は柵の中を満たし、霧が消えることはありません。霧の中に家が浮いていて、家と家は、ロープの吊り橋でつながっています」
「では、この霧の中入っていけば、そなたたちが暮らしていたところに行けるのだな」
「そうです」
「で、そなたは、どのようにして柵の中から脱出したのだ」
そのことはロージェも知りたかったようで、真剣なまなざしでディジュを見つめた。ディジュは霧が立ち込めている世界を指さして語り始めた。
「俺は、落下していくロージェを追って飛び降りました。おおぜいの人々が悲鳴を上げながら落ちていく中に混じって、ロージェを探したが見つけることができませんでした。下には網が張ってあって、落ちてきた人を受け止めるようになっているんです。俺はその網を力任せに引きちぎって脱出しました。大声でロージェに、必ず祈りの里にたどりついてロージェを生まれかわらせると叫びました。はじめて地面に足がついたとき、地面の硬さと確かな感覚に驚きました。霧が流れていました。その流れに流されるように夢中で走ったら霧の世界から抜け出していたのです」
バーツラフは理解できないというように首をひねった。
「そなたに網が切れたのなら、なぜほかのものもそうしないのだ。逃げればよいではないか」
ロージェがそうではないというように首を振った。
「わたしたちに逃げるという考えはありません。逃げられるかもしれないということさえ知らないのです。なぜなら、飼育者から逃れようとしたのはディジュがはじめてで、逃げられたのもディジュがはじめてだったからです。みんなは本当のことはなにも知らないのです。どのようにわたしたちが収穫されて、殺されて、加工されるかを。ほんとうの恐怖や殺される体験を語れるのは、わたしだけなのです」
ぶるりと身を震わせるロージェを、ディジュが強く抱きしめた。ロージェは強いまなざしで霧の世界を見つめながら続けた。
「わたしは、ツムグが言ったことを、はじめは理解できませんでした。あるがままを、あるがままに受け入れて当然のこととおもい、なんの疑問も持ちませんでした。わたしだけでなく、柵の中の人々もそうおもっているのです」
ディジュが強くうなずいた。それに励まされてロージェが続ける。
「でも、わかったんです。みなさんと、こうしてさまざまな世界を旅しているうちに、人は助け合わなくていけないということを。助け合えば、どんな苦難も乗り越えられると。そして、わたしたちは、誰からも命を奪われてはいけないのだと」
二人は強く抱きあって見つめ合った。
「そうだよ。ロージェ。柵の中の人々を助けよう」
「ええ。そして、なぜ、どうして、という問いかけの意味を伝えましょう」
「なぜ、俺たちは、飼育されなくてはいけないのか」
「なぜ、わたしたちは殺されなくてはいけないのか」
ディジュとロージェは、バーツラフをはじめ、ひとりひとりの目をまっすぐ見つめた。
「俺たちに力をかしてください」
「柵の中の人々を助けてください。戦い方を教えてください」
お願いしますと訴える二人に、バーツラフが力強く剣を抜いた。
「まかせておくがよい。余は、ボヘミアの王である」
勇ましく剣をふって胸をはるバーツラフの横で、紡も大きくうなずいた。
「飼育者がどんなものなのか知らないけど、みんなで力を合わせれば、きっと勝てるよ。ねえ、パパ」
「ううん。どうかな」
勢いを削ぐような千早の態度に紡は顔をしかめた。
「なんだよパパ。どうしてそんなことをいうの」
「だってさ。戦えるのは剣を持っているバーツラフだけなんだよ。ディジュは力持ちだけどさ、たぶんケンカのしかたも知らないよ。ミレーゼは弓が使えるけど弓はないし、エルリラは飛ぶだけだし、ロージェはディジュにべったりくっつくことしかできないし、ガブニとボナはカエルとカニでしょ。僕は戦力外だからね」
紡が不安におもっていたことを、千早がそっくり口にしたので呆れてしまった。やっぱり親子だ。考えることが同じだ。いやいや。そうじゃないでしょ!
