あの鐘が鳴り止まぬうちに
バーツラフは、じりじりしながら待っていた。きょうは朔旦冬至の日だった。
十九年に一度、新月と冬至が重なる朔旦冬至は、古来より極限まで弱まった太陽が復活する日、すなわち「復活の日」とされていた。
その日こそが、バーツラフが蘇る可能性のある日だった。しかし、バーツラフが復活するには、礼拝堂の窓からさしこむ雲の影を踏み外さずに、礼拝堂に安置されている彼の墓にたどりついてくれる人間が必要だった。
十九年に一度繰り返される儀式のような瞬間は、千八十年間も歴史の中で眠り続けてきたバーツラフにとって、喉の渇きよりも激しい苦痛だった。拷問といってもよかった。
それなのに、十九年ごとにめぐってくるチャンスにもかかわらず、愚図で阿呆な人間どもは、だれ一人として正しく雲の影を踏めなかった。あれほどおおぜいの人間どもが千八十年もの時をかけて、聖ヴィート大聖堂に祈りを捧げに来たというのに、ただの一人もだ。バーツラフは暗闇の中で歯軋りした。やがて絶望が怒りに変わった。
誰でもよい。
誰か、来い。
余を千八十年の惰眠から蘇らせよ!
バーツラフの心の叫びは、空しく暗闇に吸い込まれていった。
「パパ。ここはチェコスロバキアだよね。チェコって、チェコスロバキアのことでしょ?」
桃井紡は、千早の黒皮のブルゾンの裾を掴んで父親の注意を自分に向けようとした。
「だからツムグ。ここはチェコスロバキアじゃなくて、チェコなの。チェコ共和国。通称チェコ。わかったかな?」
アパレル関係の仕事をしている千早は、もったいぶってそう説明した。ライトブラウンに染めた長めの髪を華奢な指先でかきあげて、聖ヴィート大聖堂をちらりと見上げる。聖ヴィート大聖堂の前の石畳の広場には、世界中から訪れた観光客が集まっていた。
厳かにして壮大なゴシック建築の粋を集めた大聖堂は、見るものを圧倒した。たくさんの観光客がいる中に、日本人の若い女性のツアーガイドがいるのを千早は目ざとく見つけた。
「ツムグ。あのお姉さんを見てごらんよ」
皮のブルゾンにビンテージ物のジーンズをはいた千早は、ややもすると渋谷あたりで、「カノジョ、きれいだね。モデルに興味ない?」と、女性に声をかけまくっていそうな若者に見えるが、実際は二十九歳だ。根っからの軽い性格のせいで、実年齢の重みが伴わず、十歳の息子からやりこめられたりするのだが、このときは一児の父親のくせに、視線は二十五、六歳ぐらいの日本人のお姉さんガイドに吸い付いていた。
「ねえ、ツムグ。あのお姉さん、かわいいよね。僕たちを置いて天国に行っちゃったママにそっくりだとおもわない?」
「なに言ってるのパパ。ちっとも似てないよ。パパは、きれいなお姉さんを見ると、いつもそういうんだから」
「そうかな。でもさ、ほんとうにママはかわいかったんだよ。パパはママのことが大好きだったんだ」
「もういいよ! ママのことは聞きたくない」
紡は千早のブルゾンの裾を引っ張って、自分達のツアーのガイドのおじさんが振っている黄色い小旗のほうに連れていった。
紡は、千早からママのことを聞かされるのが嫌いだった。紡の出産のとき、容体が急変して亡くなったママのことは、写真でしか知らなかった。写真のママは十九歳で、大きなお腹をしてパパに肩を抱かれて笑っていた。同い年のパパとママは、高校一年のときからの付き合いで、高校を卒業してすぐ結婚した。まわりの反対を押し切っての子供同士の結婚だった。
パパは今でも、ママのことを引きずっている、と紡にはわかっていた。しかし、それは、紡にとっては苦しいことでしかなかった。なぜなら、パパの悲しみの原因をつくったのはぼくなのだから。ぼくが生まれてこなかったら、ママは元気に生きていて、二人は面白おかしく暮らしていたのだからと。
