第6話 社会復帰
門が開いたとき、空は思ったより青かった。
更生指導施設『エデン』を出る日、職員は最後にこう言った。
「あなたはもう、再依存リスクは低水準です。社会に適応できると判断します」
依存指数は28。
入所時の三分の一以下。
俺は深く頷いた。
「ありがとうございました」
その言葉に、嘘はなかった。
駅までの送迎車の中で、
窓の外を流れる景色を眺める。
煙の匂いはない。
吸いたいとも思わない。
自分は正常だ。
そう確認するように、胸に手を当てる。
心拍は安定している。
スマートフォンは返却されたが、通知はほとんどなかった。
里奈の連絡先は消えている。
家族からのメッセージもない。
ニュースアプリを開く。
社会は変わらず回っている。
違法喫煙の摘発記事が、小さく掲載されている。
コメント欄。
「まだいるのか」
「依存は治らない」
「エデンに送れ」
スクロールする指は止まらなかった。
自分は、もうそちら側ではない。
だが、完全にこちら側でもない。
以前勤めていた会社へ向かった。
受付で名乗ると、空気が一瞬だけ固まる。
人事担当が応接室に現れる。
丁寧な口調。
「更生プログラムを修了されたことは承知しています」
その更生という言葉が、やけに強調されて聞こえた。
「しかし現在、コンプライアンス上の観点から…」
続きは予想できた。
復職は難しい。
形式的な謝罪を受け、ビルを出る。
ガラス張りの外壁に映る自分は、スーツ姿の、ただの男だった。
だが中身には、「元喫煙者」という見えない札が下がっている。
ハローワーク。
端末に履歴を入力する。
前科の有無。
一瞬、指が止まる。
正確に入力する。
検索結果は少ない。
面接。
「更生施設に?」
「はい」
面接官の視線が、
わずかに硬くなる。
「再発の可能性は?」
「低水準と評価されています」
自分でも驚くほど、滑らかに答えられた。
エデンで訓練した言葉だ。
結果は不採用。
理由は告げられない。
街を歩く。
巨大スクリーンでは、エデン特集が流れている。
《再依存率を大幅に低下させた最新プログラム》
笑顔の元収容者のインタビュー。
「私は生まれ変わりました」
コメンテーターが頷く。
「依存は甘えではなく、治療対象です」
一般席からの拍手。
通行人は足を止めない。
それが当然の風景のように。
アパートを借りるにも保証人が必要だった。
両親には連絡していない。
不動産屋は言う。
「保証会社を利用できますが、審査が少し厳しくなります」
少し、の意味は分かっている。
審査は通った。
家賃は相場より高い。
狭いワンルーム。
白い壁。
固定されていないベッドと机。
カメラはない。
それなのに、天井を見上げてしまう。
赤いランプはない。
静かだ。
静かすぎる。
夜。
窓を開ける。
遠くの路地で、誰かが小声で笑っている。
煙の匂いはしない。
条例違反で即通報される時代だ。
胸の奥は、静かだ。
吸いたいとは思わない。
依存は、ない。
だが別の感情がある。
視線。
履歴。
記録。
検索すれば出てくる実名報道。
更生証明書はある。
だが消えない履歴もある。
数日後、コンビニのアルバイトが決まった。
レジに立つ。
客の一人が、俺の顔を見て一瞬止まる。
どこかで見た、という目。
気のせいかもしれない。
だが、胸がわずかに波打つ。
モニターはない。
警告音も鳴らない。
自分で呼吸を整える。
ゆっくり吸って、吐く。
心拍は落ち着く。
訓練通りだ。
帰り道、街頭スクリーンに再びニュースが流れる。
《違法喫煙者、再逮捕》
画面の隅に、小さく表示される文字。
エデン修了者。
ざわめき。
「やっぱり治らないんだよ」
「甘いんじゃないか」
俺は立ち止まる。
依存指数は、もう表示されない。
だが自分の中で、数値を想像してしまう。
28。
今はどうだろう。
25か。
30か。
測る術はない。
それが、少しだけ不安だった。
夜の部屋。
静まり返った空間。
白い壁。
監視カメラはない。
それでも俺は、姿勢を正して座っている。
誰も見ていないのに。
ノートを開く。
エデンでの最後のページ。
私は社会の一員として、正しい選択を続けます。
ペンを握る。
新しいページに書く。
今日も、吸いたいとは思わなかった。
それは事実だ。
嘘ではない。
だが、もう一行書き足す。
それでも、許されている気はしない。
ペン先が止まる。
窓の外で、救急車のサイレンが遠ざかる。
俺は、もう喫煙者ではない。
だが、元喫煙者ではある。
その肩書きは、この社会では消えない。
天井を見上げる。
そこにカメラはない。
ないはずなのに、見られている気がした。




