9月1日
9月1日
夏休み後の最初の日ほど辛いものはないと思う。
しかも今日に限って悪いことがさらに重なった。
まず最初に目覚ましが壊れてて朝寝坊。そのうえ通学途中に自転車がパンク。なんとか押して来たら、学校までの坂を登るバスはもう行ってしまっていた。
重い荷物を背負って漸っと学校に着くと、みんな始業式に行ってしまったのだろう、校舎はガランとしていた。
仄かに漂う生ぬるい風を超えて、教室への階段を上る。
ガラリとドアを開けた、そこに……。
驚いた顔でこちらを向いた、彼がいた。
何でこの人が今ここにいるのか。
私は思わず思考を停止した。
それほど予想外だったのだ。クラスの人気者、学校の有名人、眉目秀麗、成績優秀、運動神経も抜群で万能人間とさえ呼ばれる彼。
そんな彼が、優しく笑った。
「百日さんも、遅刻?」
「え?」
「バスに、乗り遅れたんでしょ?」
「あ、ああ、うん……」
僕もなんだ、と言う彼にやはり違和感を覚えた。
彼は僕と言っていたっけ。よく覚えていなかった。大体、話したことなんて数える程しかないのだ。
「えっと、笹塚くんは、何をしてたの?」
何、と繰り返して、ようやっと思いついたみたいにああ、と言った。
「ああ、花を見てた」
「花?」
「これ」
と彼が指差したのは百合の造花だった。
「それ、造花だよ」
「うん知ってる」
そりゃあそうだ。まじまじ見つめてて、気づけないはずもない。
私は彼と、彼に向かい合った百合を見た。
私は造花はあまり好きじゃなかった。
だって……。
「造花って、鏡に映った百合みたい」
「え?」
「鏡に映った百合は、どうしてああも醜悪になるんだろう。鏡に映るだけなのに」
考えがそのまま溢れた。
言葉と思考の境界が陽炎のように揺らいでしまう。
「それで言うなら、笹塚くんは本物の百合だね」
「百合」
「そう……まるで笹塚くんと造花の間に鏡があるみたい」
不思議ねと言うと、彼がキョトンとしているのに気が付いた。顔が赤くなる。
昔からの悪い癖だ、思いついたことをそのまま口に出してしまう。
彼はキョトンとした顔のまま首を傾げた。
あどけない、子供のような仕草だった。
そしてゆったりと口を開く。
「百合って、僕の名前にかけたの?」
「な、名前?」
「笹塚 悠里。この花、ササユリだから」
ささづかゆうり。ささゆり。笹百合。
「……知らなかった」
「そっか」
「うん」
彼は私がどちらを知らなかったと思ったのだろう?
彼の下の名か、それとも百合の名か。
彼は口元を緩ませて、
「百日さんって面白いね」
「そ、そう?」
「うん」
クスクスと笑い声を漏らした。
普段よく教室で耳にしていたゲラゲラという笑いではなく。
それにしても、面白いと言われたのは初めてかもしれない。変わっている、とはよく言われるけども。
「僕が笹百合なら、百日さんはサルスベリだよね」
「サルスベリ」
「樹の名前だよ。綺麗な花を咲かすんだ」
「……何で私がその、サルスベリなの?」
彼は少し驚いたような顔をした。
「分からない?」
「ええと、うん」
「そう、じゃあ、サルスベリって今度漢字変換してみて。そしたらきっと分かるよ」
と、そんなことを言った。
漢字変換?
私はよく分からないまま、うん、と頷いた。
……会話が止まってしまった。
沈黙の先の窓を通して、蝉が盛大に騒いでいた。
彼はまた、百合の造花を見つめていた。
「み、みんな……あとどのくらいで戻ってくるだろうね」
静寂に耐えかねてそんなことを言えば、彼はその瞳を瞬いた。
彼のその、百合の花弁のように純粋そうな瞳がこちらを向くのには、なんとも言えない心地がした。
「さあ、どうだろう」
「……遅いね」
そう言うと、彼はまた、ちいさく笑い声を漏らした。
「そもそも遅れたのは、僕たちの方だよ」
「……ああそうだった」
「ね?」
不思議だ。彼が笑うと空気が緩む。
やっぱり、彼は花だ。百合の、笹百合の花だ。
——でも、それは。
「……あのさ」
「うん?」
「笹塚くんは、どっちなの?」
私は何と言っていいか分からなくて、言葉足らずになった。
「えっと……普段の笹塚くんと今の笹塚くんと、どっちが本物、なの?」
「……」
彼は視線を百合に戻してしまった。
鏡写しの二つの花は、お互いを慰め合っているようだった。
クーラーがブォンと鳴いた。
その音を合図にしたように、彼はまた言葉を紡いだ。
「僕が百合みたいだと言ったね」
「う、うん」
「鏡に写った百合は、造花は醜悪と言ったね」
「……うん」
彼が何を言いたいのか、言おうしているのか分からなかった。
「僕が百合だと言うならば——」
彼はふと思いついたようにカーテンをざざあと引いた。雨の降るような音だった。
「——普段の僕は、造花だ」
夏の光を背から浴びた彼は、今にも泣きそうに笑っていた。
今日は結局、それ以上話すことは叶わなかった。
私が言葉を探しているうちに、始業式からみんなが帰って来てしまったのだ。
泣きそうだった彼は、今は友達とゲラゲラ笑っていた。
楽しそうに見えた。
しかし、あれは造花なのだ。
鏡に閉じ込められた、醜悪な百合の花。
そして帰った時、ふと思い出して私はサルスベリを打ってみた。
打ってみて、変換して、彼の言葉の意味を理解した。
ああなるほど。
私、百日 紅は確かに——百日紅だ。