「むかし、ママがね。ツムグが生まれる前のむかしだけどね。チェコに行きたいって言ったんだよね。プラハの聖ヴィート大聖堂の薔薇窓が見たいって、言ったんだ。でも、僕たちは若くてお金がなかったから、お金をためて、絶対行こうねって言ってたんだよね。真美が死んで十年たったよ。ツムグと来れて、よかった」
紡は、はっとした。湿りを帯びた千早の声が、紡の小さな心に突き刺さった。千早はガイドのお姉さんが聖ヴィート大聖堂の建築と歴史を説明している様子をじっと見つめていた。
あのお姉さんは、ママとちっとも似ていないけど、パパにはママが年をとったら、あんなふうな大人の女の人になっていただろうとおもって、見ていたりするのかなとおもった。
男の人が、女の人を愛するというのは、どんなふうなのだろうとおもった。愛する人との永遠の別れは、子供の紡には想像もできなかったが、仲のよかった友だちが転校していくときの、寂しい気持ちみたいなのかなとおもったりした。身を引き裂かれるような悲しみなど、経験したことのない紡だったから、千早の寂しさは十分には理解できていなかった。
ガイドのお姉さんは、建物の説明を終えて、ツアー客を引き連れて聖ヴィート大聖堂に入っていった。そのあとを千早がふらふらついて行こうとした。
「パパ、パパ。だめだよ。ぼくたちのツアーはこっちだよ。あの太ったおじさんから、はぐれたらだめだよ」
千早の腕を掴んで、自分達のツアーグループを指差したら、現地で雇ったチェコ人の太ったガイドのおじさんが、関西訛りのへんてこなアクセントの日本語で、「帽子ハ取ッテクダサイネ。ココハ教会ネ。ゴ婦人ハ取ラナクテモダイジョウブネ。デハ、中ニ入リマスネ」といいながら、大聖堂の中に入っていくところだった。
「早く早く。パパ」
「だいじょうぶだよ。はぐれてもホテルはわかっているんだし、添乗員の田中さんに電話すれば迎えに来てくれるさ」
うるさそうに紡の手を払って、千早は足早にガイドのお姉さんのあとを追って行ってしまった。
「パパ!」
置いていかれて、一瞬紡はあっけに取られた。外国で十歳の息子を置いて、若い女性を追いかけていく父親がどこにいるだろう。
紡は怒りで顔が赤くなった。十二月の底冷えする寒風が紡の癖っ毛をかき回した。顔のまわりでくるくる巻いている髪の毛を腹立ち紛れに一振りする。気を取り直してフード付きのダウンジャケットのファスナーを襟首まで引き上げ、決然とした足取りで千早を追った。
大聖堂の中は、紡の予想を上回る広さだった。建物を支える巨大な石柱が何本も整然と並んでいて、天井に向かって上へ上へと伸びている。あまりの高さに目がくらくらした。
ゴシック建築の特徴の一つである大きな窓は、ステンドグラスでできていて、極彩色の光が妖しくも美しくさしこんでくる。おおぜいの観光客の靴音が漣のように石造りの聖堂に広がり、人々が会話する声が反響して、ごわあああ~んと頭の中に響いてくる。
観光客でひしめいている聖堂内は、ちょっとしたミュージアム状態だった。人が多くてちらくらするし、聖堂の中はキンキラキンで金目の美術品ばかりだし、耳に入ってくる言葉は英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ポルトガル語、スペイン語、ヒンディー語、ベンガル語、マレー語 、ウルドゥー語、アラビア語、ベトナム語 、タガログ語、ペルシア語、タイ語、トルコ語、中国語、韓国語、日本語……。
日本語! そうだ。パパだ!