「パパ! 男だったら、やらなきゃならないときはやらなきゃならないんだよ。〝義を見てせざるは勇無きなり″だよ」
「むずかしい言葉を知っているね。どこで覚えたの」
「アニメでやってたよ」
「やっぱり学校よりテレビのほうが教育にいいのかな」
「そんなことより、どうやって霧の中におりるの」
苛立った紡に応えるように、ミレーゼの髪にとまっていたエルリラの羽が動いた。
「私の背にお乗りなさい。しっかり両足で胴を挟んで落ちないように」
エルリラがみるみる大きくなった。差し渡し十メートルもある巨大な姿に変身したエルリラからは蝶の繊細さは消え、透き通った銀色の羽は強靭に輝き、二本の触覚はレーダーのように左右別々に動いてあたりの気配を探りだした。
「エルリラよ。では、戦うのですね」
ミレーゼが逡巡しながらいった。
「姫よ。我らの世界に、生きものを殺すことなどあってはならぬこと。姫がこの間違いを正さなくて誰が正すのですか。この世界の生きものすべては、祈りの里が大切に祈りをささげて生まれしもの。姫が迷ってどうなさる」
「エルリラ」
一瞬うなだれてから、ミレーゼは毅然と顔を上げた。
「わかりました。わたしも祈りの里の戦士です。弓はありませんが、すこしは役に立てるでしょう」
そういって、ミレーゼはひらりとエルリラの背中にまたがった。ディジュが続いて乗り、ロージェが続いた。
「ツムグ。乗れ」
ディジュがいったので、紡は慌ててガブニとボナをジャケットのフードに入れてからロージェの手を借りて彼女の後ろに乗った。千早が紡に続いて乗り、バーツラフが最後に乗ると、エルリラはゆるゆると羽を動かした。エルリラは空気と一体になって軽々と舞い上がった。
「ケラケラ。オレ様だって戦うぞ。小さいからって見くびるなよ」
「キヨキヨ。たしもそう言いたいところだけど、わたしには手のハサミで物を切ることしかできないわ。キヨキヨ」
「ケラケラ。気にするなボナ。オレ様が、おまえさんの分まで働いてやるってもんさ。ケラケラ」
「キヨキヨ。たのむわよ。ガブニ。キヨキヨ」
紡のフードの中でガブニとボナが元気に騒いだ。エルリラが頭を下に向けて、緩やかに螺旋をえがきながら下降していった。霧の中に入ったときは薄日がさしていたが、じきに濃い霧で視界が塞がった。エルリラは触覚を盛んに動かして、あたりを探りながら下降していく。
「いつも、このように霧は濃いのか」
しんがりのバーツラフが警戒しながらいった。
「いつもは、もっと薄いです。もやっているかんじです」
ディジュが答えるとロージェも頷いた。
「ええ。こういうふうに霧が濃いときは、収穫が近いときなんです。急がなくては。早くみんなに知らせて、戦う気持ちを起こさせないと」
不安で硬くなったロージェの声に、紡もおちつかなくなった。
「あのさ。飼育者って、どんなやつなの」
不安を抑えて訊ねると、ディジュとミレーゼが顔を見合わせた。答えたのはロージェだった。
「大きい。とても」
「それだけじゃわかんないよ。牙があるとか、角があるとか、火を噴くとか、爆弾を使うとか、なんか、あるでしょ」
じれったくて大きな声をだすと、ロージェは「大きすぎて、よくわからないの」と、蚊の鳴くような声でいった。
「大きすぎる? 恐竜みたいに? といっても恐竜なんて知らないか」
まあ、いいや。と、紡は前を向いた。その時になったらわかるだろうとおもった。
霧の中に、ぼんやりと建物が見えてきた。それは不思議な光景だった。ディジュは霧の中に家が浮いていて、家と家は、ロープでつくった吊り橋でつながっているといったが、家は空中に浮いているのではなく、よく撓る棒の上に乗っているのだった。
