第2話 裏切り
司法取引制度が導入されたのは、喫煙全面禁止から三年後だった。
摘発の効率を上げるため。
密売ルートを断つため。
社会の浄化を加速させるため。
ヘヴンのような違法製品の流通を止めるには、内側から崩すしかない。
それが建前だった。
一定の情報を提供すれば、刑を軽減する。
密告者の身元は守られる。
名前は伏せられ、記録も封印される。
ニュースでは「合理的な制度」として紹介され、世論も概ね賛成だった。
誰かが裏切ることで、秩序は保たれる。
それがこの国のやり方だった。
高橋直人は、取り調べ室の白い机を見つめていた。
蛍光灯の光がやけに眩しい。
「使用歴は?」
「ありません。買っただけです。本当に使っていません」
声がかすれる。
ヘヴン。
違法指定された高揚成分を含む嗜好品。
所持だけで実刑の可能性。
あの日、仕事帰りに声をかけられた。
「合法時代の感覚、懐かしくないですか?」
売人の笑顔は軽かった。
ほんの出来心だった。
使うつもりはなかった。
ただ、持っているだけ。
それだけのつもりだった。
だが売人は警察にマークされていた。
取引の瞬間を押さえられ、家に帰ろうとしたところで逮捕。
すべては終わった。
妻と娘の顔が浮かぶ。
失職、実刑、家庭崩壊。
取り調べは続く。
刑事が書類を閉じた。
「所持量は多くない。使用歴もない。だが実刑は免れないだろうな」
その一言で血の気が引いた。
実刑。
娘の入学式に出られない未来がよぎる。
直人は、唇を噛んだ。
そして、自分から言った。
「……情報を出せば、刑は軽くなりますか」
刑事の目が細くなる。
「内容次第だ」
直人の脳裏に、ある場所が浮かぶ。
仕事帰りに立ち寄る、小さなバー。
違法と知りながら、煙をくゆらせていた店。
警察はまだそこを知らないはずだった。
摘発の話も出ていなかった。
だが、言えば確実に動く。
自分の罪は軽くなる。
あの人たちはどうなる。
葛藤はあった。
だが恐怖の方が勝った。
「……バーがあります。常習的に吸っている店です」
言葉がこぼれ落ちた瞬間、何かが決定的に壊れた。
数日後。
ニュース速報が流れた。
《違法喫煙バーを一斉摘発》
店の外観が映る。
見慣れたドア。
パトカーの赤色灯。
連行される常連客。
マスターのうつむいた顔。
直人はテレビの前で立ち尽くした。
自分が言わなければ。
あの店は、まだあったかもしれない。
妻が後ろから声をかける。
「よかったね……軽くなるんでしょ?」
直人は頷いた。
だが胸の奥に、黒い染みのようなものが広がっていく。
あの夜の笑い声。
カウンター越しの何気ない会話。
全部、自分が終わらせた。
守ったのは家族か。
それとも自分か。
罪悪感は、静かに、確実に、根を張り始めていた。
―――
拘置所。
陽介は思っていたより静かだと思った。
鉄の扉。
無機質なベッド。
小さな窓。
現実味がない。
まるで長い出張のようだ、とさえ思った。
「初犯なら執行猶予の可能性はあります」
弁護士は淡々と言った。
常習性が争点になるらしいが、俺は「そこまで悪質じゃない」と思っていた。
会社も事情を説明すれば理解してくれるかもしれない。
里奈も、話せば分かってくれるかもしれない。
どこかで、まだ楽観していた。
面会室のガラス越しに、里奈が座っていた。
思っていたより落ち着いた顔をしていた。
「……久しぶり」
俺が言うと、彼女は小さく頷いた。
沈黙が長い。
「どうして?」
その一言に、答えられなかった。
「私の父のこと、知ってたよね」
知っている。
ヘヴンの受動喫煙で亡くなったことも、その後どれだけ苦労したかも。
「ヘヴンじゃないんだ」
思わず口にした言葉は、あまりに浅かった。
里奈は首を振った。
「そういう問題じゃない」
ガラス越しでも分かるほど、彼女の目は冷えていた。
「吸う側の人だったんだね」
何も言えない。
言い訳も、謝罪も、全部が遅い気がした。
しばらくして、彼女はまっすぐ俺を見た。
「別れましょう」
その声は静かだった。
決意の声だった。
俺は何も言えなかった。
ただ、頷くこともできずにいた。
時間を告げるブザーが鳴る。
彼女は立ち上がる。
最後まで、泣かなかった。
俺も、引き止めなかった。
両親が面会に来たのは、その翌日だった。
父は無言で座り、母は目を腫らしていた。
「ニュースを見た」
父が低い声で言う。
実名報道。
年齢、勤務先、顔写真。
すべてが晒されているらしい。
「会社はどうなるんだ」
「……分からない」
父は拳を握った。
「お前のせいで、妹の婚約が破棄になった」
一瞬、意味が分からなかった。
「相手の親がな、犯罪者の兄がいる家とは縁を結べないと」
母が嗚咽を漏らす。
あいつは、俺と違って真面目で、家族の誇りみたいな存在だった。
「お前は自分だけの問題だと思っていたのか」
父の声は震えていた。
怒りか、失望か、分からない。
「もう帰ってくるな」
その言葉は、ゆっくりと、確実に刺さった。
勘当。
俺は、初めて自分の選択が他人の人生を壊したのだと理解しかけた。
だが、まだどこか現実感がなかった。
裁判はあっけなかった。
検察は、俺が常習的に喫煙していたことを指摘した。
バーへの出入り記録。
押収された吸殻の成分分析。
店主や他の客の供述。
「単発的行為とは認められない」
裁判長の声は平坦だった。
弁護士は情状酌量を訴えたが、空気はすでに決まっているようだった。
判決。
「被告人中村陽介を、懲役一年六ヶ月に処する」
執行猶予は付かなかった。
木槌の音が響く。
一瞬、何も聞こえなくなった。
一年六ヶ月。
長いのか短いのか、分からない。
ただ、里奈の「別れましょう」という声が、頭の奥で反響していた。
父の言葉も、母の泣き声も、重なっていく。
俺は初めて、自分の足場がもうどこにもないことを知った。