大聖堂に気を取られてうっかり忘れるところだった。紡は慌てて千早をさがした。こんなところではぐれてしまったら大変なことになる。言葉はわからないし、携帯電話だって持っていない。持っていたら添乗員の田中さんに電話するというテもあるが、ないのだからしょうがない。ガイドのおじさんにはぐれたら、直接ホテルに帰ればいいと千早はいったが、どうやって帰ればいいのだ。お金は持っていないからバスには乗れないし、道を聞こうにも、ぼくは言葉がわかんないんだぞ! と、紡は頭を抱えた。
涙目になりながら、心細さを振り払うように大聖堂の中を見渡した。大柄な外国人がひしめいている聖堂内を、目を皿のようにして千早を探した。千早は、ガイドのお姉さんのツアーグループに混じって、ちゃっかり説明を聞いていた。
ガイドのお姉さんは、補修のために扉を閉ざしている“聖ヴァーツラフ礼拝堂”の前で、バーツラフの生涯の説明をしていた。
チェコ人が、かつてボヘミアといわれたころの王であるバーツラフ一世を聖人として敬い祭っている礼拝堂は、聖ヴィート大聖堂の中でも最も重要な聖域で、立ち入り禁止になっている。
西暦九百三十五年の九月二十八日に、二十八歳の若さで弟ボレスラフに殺害されたバーツラフ一世の遺体は、このバーツラフ礼拝堂に安置されていた。
ヴァーツラフ一世の伝説は中世から伝わり、それによれば、民族の危機のときには蘇って、眠っている彼の騎士たちを呼び起こして、彼らとともに外敵を打ち破り民族を守るという。ヴァーツラフ一世は民を思う理想の騎士とされ、民族を守った英雄として語りつがれてきた。
ガイドのお姉さんの話に耳を傾けながら、千早は熱心にお姉さんの顔を眺めていた。
「パパ!」
人々の隙間からやっと千早を見つけた紡は、息をきらせて走りより、千早のブルゾンを掴んだ。
「しっ。静かに。よその人の迷惑になるから、こういうところでは小さな声でね」
「パパったら。かってに行かないでよ」
「紡こそチョロチョロしちゃだめだよ」
「それはパパのほうでしょ」
悔しくて、もっといってやろうとしたが、ツアーの団体がお姉さんに連れられて動き出したので口をつぐんだ。千早もくっついて行くのかとおもってぎゅっとブルゾンの裾を掴んだが、千早はのらりくらりと聖バーツラフ礼拝堂のドアに歩み寄って、立ち入り禁止のポールをどかしてしまった。なにをはじめるのかとおもったら、年代を感じさせる黒ずんだドアをこそこそいじりだした。
「なにしてるの。パパ」
「なにって、このドア、開かないかなと思ってさ。ふだんは開いていて、入り口から中を見られるらしいんだけど、今は修復中だとかで閉まっているんだってさ。聖ヴィート大聖堂の中で、もっとも神聖で重要な礼拝堂らしいんだ。せっかく来たのに、見れないなんて、悔しいじゃない」
「やめてよパパ。さわっちゃだめだよ。ここに入るときのセキュリティーの厳しさを見たでしょ。荷物を全部しらべられたんだよ。ものすごい警戒だったじゃないか。勘違いされるようなことをしないでよね」
紡は入館の時のセキュリティーの厳しさを思い出して、慌てて千早をドアから引き剥がそうとした。重く大きな厚みのある扉に飾り鋲を幾何学模様に打ちつけてあるドアは、石を積み上げた分厚い壁に固定されている。押しても引いてもびくともしないドアには、ドアノブにあたる丸い輪っかが、ライオンのような動物の口にくわえられていて、その横に昔の鍵の跡と思われる四角い金具の穴が残っていた。千早はさかんにその金具の穴をいじくっていた。
「おねがい。やめてよ」
紡はまわりを見回しながら千早の腕を引っ張った。誰かに見られたらたいへんだ。警備員の人に捕まって警察に突き出されるかもしれない。見えないところに隠された監視カメラに写っているかもしれない。
「なんか、カチャカチャ動くんだよね。ちょっとツムグ。ツムグの指は細いから、この穴の中に入れてみてよ」
「いやだよ。早く行こうよ。パパったら」