紡はそれを見て、棒つきキャンデーを連想した。キャンデーの部分が家になっているだけで、その家は野鳥の巣箱のような箱型をしており、丸く切り取られた穴から出入りするときのために靴脱ぎのような足場が穴の下に取り付けられてた。
家とも呼べない家が見渡すかぎりびっしりと林立していて、棒の長さがまちまちなので、上下左右の空間にひしめき合い、縄梯子で縦横に繋がっているさまは、立体模型の原子記号のようだった。気が遠くなるような複雑さで張り巡らされている縄梯子を見て、カイコが糸を吐いてつくった巨大な繭玉の中にいるみたいだ、と紡はおもった。
「おお! あそこに子供がおるぞ」
バーツラフが目を眇めて見ている先に、揺れる縄梯子の真ん中で男の子がこちらを見て指さし、何か叫んでいた。子供の声をききつけて各家からぞろぞろ人が出てきた。霧の中が人々のざわめきで騒然となった。家の前から溢れた人々が縄梯子に乗ってきて、こんなにたくさんの人がいたのかとおもうほど人々でいっぱいになった。
子供から老人まで、縄梯子に鈴なりになってこちらを指さして騒いる。彼らから見れば、はじめて見るエルリラの姿は驚異そのものなのだろうが、どうやらそうではなく紡と千早に驚いているようだった。
「あれは、闖入者じゃないか!」
壮年の男が叫んだ。闖入者、という叫びが、霧の中に何重にもこだましてますます騒然となった。やがて一人の女がロージェに気づいて鋭く叫んだ。
「あ、あ、あれは! 収穫されて消えていった娘じゃないの。なぜ、あの娘がいるの。一度収穫されたら二度と戻れないのに」
「まて! 娘だけではないぞ。行方不明になった若者もいるぞ。どうしてだ。どういうことなのだ」
エルリラは高度を下げて彼らに自分たちの姿がよく見えるようにゆっくり飛行した。彼らは一様に目を見開き、信じられぬものを見たように狼狽した。ロージェが彼らに大きく手を振って叫んだ。
「みんなぁー。わたしは一度収穫されて、祈りの苗木によって生まれかわったロージェです。ロージェというのは、わたしの名前です。そして、わたしを生まれかわらせるために、柵の中から脱出したこの人は、ディジュという名前です。ロージェとディジュという名前は、一番うしろに乗っている王様がつけてくれました」
ざわめきはますます大きくなった。
「名前だと? 名前ってなんだ」
「祈りの苗木だって?」
「おい。あの、銀色の髪をしたかたは、もしかしたら、祈りの姫ではないのか」
「祈りの姫! あの伝説の里の姫か? ほんとうに祈りの里はあったということか?」
「この世界の生きものは、祈りの浜に流れ着いた命の種から生まれるときいたぞ」
「祈りの里の乙女たちが苗木に育て、苗木が成長して黄金の実を実らせ、その実から生まれ落ちると、生きものは瞬時に消えて、そのものがいるべき場所に出現するという、あれか?」
「俺のところは、子供がほしいと毎日毎日願ったら、赤ん坊を授かったんだ」
「わたしは年頃の娘がほしいと願い続けたのよ。そうしたら、美しい娘がやってきたのよ」
「俺は兄貴がほしかったんだ。願ったら、兄貴が来た!」
「祈りの姫のお姿を見られるなんて、夢を見ているようだわ!」
エルリラが、触覚を震わせながらミレーゼに言葉をかけた。
「姫よ。姫からこの者たちに、彼らのおかれた状況を説明しておあげなさい」
「わ、わたしが、ですか」
「姫よ。まだお気づきではないのですか。我らの世界に殺し合いなど、あってはならぬこと。柵の中の人々を助けるために飼育者と戦おうとしていること自体が、本当は間違いなのです」
「だってエルリラ。戦わなくては彼らを助けることはできないではありませんか。エルリラだって、そういったでしょ」
