第12話 こぼれた言葉
日曜の夜。
部屋は静かだった。
陽介は机の引き出しから、黒いノートを取り出す。
エデン時代から続けている自己分析ノート。
感情の揺れを書き出し、数値化し、整理する。
それが習慣だった。
ページを開く。
【本日の出来事】
・真希とクラフト市
・会話は問題なし
・身体接触(軽微)
・緊張感:中程度
・不安:低
ペンが止まる。
なぜ、誘われた?
真希は、なぜ自分を誘ったのか。
同僚として自然か?
それとも……。
一瞬、浮かぶ考え。
(恋愛感情……?)
すぐに首を振る。
ありえない。
俺は元喫煙者だ。
エデン出身。
履歴書に傷のある人間だ。
そんな自分を、普通の女性が……。
「ない」
小さく呟く。
きっと、同年代の同僚が自分しかいないからだ。
それだけだ。
論理的に考えれば、それが妥当。
納得する。
だが。
胸の奥が、少しだけ締め付けられる。
なぜだ。
否定したはずなのに。
その感覚に、名前をつけられないまま、ノートを閉じた。
翌朝。
「おはようございます!」
真希はいつも通り、明るい。
まるで昨日が特別な日ではなかったかのように。
「昨日、あの木のスプーン結局買っちゃいました」
笑いながら話す。
俺は頷く。
普通だ。
いつも通り。
やはり、あれは特別ではなかった。
そう確信する。
なのに……。
また、胸が少し痛む。
(期待していたのか?)
何を?
自分が?
馬鹿げている。
真希は同僚だ。
それ以上でも以下でもない。
そう思い込もうとするほど、彼女の声が気になる。
笑い方が気になる。
他の男と話していると、なぜか落ち着かない。
そしてある日。
昼休み。
言葉が先に出た。
「今度、映画……行きませんか?」
自分でも驚くほど自然だった。
真希は目を瞬かせる。
そして、すぐに笑った。
「行きます」
その笑顔に、胸の奥がはっきりと熱くなる。
二度目のデートは映画だった。
小さなシネコン。
ポップコーンの甘い匂い。
上映後、二人はしばらく感想を言えずに歩いた。
「最後、良かったですね」
真希が言う。
「あの主人公、ずっと自分を低く見てましたよね」
俺の足が一瞬止まる。
「……そうですね」
「でも、隣にいる人は最初から好きだったのに」
何気ない一言。
だが、心に刺さる。
夜風が少し冷たい。
駅前のイルミネーションが揺れる。
俺は気づく。
隣に並んで歩くこの時間が、もう特別になっていることに。
三度目は水族館だった。
平日の午後で、人は少ない。
青い光に包まれた通路。
巨大な水槽の前で立ち止まる。
魚の群れがゆっくりと回遊している。
真希はガラス越しに言う。
「なんか、落ち着きますね」
俺は真希の横顔を見る。
青い光に照らされて、柔らかい。
守りたい、とふと思う。
その感情に、自分で驚く。
俺が誰かを守る?
そんな資格があるのか。
だが、感情は理屈を聞かない。
帰り道、手が触れた。
今度は引かなかった。
真希も、離さなかった。
何度目かのデート。
川沿いの遊歩道。
夕焼けが水面を赤く染めている。
特別な日ではない。
記念日でもない。
ただ、並んで歩いているだけ。
真希が笑う。
他愛ない話をしている。
その瞬間、胸の中で何かが満ちる。
恐怖も、自己否定も、計算も。
すべてを追い越して。
言葉がこぼれた。
「結婚しよう」
自分で言ったのに、理解が一拍遅れる。
言おうと思ったわけじゃない。
準備もしていない。
自然に、あふれ出た。
真希は立ち止まる。
一瞬、目を大きくする。
驚き。
そして、ゆっくりと笑顔に変わる。
目が少し潤む。
「……喜んで」
その声は震えていない。
まっすぐだった。
夕陽が沈む。
俺の胸の奥で、何かが確かに決まった。




