9月8日
「待った?」
「いや、それほどでもないよ」
デートの待ち合わせの定型文のような会話をして、私は彼の向かいに座った。
まぁデートではないにせよ、待ち合わせには違いないのだけれど。
「ちょっと迷っちゃった」
「地図、分かりづらかった?」
「地図がっていうより、この店自体がね。思った以上に奥まったところあったから」
「ああ、確かに」
そう言って彼は開いていた本に栞を挟むと、コーヒーを一口すすった。
「でも、ここは僕のお気に入りの場所でね。百日さんにも紹介したくて」
ここは、小さなブックカフェだった。
隠れ家的な雰囲気が心地いい。落ち着いた色調で、ターゲット層はもう少し上のような気がするけれど、それがまた、私の好みだった。
「うん、すごく素敵」
「でしょ」
彼は得意げにそう言って、何か頼む? とメニューを私に手渡した。
カフェと言うだけあって、コーヒー系が中心のようだけれど、軽食としてサンドイッチやパスタなんかも載っている。
まぁでも、とりあえずは飲み物だろう。
カフェオレ、カフェモカ、メジャーなところを指でなぞっていると、あまり見覚えのないものに当たる。
「カプチーノ……コンパンナ? 何、これ」
「ああそれね。パンナって、生クリームのことなんだって。生クリームが乗ったカプチーノ。美味しいよ」
「へぇ」
じゃあ、とそれを注文する。
店内に流れていた曲が、クラッシックからジャズに変わった。
「昨日、メールもらった時は驚いたよ」
「いきなり過ぎた?」
「それもあったけど……学校外で会うなんて」
「そう言えばそうだね」
あの日以来、放課後の空き教室なんかでコソコソと会話していた私たちだけれど、外で話そうというのは初めてだ。
だからと言ってそこに特別な意味がないのは、彼の態度でよく分かるが。
彼は栞を外して、また本のページをパラパラとめくった。
「それに、ちょっと意外だったな」
「何が?」
彼はちらりと視線をあげて、すぐ本に戻した。空いた右手でコーヒーを飲む。
器用なものだ、と呆れるよりも感心した。
あちらの彼にはコーラとかが似合いそうだけれど、こちらの彼には随分とコーヒーが似合っている。
「本とか、あんまり読まないタイプだと思ってたから……」
「結構読むよ。僕はね」
なるほど。
それ以上は聞かない。彼のあの泣きそうな笑顔を見て以来、こちらの彼と話す時にあちらの彼の話はしないと決めていた。
まぁ、ちょうどいいタイミングで、
「お待たせしました」
と私の頼んだカプチーノなんとか——お洒落なカプチーノがテーブルに置かれたというのもあったけども。
「本当に生クリームのってる。なんか可愛い」
「あはは、パフェみたいだよね」
「うん。ねぇ、これってどう飲んだらいいの?」
「そのスプーンで生クリーム溶かしながら飲む……んだと思う。実はよく知らないんだよね」
「え、そうなの?」
てっきりコーヒー通なのかと思った、と私が言うと、ちょっと知ったかぶっちゃった、と彼は少し戯けたように笑った。
「あ、美味しい」
「ここのは全部美味しいよ。今度来た時は普通のカプチーノ頼んでみたらいいかも。ラテアートしてくれるから」
「うわぁ、見てみたい」
見てみなよ、と彼は言った。またこの店に来る許可をもらったみたいで、少し嬉しかった。
「それにしても、よくこんなお店知ってたね」
「ん?」
「だって——なかなか見つけづらいでしょ、ここ」
「まあね。でもその代わり、見つかりたくない時には最高だよ」
「……そうなんだ」
彼は見つかりたくないのだろうか。誰に?
動揺を隠すように、チビチビと飲み物に口をつけた。
私たちがわざわざ別々に来たのも、少しでも誰かに見つかるリスクを避けるためだった。
それでも私をここに呼んだのは何故なのだろう……?
「不思議?」
「え?」
「何故僕がここに百日さんを呼んだのか」
「う、え、ええと……うん」
心を読まれたかと思ってどきりとすると、彼はクスクスと笑った。
「百日さんはね、特別なんだ」
「えっ」
数分前に自分で否定した可能性が、まさか本当だったりするのだろうか。
「特別って、どういう……」
「この僕を知ってるのは、百日さんだけだから」
「ああ、そういうことね」
変な期待をしてしまった、恥ずかしい。
ちょっとガッカリした私がいる。
「それに、百日さんって本好きでしょ」
「うん」
「ラノベから専門書まで、いろいろ読んでるよね」
「え、何で知ってるの?」
彼は少し気恥ずかしげにコーヒーを含んだ。
「本好きの性かな、なんか気になっちゃって……」
「ああ、何の本を読んでるんだろうって?」
「そう。特に、百日さんみたいに熱中して読んでるとさ。何かな、面白いのかなって」
それは確かに私にもよく分かった。
思うに、彼と私は本好きの“タイプ”が似ているのだ。
「笹塚くんって、本読んでるとこに話しかけられても嫌に思わないでしょ」
「え、まあ……」
「でも、本を読んでるのをやめて会話をしろって言われるのは嫌でしょ」
「そうだね」
「やっぱり」
私もだ、と言えば彼はお返しのように、やっぱりね、と言った。
「タイプが似てるんだ、私達」
「うん。でも、百日さんをここに呼んだ理由はそれだけじゃないよ」
「え?」
彼はちょうど読み終わったらしく、パタンとその本を閉じた。
「ちょっと待ってて」
席に置かれていた小さな紙の束から一枚抜き取って、彼はそこにサラサラと何かを書いた。
来て、と彼が行ったのに慌ててついていく。
大きなコルクボードの板。
そこには、
「……感想?」
「そう、本の感想を思い思いに書いて、貼ってく場所なんだ。で、僕のがこれ」
彼は、薄い青の紙を透明のピンで刺した。
“『螺旋階段』
登場人物にとても共感できる。この作者特有の繊細な心情描写が活きた一冊。ササユリ”
「ササユリ……」
「そう。前からササユリって名前を使ってたんだ。百日さんに呼ばれる前から」
すごいだろう? と彼はどこか自慢げに言った。
「これをどうしても見せたかったんだ」
そう言って、子供のように笑った。
その後、私達は一時間くらいその店にいた。
彼の読んでいた本を読んで、私も感想を書いてみた。
彼の隣にピンを刺す。
その時の名前は勿論——サルスベリだ。
“『螺旋階段』
友情や愛情が綺麗なものとしてだけでなく、どこか翳りもあるものとして描かれているのが良かった。
続きが出る予定らしいので、早く読みたい。
サルスベリ”