「姫よ。何かが、どこかで、狂ったのです。これまでも闖入者は時の狭間をくぐって、この世界にやってきました。紡と千早とバーツラフのようにです。彼らが闖入してくるたびに彼らの空想によって、この世界は広がっていきました。それはよいのです。問題は、姫の知らないうちに、この世界に悪い影響を及ぼすものを、置き土産に置いて行かれることなのです。この世界の中心であり、この世界の生きものすべての心のよりどころである姫は、常に正しくこの世界を導いていかなくてはなりません」
「飼育者が、置き土産だというのですか」
「そのようです。この世界のものを殺すものがいたということは、そういうことなのです。ツムグたちと旅をしていていなければ、わからなかったことです」
「なんということ! そうだとしたら、知らなかったわたしの罪です!」
ミレーゼは顔をこわばらせて体を震わせた。そして決然と胸を張って、縄梯子に鈴なりになっている人々に声を張り上げた。
「柵の中の人々よ。よく聞くがよい。わたしは祈りの里の祈りの姫、ミレーゼです」
おお――というどよめきが起こった。
「そなたたちは、これまで飼育者に、いわれなく命を奪われてきました。この世界で命を奪われることなど、あってはならないことです。生きものの命を奪いあうことのない、平和で穏やかな世界こそ、わたしたちの真のありようなのです。だから、わたしは、そなたたちを苦しみから解放するために、友人達の力を借りて、飼育者と戦います。そなたたちも、共に戦いましょう」
「戦うって、なんだ」という声があがった。あちこちで、同じような声が聞こえる。
「苦しみ? おれたちが?」
「いわれなく命を奪われるって、どういうことだ?」
「おれたちは、飼育者から飼育されて、収穫されるためにあるのだろう?」
「死ぬっていうことさえ、どういうことかわかんないし」
「収穫されたら、みんな帰ってこないものね。話も聞けないし」
「収穫されたあと、どうなるかも知らないしなあ」
そんなざわめきをぬって、縄梯子を伝って走ってきた老人の声が、ひときわ高く響いた。
「おまえは! 娘ではないか」
「ああ! お父さん。わたしよ。戻ってきたのよ」
ロージェが狂おしく両手を振り回して叫んだ。
「お父さん! 死ぬって、ほんとうに怖いことよ。飼育者は、わたしたちを収穫して、大きな入れ物に入れて、棒で叩きつぶしてドロドロにするのよ。わたしが知ってるのはそこまでなの。なぜって、わたしも潰されて死んでしまったからよ!」
恐怖の叫び声があちこちおこった。ディジュも青ざめて目をつむった。その時のロージェの恐怖と激痛を想像してしまったのだろう。紡もそうだった。テレビや新聞でも殺人事件の報道があるが、人間の集団を潰してペーストにするという殺し方はきいたことがなかった。残虐をとおりこしてグロテスクでさえあった。すると、霧の中から弱々しい反論の声がおこった。
「し、しかし、そ、そ、それが、俺たちの役割だとしたら、し、しかたがないじゃないか」
「そ、そうよ。そのために、わたしたちは飼育されているんですもの」
「そうだ。そうだ」という声が強まりだす。紡は我慢できなくなった。
「ちがうよ! そんなの間違ってるよ! 殺されていい命なんてないんだ。みんな考えてよ。いつから、そんなふうなの。いつから、誰に、そんなふうに死んでいくんだと信じこまされたの。だれが言ったの。誰がきめたの。どんな理由で死ななきゃいけないか、ちゃんと説明されたの。納得のいく説明をしてもらったの」
沈黙があたりを支配した。人々は、一様に戸惑った顔つきで互いの顔を見合わせている。やがてロージェの父親が、おずおずと話し出した。
