第4話 エデン
目が覚めたとき、天井の隅に黒い点があった。
カメラだと理解するまで、数秒かかった。
いや、理解していた。
理解したくなかっただけだ。
床に固定されたベッド。
壁に固定された机と椅子。
白い壁。
小さな個室トイレ。
透明な仕切りの向こうにシャワールーム。
そして、四隅に設置された監視カメラ。
死角はない。
昨日、エデンに到着してからの記憶は曖昧だった。
手続き。
番号の付与。
全身モニターの装着。
冷たい金属の感触が、まだ皮膚に残っている。
胸部、手首、足首。
薄い装置が身体に貼り付けられ、微細な振動を伝えている。
「被収容者番号E-17。起床時間です」
天井のスピーカーから無機質な音声が流れる。
声に感情はない。
俺はゆっくりと身体を起こした。
その動きさえ観察されている。
トイレに向かう。
視線が、無意識にカメラを避ける。
だが避けようがない。
ここでは、羞恥は私的な感情ではない。
用を足している間も、自分の心拍数がどこかに送られていると考えると、妙な息苦しさがあった。
朝食は無言で差し入れられる。
扉下の小さな開口部から、トレーが滑り込む。
誰の顔も見えない。
食後、再び音声が響く。
「被収容者番号E-17。自己分析プログラムを開始してください。本日のテーマは、なぜ私は喫煙を選択したのか、です」
机の上には、ノートとペンが置かれていた。
白いページを前に、しばらく動けなかった。
なぜ選択したのか。
選択……。
俺はただ、バーで吸っていただけだ。
恒一と笑いながら。
仕事終わりの決まった席で。
薄暗いカウンターの向こうにグラスが並ぶあの空間で。
外では吸わなかった。
誰かに勧めることもなかった。
生活を壊すほどでもなかった。
それが選択だったのか。
ペンを握る。
ストレス解消のため。
違う気がした。
習慣だった。
それも違う。
白紙が、こちらを見ている。
数分後、スピーカーが淡々と告げた。
「記入が確認できません。進行が停止しています」
監視されている。
当然だ。
俺は息を吐き、書いた。
私は、依存していました。
その言葉は、まだ他人事のようだった。
午後、最初の映像プログラムが始まった。
壁面のディスプレイが点灯する。
副流煙で呼吸器を患った女性の証言。
ヘヴン依存で家族を失った男の話。
崩壊した家庭の写真。
バーはヘヴンとは無関係だった。
だが、画面の中では同じ線で結ばれている。
「依存は連鎖する」
ナレーションが流れる。
胸の奥がざらつく。
モニターが微かに振動した。
心拍上昇。
「被収容者番号E-17。呼吸を整えてください」
俺は目を閉じ、ゆっくり吸って、吐いた。
画面の中の男が言う。
「やめられなかったんです。自分ではコントロールできなかった」
違う、と言いかけて、言葉が止まる。
俺はコントロールできていたのか?
映像終了後、感想文。
私は自分の行為が他人に与える影響を軽視していました。
本心かと問われれば、分からない。
だが、否定もできなかった。
夕方、個別カウンセリング。
扉が開き、初めて職員の顔を見た。
四十代ほどの女性。
落ち着いた声。
「陽介さん。ここは罰を与える場所ではありません」
穏やかな口調だった。
「あなたは悪人ではない。ただ、誤った選択を繰り返しただけです」
誤った選択。
その言葉が、胸に残る。
「なぜ吸ったのですか?」
「……習慣です」
「習慣は、積み重ねた選択です」
否定されない。
怒られない。
だが逃げ場がない。
「あなたは、自分を正当化していませんか?」
答えられなかった。
部屋に戻る。
扉が閉まり、鍵の音が響く。
静寂。
ノートを開く。
昼に書いた文章を見つめる。
少し考え、書き足した。
私は、依存を正当化していました。
手が止まる。
これは本当だろうか。
分からない。
だが、その一文を書いたとき、胸のざらつきがわずかに薄れた気がした。
天井のカメラは、無言でこちらを見ている。
モニターの表示が小さく変化する。
依存指数:78 → 75
数字が下がっている。
ほんの少し。
理由は分からない。
だが、その変化に、自分がほっとしていることに気づいた。
その感情に、戸惑う。
夜。
「被収容者番号E-17。消灯時間です」
照明が落ちる。
暗闇の中でも、赤い小さなランプが点いている。
監視は続いている。
ベッドに横たわり、天井を見上げる。
煙を思い出そうとした。
火をつける瞬間。
肺に入る熱。
だが、その映像は以前より曖昧だった。
代わりに浮かぶのは、
白い部屋と、数字。
俺は目を閉じる。
ここは楽園ではない。
だが、正しい場所なのかもしれない。
そう思いかけている自分に、気づかないふりをした。




