第10話 数値のない日
三ヶ月は、思ったより早く過ぎた。
正式雇用の審査日。
社長は書類を机に置き、言った。
「続けられるか?」
「はい」
即答だった。
「なら、うちに残れ」
それだけだった。
条件の説明も、形式的な確認もあったが、本質はその一言だった。
残れ。
必要とされた。
過去ではなく、今の働きで。
その夜、エデンから通知が届く。
《フォローアップ最終評価:安定》
・再依存リスク:低
・社会適応指数:基準以上
・追加介入:不要
「おめでとうございます。これをもって定期フォローを終了します」
短い文章。
淡々とした祝辞。
スマートフォンの画面を見つめる。
終わった。
エデンは、もうこちらを見ない。
監視も、アンケートも、心拍グラフも。
数値は消える。
翌日。
工場の空気はいつも通りだ。
機械音。
油の匂い。
測定器のクリック音。
だが、どこか違う。
今日はもう、誰も自分を評価していない。
社長も、同僚も、ただ仕事をしているだけだ。
そこに更生者という枠はない。
それは喜ぶべきことのはずだった。
昼休憩。
作業台の横で弁当を広げる。
向かいに座ったのは、以前から働いている女性。
三十代前半だろうか。
名前は真希。
寡黙だが、仕事は早い。
「正式になったんですよね」
突然、そう言った。
「聞こえてました?」
「社長、声大きいから」
少しだけ笑う。
初めて見る、柔らかい表情だった。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
ぎこちない会話。
沈黙が落ちる。
真希がペットボトルの水を飲み、続ける。
「エデンって、厳しいんですか」
質問は、好奇心というより確認に近い。
「厳しいというより……管理されます」
「管理」
その言葉を繰り返す。
「全部、数値で見られるんです。心拍とか、ストレスとか」
「へえ」
感心とも、同情ともつかない声。
「今は?」
「もう、何も」
スマートフォンを軽く振る。
「自由ですね」
真希が言う。
その一言に、少しだけ詰まる。
自由。
そうだ。
望んだはずだ。
「そうですね」
だが声は、わずかに曖昧だった。
午後の作業。
測定値が規格内に収まる。
合格。
だが今日は、どこにもデータは送られない。
誰もグラフにしない。
良好も、不良も、自分の中だけで完結する。
それが少し、心もとない。
帰り際、真希が声をかける。
「無理しないでくださいね」
「え?」
「なんとなくですけど、真面目すぎる感じがするので」
悪意はない。
ただの感想。
「適当にサボるくらいでちょうどいいですよ」
軽く笑う。
「ここ、そんなに厳しくないですから」
その言葉は、エデンとは真逆だった。
厳密な管理も、評価もない。
サボる自由すらある。
「……覚えておきます。」
初めて、少し自然に笑えた。
夜。
部屋は静かだ。
スマートフォンに通知は来ない。
アンケートもない。
問題なし、と表示されることもない。
天井を見上げる。
カメラはない。
赤いランプもない。
完全に、誰も見ていない。
胸の奥に、わずかな空洞がある。
それは不安か。
それとも、依存の残り香か。
分からない。
だが今日一日、吸いたいとは思わなかった。
それを確認するのは、自分だけだ。
数値はない。
証明もない。
それでも……。
今日を終えた。
窓の外、工場の方向に目を向ける。
そこには機械と人がいる。
監視ではなく、会話。
評価ではなく、作業。
真希の言葉が浮かぶ。
「適当にサボるくらいで」
少しだけ、肩の力を抜く。
自由とは、見られないことではなく、見られなくても続けられることなのかもしれない。
スマートフォンを机に置く。
通知は来ない。
それでも、手は震えていない。