ひやひやしている紡の人差し指を掴んで、千早は鍵穴に強引に突っ込んだ。カチャッ、という音がした。紡は指先に感じた手ごたえにどっきとした。
「お、音がしたよ」
おそるおそる千早をうかがうと、千早は、ぱっと期待に目を輝かせた。
「どいて。ツムグ」
押しのけるようにしてドアを押した。動くはずがないとおもっていたドアは、意外なことに音もなくなめらかに動いた。千早がするりと体を内部に滑り込ませた。
「パパ。やめて! 戻ってきてよ」
暗闇の中で、バーツラフは息を殺して扉の向こう側の気配に耳をすませていた。誰かが扉を開けようとしている。鍵穴をいじくっている音がする。観光客がひしめいている聖堂内で、立ち入り禁止のバーツラフ礼拝堂に侵入しようとしている大阿呆がいる。どんな顔をした阿呆なのか、バーツラフは息を殺して気配に集中した。
「パパ! 早く戻って!」
誰も見ていないか背後を窺いながら、ドアに口を寄せて声をかけた。
「ツムグも早くおいでよ。中はすごいから」
ドアが少しだけ開いて千早の手が伸び、ダウンジャケットのフードを掴まれて礼拝堂の中に引きずりこまれた。
千早の横に並んだとき、紡は礼拝堂の内部に驚いて目を見開いた。色彩と黄金が織りなす歴史の絵物語を見ているようだった。
紡と千早が立っている正面の壁の上部には大きな縦長の窓があって、一年で一番遅い夜明けの太陽が、ようやく窓の中ほどに差し掛かろうとしていた。
窓の上部から落ちてくる陽光は、黄金の糸で編んだような華麗なシャンデリアを輝かせ、組み木細工のような模様の石の床に、ちぎれた雲の影を斑模様に落としている。その空間の中に聖バーツラフが眠っているという長方形の、立派な墓が安置されていた。
ガーネットや翡翠、瑪瑙といった貴石を金でつなげた重々しくも美しい墓の上には、赤と金で織られた緞帳のような厚い布地をかぶせた小屋が乗っていて、犬小屋に見えるその小屋の前には立派な燭台が三脚置かれていた。
紡は礼拝堂の壁一面に描かれている、バーツラフの生涯を描いた絵物語風の絵画より、その犬小屋のようなものが気になった。子供の好奇心をひどくそそる代物だった。あの小屋の中には、なにが入っているのだろう。この位置からでは、小屋は横向きになっているので内部をのぞくには、歩いていって小屋の正面に回り込まなければならない。紡は陽の中に足を踏み出そうとした。
ならぬ!
バーツラフはおもわず心の中で叫んだ。
影を踏め!
影だ!
「ちょっと、ツムグ。ほら、あれ」
紡の腕を掴んで千早が指をさしたのは、左側の壁にあるキリスト像の祭壇の上だった。紡は動きをとめて千早が指差したものを見上げた。それは中世の鎧をまとって腰に剣をさし、右手に槍を、左手に鷲の紋章を描いた楯を持った、聖バーツラフの像だった。
「あれがバーツラフだよ。二十八歳で死んだんだってさ。弟に殺されて」
「ふう~ん」
バーツラフの像は、右側からの窓の陽を受けて、すこし悲しそうな表情をしていた。
「あ。あれだよ。ほら。七つの鍵であけるというドア。宝物庫なんだって。お宝がざっくざくってやつだね」
指差した千早が、バーツラフの墓があるほうの扉に向かって足を踏み出した。片足を置いたところに、ちょうど窓から差し込む雲の影があった。斑模様の影は、大きいものから小さなものまで点々と床に散っている。ちょうど影踏み遊びをするような模様だった。
なんと頭の悪そうな男だ、とバーツラフはいまいましくおもった。こんな男には期待できない。影を踏みながら余の墓に近づくのは至難の業なのに、どうして今回は子供というおまけまでついているのだ。あのような子供がいたのでは絶望的だ。
十九年に一度の朔旦冬至に、この礼拝堂に入ったものは、雲にさえぎられた陽の影を踏まねばならない。しかも、時の鐘が鳴なっているあいだに余の墓の真正面に来なければならぬのだ。
だからこそ、今まで、千八十年間の長き時をかけても、そのような偶然は果たせなかったのだ!
