第3話 シール
刑務所の朝は早い。
決められた時間に起き、決められた場所へ移動し、決められた作業をこなす。
最初の一週間は、現実感がなかった。
一年六ヶ月。
数字だけが頭に浮かび、実感はどこか遠い。
意外だったのは、周囲の人間たちが思ったより普通だったことだ。
窃盗、傷害、違法薬物、密売。
罪状は違っても、皆、静かに生活している。
俺は、喫煙と言うのが少し恥ずかしかった。
暴力でもなく、詐欺でもない。
煙を吸っただけだ。
そう思っていたのは俺だけだった。
「タバコか…。」
同じ房の男が笑った。
四十代半ば、無精髭のある男だった。
「そんなに可笑しいか?」
「今では吸う奴は減ったからな」
その言い方が、妙に引っかかった。
彼は佐伯と名乗った。
ヘヴン所持で服役中だと言った。
俺は一瞬身構えた。
だが彼は落ち着いた男で、怒鳴ることも、威圧することもなかった。
「俺はヘヴンじゃない」
思わず口にすると、佐伯は肩をすくめた。
「違法は違法だろ」
…俺は何も言い返せなかった。
作業中、ふと煙の記憶が蘇ることがあった。
火をつける瞬間。
肺に入る熱。
吐き出す白い線。
体が覚えている。
だがここには煙はない。
代わりにあるのは、規則と監視だけだ。
ニュースは制限付きで流される。
相変わらず、違法喫煙の摘発は続いていた。
コメンテーターは言う。
「依存者は治療と矯正が必要です」
俺はその言葉を、どこか他人事のように聞いていた。
自分がその依存者だという実感は、まだ薄かった。
面会はもうない。
里奈も、両親も来なかった。
「欲しくならないか?」
ある夜、佐伯が小さな声で言った。
俺は無言だった。
彼は布団の下から、小さな透明の袋を取り出した。
中には四角いシールが数枚入っていた。
「シールだ」
聞いたことはあった。
肌に貼って、ゆっくりニコチンを摂取する違法パッチ。
差し入れの中に偽装させて、検査をすり抜けたらしい。
「煙も匂いもない。バレにくい」
「……リスクが高すぎる」
俺は即答した。
「俺には必要ない」
佐伯は笑った。
「そう言う奴が、一番長引く」
その夜、俺は眠れなかった。
数日後。
作業場で、指先が震えていることに気づいた。
禁断症状だとは思いたくなかった。
だが体は正直だった。
煙がなくても、体は何かを求めている。
夜、佐伯がまた囁く。
「一本分だと思えばいい」
俺は迷った。
煙は出ない。
誰にも迷惑はかからない。
もう刑務所だ。
これ以上、何を失う?
その考えが浮かんだ瞬間、負けていたのかもしれない。
「……一枚だけだ」
佐伯は何も言わず、シールを渡した。
冷たい感触が肌に触れる。
最初は何も感じなかった。
味も匂いもない。
拍子抜けするほど、味気ない。
「こんなものか」
そう思った。
だが数十分後。
胸の奥のざらつきが、すっと消えた。
体が軽くなる。
思考が滑らかになる。
煙がないのに、あの感覚だけが戻ってきた。
俺は目を閉じた。
これは大したことじゃない。
一度きりだ。
そう自分に言い聞かせた。
一度きりでは終わらなかった。
「もう一枚だけ」
「今日で最後」
その言葉を何度繰り返したか分からない。
煙のない依存は、
自分をごまかしやすかった。
吸っていない。
火もつけていない。
だから大丈夫だと。
ある朝、突然呼び出された。
検査。
身体モニタリングの数値に異常が出たらしい。
冷たい汗が流れる。
否定したが、無駄だった。
独房に移され、数日後、告げられた。
「更生プログラム対象とする」
それは実質的な、隔離だった。
さらに数日後。
俺は護送バスに乗せられた。
窓には鉄格子。
外の景色は遠い。
刑務所の門を出た瞬間、妙な解放感があった。
だがそれは、次の囲いの中へ向かう移動に過ぎない。
バスは市街地を抜け、人気のない山道に入った。
鉄格子のはまった窓越しに、木々が流れていく。
手錠の金属音だけが、時折小さく鳴る。
更生指導施設。
そこでは、24時間体制の監視、生活指導、更生プログラムがあるとされている。
だが、その内容は詳しく知らされていない。
監視といっても、どこまでなのか。
個室なのか、相部屋なのか。
自由時間はあるのか。
煙草の代替療法はあるのか。
何も分からない。
分かっているのは、そこが「管理される場所」だということだけだ。
やがてバスは減速し、大きな門の前で止まった。
高い塀。
有刺鉄線。
監視カメラ。
白い外壁が、夕陽に照らされている。
門の横に、無機質なプレートが掲げられていた。
――更生指導施設『エデン』
楽園。
その名前に、思わず小さく笑いそうになった。
ここが楽園なら、俺は何から追放されたのだろう。
門がゆっくりと開く。
バスが中へと進む。
後ろで、重い音を立てて門が閉じた。
その音が、妙に長く耳に残った。
俺はまだ、これから何が始まるのかを知らない。




