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命の価値が違う男爵令嬢へ 〜私を殺した先輩たちを今度は攻略します〜  作者: キメ


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第2話

「っぁ……!」


 背中に衝撃が走った。


 何かに足を取られたのかと思ったが、違う。次の瞬間には身体が床へ叩きつけられ、自分の上へ誰かの重みが覆い被さっていた。


 息が詰まった。


 肺の中の空気が一気に押し出され、声にならない悲鳴だけが喉の奥で震える。


 暗くて、何も見えない。


 ただ分かるのは、自分が押さえつけられていることと、その相手が人間とは思えないほど熱い呼吸を繰り返していることだけだった。


 荒い息遣いが首筋を撫でる。


 ひどく近い。


 耳元で獣が唸っているようにも聞こえた。

 苦しそうだった。

 飢えているようでもあった。


 …まるで何かに必死で耐えているような息遣いだった。


 怖い。


 その感情だけが、ローゼの頭の中を埋め尽くす。


 逃げなければ。

 助けを呼ばなければ。


 そう思うのに身体は動かず、指先ひとつ動かせない。


 そして次の瞬間、首筋へ鋭い痛みが走った。


「――っ!」


 視界が白く弾ける。


 熱した針を突き刺されたような痛みだった。

 いや、それ以上だったかもしれない。


 皮膚が裂ける感覚。

 肉を貫く感覚。

 そして、その奥へ何か鋭いものが深く食い込んでくる感覚。


 …牙だ。


 そう理解した瞬間、ローゼの全身から血の気が引いた。


 噛まれている。


 首を…牙で。


 

 身体の奥から何か温かいものが抜けていく。

 命そのものが吸い上げられているようだった。


「ぁ……っ……」


 ローゼの喉から漏れた声はあまりにも弱かった。


 抵抗したいのに力が入らない。

 指先から感覚が消えていく。

 足先が冷たく、腕も重い。


 心臓だけが嫌になるほど激しく脈打っている。


 まるで自分という存在そのものが削り取られているようで怖かった。


 

 生まれて初めて、ローゼは今から本当に死ぬのだと理解した。


 …泣きたかった。

 誰か助けて、と叫びたかった。


 けれど声は出ず、ローゼの意識はゆっくりと沈んでいく。


 深い水底へ引きずり込まれるように。

 暗闇の底へ。


 どこまでも。


 どこまでも。


 その時だった。


「……悪いことをした」


 ひどく苦しそうな、低い声が耳元へ落ちた。



 謝罪にも聞こえた。

 懺悔にも聞こえた。

 あるいは、自分自身へ言い聞かせているようにも。


 誰の声なのかは分からない。

 顔も見えない。


 けれど。


 闇の中でこちらを見下ろす瞳だけは見えた。


 赤かった。

 血よりも濃く。

 暗闇の中で不気味なほど鮮明に。


 


 そして。


 ローゼの世界が途切れた。



 ◇



 ――カチリ。


 小さな音だった。

 けれど、それは妙にはっきりと聞こえた。


 まるで歯車が噛み合う音か、あるいは鍵が開く音のようだ。


 その瞬間、ローゼは弾かれたように目を開けた。


「……え?」


 荒い呼吸が漏れる。

 胸が上下する。


 心臓が痛いほど鳴っていた。


 どくん。


 どくん。


 どくん。


 まるで今にも胸を突き破りそうだった。


 …生きている。


 その事実が信じられず、震える手で首筋へ触れる。


 そこには確かに牙が食い込んで、血が流れていたはずだ。


 なのに、傷はなかった。

 痛みすら残っていない。


 けれど。



 ーーーー死んだ。確かに死んだ。


 あの恐怖も。

 身体から命が失われていく感覚も。

 全部覚えていて、夢だったとは到底思えなかった。




「な……に……?」


 声が震えて何一つ理解できない。


 その時だった。





 べたり、と。


 湿った音が響いた。


 ローゼの身体が強張り、ゆっくりと顔を上げる。


 壁だった。


 空気の表面に、いつの間にか赤い染みが浮かび上がっている。


 血だった。


 どろりとした赤。


 誰かが壁へ叩きつけたような鮮やかな血痕。


(ひっ……)


 喉が引き攣る。

 悲鳴は出ず、息だけが浅く漏れる。


 血が動いた。


 じわりと、まるで生き物のように。


 壁を這いながら形を変えていく、ありえない光景だった。


 だが目を逸らせない。


 見えない誰かが指先で文字を書いているように、赤い線はゆっくりと連なっていく。


 やがて血は文字になった。




【よるが ふかくなるまえに】


【あなたの いのちの ろうそくは きえてしまうでしょう】




 ローゼは呆然とそれを見つめた。


 意味が分からない。


 けれど、胸の奥だけが嫌なほど冷えていく。

 自分の知らない何かが始まってしまったのだと、本能だけが理解していた。


 血文字は止まらない。


 古い文章が崩れるように消え、新しい文字が浮かび上がる。



【けれど ひとの ぬくもりは】


【くらいよるを すこしだけ おそくします】



 ぬらり、と血が動く。

 壁を伝うその様子は蛇のようだった。


 そして現れた次の文章を見た瞬間、呼吸が止まりそうになった。



【はじめの おつとめ】


【アルシオン・ヴァレンティアの おへやを そっと のぞいてみましょう】



 なぜアルシオンの名前が出てくるのだろう。

 意味が分からない。


 けれど背筋を這う悪寒だけは強くなる。




【うまくできたなら】


【あかいきばは すこしだけ やさしくなるでしょう】





 赤い牙。


 その言葉を見た瞬間、ローゼの首筋の幻痛が蘇り、全身の毛が逆立つ。


「どういうこと……?」


 掠れた声が漏れた。


 その瞬間。










 ガシャン!!


 耳をつんざくような音が図書館へ響き渡った。


 激しい音が図書館へ響き渡り、ローゼは反射的に振り返る。


 花瓶が倒れ、破片が床へ散らばっている。


 その傍らでカシアンが膝をついていた。


「……っ、寒……」


 掠れた声だった。


 その光景を見た瞬間、ローゼの呼吸が止まる。


 知っている。

 この場面を。

 ついさっき見た。


 いや、違う。

 さっきではない。


 …死ぬ前だ。



 身体が勝手に動き、カシアンへ駆け寄る。

 触れた頬は異常なほど熱かった。


 その熱さも覚えている。

 その後に何が起きるのかも。


(このあと……)


 ローゼの心臓が激しく脈打つ。


(たしか、このあと、ガゼルが言うの――)


「ただの風邪だろ」


 騎士のガゼルが眉をひそめる。


 その言葉を聞いた瞬間、ローゼの背筋を戦慄が駆け抜けた。


 本当に同じだ。


 全く同じだった。


 ガゼル自身も少し息が荒い。


 アルシオンは咳き込みながら口元を押さえているその姿を見た瞬間、ローゼは凍りついた。


 指の隙間から覗く冷たい瞳のその奥で。


 ほんの一瞬だけ。

 赤い光が揺れた気がした。



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