永遠の死の時間の中で眠っているバーツラフは、顎の骨に並んでいる剥きだしの歯並を擦り合わせて歯軋りした。
紡は、天井の黄金のシャンデリアに気を取られていて、千早が動き出したことに気づくのが遅れた。すぐに千早を追って紡も動いた。紡が影を踏んで進んだのはまったくの偶然だった。千早も意識したわけではなかったが、雲がつくる影を偶然踏んでいた。
千早は真っ直ぐ宝物庫の扉を目指したが、紡のほうは最初に気になっていた犬小屋のようなものに向かった。
「ねえパパ。この犬小屋みたいなのって、なんだろう」
あと一歩で宝物庫の扉に手がかかるというとき、千早の足は影のない床に足をつけようとしていた。
「犬小屋? どれどれ」
紡に声をかけられて、千早の足が影の中に戻った。そのまま影を踏んで紡に近づいた。
「ほら。これだよ」
千早を導くように犬小屋の前に動いた紡の足は、陽が当たっている床に進んだ。と、そのとき、大きな雲が風に吹かれて礼拝堂全体が暗くなった。千早が紡の隣に並んだ。まだ雲は陽を遮っている。礼拝堂は真っ暗とまではいかないまでも、夜のように暗くなった。
バーツラフは、かつてないほど胸をときめかせていた。
なんという幸運! 雲が陽を遮って、礼拝堂の中を闇にしてくれているではないか! これなら礼拝堂の中を縦横に歩いてもだいじょうぶだ。あとは、時の鐘だ。
来い!
来い!
頭の悪そうな父親と、ウサギのように臆病そうな子供よ!
そなたらの知性や人格などどうでもよい!
余を、ここから解放するためだけに動け!
「バーツラフの墓は黄金をふんだんに使ってあるっていうけど、これって、本物なのかな。ねえツムグ。どうおもう?」
バーツラフの墓の金属部分を指で擦っていた千早が、指に金のカスがついていないかとおもって指を目の前に持っていった。
「ちぇっ。千年の汚れがついただけだよ」
「パパ。この犬小屋なんだけど、なんだか様子が変だよ。中は真っ暗なんだけど、その暗さが普通の暗さじゃないみたいなんだ。なんか、ブラックホールみたい」
「ブラックホールだって? 礼拝堂が暗くなったからそんなふうに見えるんじゃないの?」
「違うよ。暗すぎるんだ。お習字の墨汁の黒とも違う黒だよ。それに、奥のほうに、なにかあるみたいなんだよね」
「どれどれ」
千早が首を伸ばして覗き込んだ。雲が風に流されて動き出した。礼拝堂の端に差し込んできた陽光がじわじわと光の面積を広げていく。それにともなって室内に明るさが戻ってきた。
「ほんとだ。なにかあるよね。犬小屋みたいだから、野良犬でも隠れているんじゃないの」
千早がのんきに奥を覗き込む。紡も千早の横で背伸びして小屋の奥を窺った。陽光は二人の足元まで迫っていた。
「ほらパパ。なんか、奥から見られているような気がしない? なにかいるよ」
「そうか? 僕にはわかんないけどな」
紡のスニーカーの踵に陽がさし、千早のブーツの踵にも陽が伸びた。紡は納得がいかなくて背伸びをして身を乗り出した。何かの気配の正体を確かめたかった。
千早のブーツの踵に、とうとう陽光がとどいた。
「ツムグ。それより宝物庫の鍵を開けようよ。きっとまたツムグの指を使えば鍵が開くよ」
「なにいってるんだよ」と、言い返そうとしたとき、正午を告げる鐘が鳴りだした。天地を揺るがすような荘厳な鐘の音に、礼拝堂の空気が静電気を帯びたように放電しはじめた。