「昔からの習わしなんです。そういうものだとおもっていました。死ぬとか、殺されるとか、実は、よく知らなかったのです。収穫されたものは帰ってきませんし、収穫されたあとどうなったのか話してくれるものもおりませんでしたから。だから、殺されていい命なんかないと言われても、実感がわかないのです。でも、」と、老人はロージェを見つめた。
「失った娘が帰ってきて、どのような体験をしたか聞いて、恐ろしさに震えました。だれだって怖いおもいはしたくありません。殺される苦痛など受け入れられません。わしは戦います。二度と娘、ええと、あの、ロ、ロージェ、を失いたくありません」
沈黙があたりを支配した。みな、どのように反応していいのか困っていた。死の恐怖はロージェによって教えられた。知ってしまったら耐えられない恐怖だった。それなのに、では、どうしたらいいのか、今一つわからない。そんな戸惑いが、あたりを支配していた。
バーツラフが身を乗り出してロージェの父親に指先を向けた。
「ロージェの父親よ。そなたに名前をさずけてつかわす。オムジと名のるがよい」
「王様。こんなときに」
紡が呆れたときだった。霧が動き出し、新たな霧が蓋をするように圧迫してきた。これまでとは違う濃密な霧はみるみる視界を奪っていく。オムジが叫んだ。
「掴まれ! 揺れるぞ! 収穫の時がきたのだ。落ちたら殺されるぞ」
あちこちで悲鳴がおこった。紡たちは、飛行するエルリラの背中で、家を支えている長い棒が共鳴するように大きく撓り揺れ出したのを目撃した。まるで棒の根元から揺すぶられているようなありさまだった。家が大波に揉まれるように揺れるにともなって、クモの巣のように張り巡らされていた縄梯子も上下左右に揺れる。梯子に鈴なりになっていた人々は、縄を掴んでいるにもかかわらず、弾かれたように落下していった。
悲鳴が霧の世界を攪拌した。力の弱い子供や女、老人が真っ先に落下していった。
「お父さん! 家の中に入って! 早く」
ロージェがオムジに向かって叫んだ。しかし、家の中に避難しようにも、縄梯子は人で埋まっていて身動きできない。縄梯子の真ん中で、家に避難しようとする人と、呆然自失して動けないでいる人とで揉み合いになっていた。
エルリラは、落下していった人々を追って急降下した。するとディジュがいったように、張り巡らされた網の上で、落下したおおぜいの人々がもがいていた。
「キヨキヨ。わたし、あの網が切れるかやってみるわ! キヨキヨ!」
紡のフードの中でボナが叫んだ。紡は驚いてフードの中からボナとガブニを取り出した。
「だめだよボナ。そんな危険なことはやめてよ」
「キヨキヨ。いいえツムグ。なんでもやってみなければわからないわ。わたしの爪は意外に強いのよ。きっと網を切れるわ。そうすれば、助けることができる。キヨキヨ」
ボナの背中に埋まっている黄色い琥珀の石が強い光を放ちはじめた。ガブニのおなかの乳白色のムーンストーンも光りだす。
「ケラケラ。オレ様も行くぜボナ。おまえさんを一人で行かせるわけには行かねえや。ケラケラ」
「キヨキヨ。そう? じゃあ、わたしが網に穴を開けるから、あなたがその舌で人をつかまえて穴に落としてちょうだい。そうすれば、ディジュみたいに走って逃げられるでしょ。キヨキヨ」
「ケラケラ。よし。そうと決まれば」
紡があっと叫んだ時には、ガブニとボナは勢いよく紡の手のひらから飛び降りていた。
「ボナァ――。ガブ二ィ――」
紡は身を乗り出して、落ちていくボナとガブニを目で追った。エルリラは、ガブニたちと反対に上へ向かって飛んで行った。霧の世界を螺旋をえがきながら、ぐんぐん上昇していく。ついに霧を脱出して紡たちがが見たものは、彼らを驚愕させた。