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第11話 居場所の匂い

工場の朝は早い。

鉄の匂いと油の匂いが混ざった空気を吸い込みながら、陽介はシャッターをくぐる。

「おはよう」

先に来ていたのは松田だった。

三年前、エデンのフォローアップでこの工場に来て、今は完全に正式採用として定着している男だ。

四十代前半。

無口だが、腕は確か。

「おはようございます」

松田はそれ以上何も言わない。

だが、陽介は知っている。

自分が初日に緊張で手元を震わせていたとき、さりげなく作業台の高さを調整してくれたのはこの人だ。

何も言わない優しさ。

ここでは、それが普通だった。


数週間前、もう一人フォローアップで若い男が入ってきた。

名前は翔太。二十代半ば。

作業に慣れず、よく失敗する。

ある日、寸法を間違えて部品を一本無駄にした。

顔が真っ青になっている。

「すみません……」

社長はため息をつきながら言う。

「次から気をつけろ」

怒鳴らない。

それだけだ。

陽介が翔太の横に立つ。

「最初はみんなやる」

自分もやった。

あの日の震えを思い出す。

翔太は小さく頷いた。

その様子を、少し離れたところで真希が見ていた。


―――


私、倉本真希はこの工場で七年目になる。

元喫煙者がフォローアップで来ることも、珍しくない。

最初はぎこちなくても、真面目に働く人間が多いとを知っている。

だから偏見はなかった。

陽介さんが来たときも、「ああ、また一人来たんだ」くらいだった。

ただ、この人は、少し違うと思った。

失敗を怒られても言い訳をしない。

誰かが重いものを持っていれば、自然に手を出す。

それを恩着せがましくしない。

そして、自分の話をあまりしない。

まるで、必要以上に空気を乱さないようにしているみたいに。

ある日の午後。

私が材料箱を持ち上げようとして、少し体勢を崩す。

「持ちますよ」

陽介さんがすぐに隣に立つ。

「大丈夫です」

と言いながらも、箱の半分を受け取られる。

軽くなる。

その自然さに、少し胸が温かくなる。

「ありがとうございます」

「いえ」

それだけの会話。

だが私は思う。

この人は、自分の存在を大きくしない。

それでも、ちゃんとそこにいる。


昼休憩。

私は思い切って聞いた。

「エデン、どうでした?」

陽介さんは少しだけ驚く。

「知ってますよ。みんな」

当たり前のことだ。

この工場はエデンと提携している。

隠す必要はない。

「……管理されます。全部、数値で」

「へえ」

私は素直に感心する。

「今は?」

「もう何もないです」

少しだけ、言葉が落ちる。

「自由ですね」

その言葉に、陽介さんはわずかに目を伏せた。

私はそれ以上踏み込まなかった。

踏み込まないけれど、距離は縮めたいと思った。


金曜日の夕方。

作業が終わり、工具を片付ける。

外は少し赤く染まっている。

私は手袋を外しながら言った。

「日曜、空いてますか」

陽介さんは動きを止める。

「特に予定は」

「駅前でクラフト市やってるんです。雑貨とか、屋台とか。よかったら、一緒に」

少しだけ早口だった。

自分でも分かる。

これは、ただの同僚への誘いではない。

陽介さんは一瞬、何かを考えるように黙る。

自分が誘われる側になることを、想定していなかったみたいだ。

「……いいですよ」

静かな返事。

私はほっとして笑った。


―――


日曜。

真希と駅前で待ち合わせ。

駅前広場は思ったより賑わっていた。

木製の屋台が並び、ハンドメイドのアクセサリーや陶器が並んでいる。

子どもの笑い声。

コーヒーの香り。

遠くでアコースティックギターの音。

真希は普段より柔らかい服装だった。

淡い色のブラウスに、デニム。

工場の作業着とは違う。

「変じゃないですか?」

少し照れながら聞く。

陽介は一瞬、言葉を探す。

「……似合ってます」

真希の頬が少し赤くなる。

「ありがとうございます」

二人で屋台を見て回る。

手作りの木製スプーンを手に取る。

「かわいいですよね」

「いいですね」

会話は途切れ途切れだが、居心地は悪くない。

クレープの屋台で並ぶ。

順番を待つ間、肩が少し触れる。

陽介は反射的に半歩引きそうになって、踏みとどまる。

今日は、仕事ではない。

評価もない。

ただの休日だ。

ベンチに座ってクレープを食べる。

「甘いもの好きなんですか」

「たまに」

真希が笑う。

「意外」

何が意外なのか分からないが、その笑顔が柔らかい。


夕方、川沿いを歩く。

水面が光っている。

風が心地いい。

「今日はありがとうございました」

駅前に戻り、真希が言う。

「こちらこそ」

俺も少しだけ笑う。

胸の奥が、静かに満たされている。

数値はない。

評価もない。

それでも確かに、何かが動き始めている。

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