紡と千早の体が青白い何本もの放電に絡みつかれて一瞬宙に浮いた。
「うわあああー!」
電気ショックで千早が叫んだ。
「きゃあああー」
紡も叫んだ。
「グウォガアアア――!!」
バーツラフも叫んだ。
バーツラフは、千八十年分の悲願を果たすべく暗黒から飛び出した。
「キャアアアアアアアア! 骸骨が! 骸骨だ!」
犬小屋の中から飛び出してきたのは人間の頭蓋骨だった。茶色にくすんだ頭蓋骨は、空洞の眼窩の中に眼球があるかのごとく紡に焦点を合わせていた。狙いすまして、骨から直接生えている恐ろしげな歯列で、ダウンジャケットのフードにパカッと噛み付いた。
「ギャアアアアア――!」
それを見て千早が叫んだ。
「時はいま! 急げ! あの鐘が鳴り止まぬうちに!」
フードに噛み付いたバーツラフが、声高々に叫んだ。力任せに宝物庫の扉のほうに紡を引っ張っていく。
「待ってツムグ! パパを置いていかないで」
千早が慌てて紡のあとを追った。宝物庫の扉に取り付けらている七つの鍵穴から、七色の光が放射していた。赤、青、乳白色、透明、緑、黄色、紫、の光が強まるにつれて七色の光が混ざりだし、扉全体が眩しく発光しはじめた。
プラハの街中の教会から正午の時を告げる鐘が次々と鳴りはじめた。礼拝堂の中にも鐘の音が何重にもなって押し寄せてきた。七色の光と鐘の音が重なったとき、宝物殿の扉が高熱で溶けるように強烈な光を放って透明になっていった。
「時はいま! いざ、行かん!」
紡は、ジャケットのフードに噛み付いた頭蓋骨の大声を聞いていた。なにがなんだかわからなくなっている頭に、その声だけははっきり聞こえた。
千早が「ツムグ! ツムグ!」と叫んでいる声も聞こえていた。しかし、あとは何もわからなかった。強い力に体ごと持っていかれて、目を開けていられないほどの眩しい光の中に飛びこんでいた。
目を閉じていたとおもうのだが、あけていたのかもしれない。歪んで波打っている光の空間には鐘の音が鳴り響いていた。それなのに静かだった。自分が直立していることはわかった。無重力のような不安定な状態ではなく自分の足で立っていた。そして、フードを強く引っ張られて前につんのめったとき、光の空間からポンととび出していた。
紡は恐る恐るあたりを見回した。目に映るものは何もなかった。建物ひとつ、草木一本生えていない。昼なのか夜なのかもわからない、あやふやな明るさの中にいた。足をつけている地面は、乾燥しきった白っぽい土だった。何もないのだから地平線ぐらいは見えるかと目を凝らしたが、それも亡羊としてはっきりしない。
風が無かった。空気は止まったままで動かない。物音は皆無だ。あるのは、自分が立っている土だけ。ブルリと身震いした。ここは、どこなのだ。
紡は片足を踏み出した。が、その足は、地面に根が生えたように動かなかった。つんのめりそうになって足元を見ると、大人の男の手ががっしりと紡の足首を掴んでいた。
「ツムグゥ。ツムグゥ」
千早の声が聞こえる。しかし、千早の姿は見えない。紡の足首を掴んでいる手首から先が消えていた。
「パパ!」
叫んで、慌てて千早の手を掴んで引っ張った。千早が、スポンと飛び出してきた。