第1話 壊れる前の匂い
喫煙が法律で禁止されてから、十年が経った。
世界を変えたのは、『ヘヴン』だった。
依存性が異常に高く、違法成分を含む密輸タバコ。
知らずに吸った若者が倒れ、受動喫煙で子どもが亡くなり、死者は年々増えた。
やがて遺族たちの声が世論を動かした。
――タバコは害だ。
――禁止すべきだ。
販売も使用も全面禁止。
製造と販売は五年以上の懲役。
使用は一年以上。
ヘヴンはさらに重く、悪質と判断されれば無期懲役、場合によっては死刑。
法律は、煙ごと世界を消した。
表向きは。
闇にはまだ、煙がある。
俺、中村陽介は、電子機器メーカーの営業だ。
主に空気清浄機を扱っている。
皮肉な話だと思うことがある。
煙を消す機械を売る俺が、煙を求めているのだから。
最近、里奈という彼女ができた。
今の生活が嫌なわけじゃない。
仕事も順調だし、数字も悪くない。
同僚との関係も良好だ。
それでもどこか、胸の奥が空いている。
満たされない何かが、静かに居座っている。
五年前。
取引先の担当者だった三浦恒一に誘われた。
少し年上で、落ち着いた男だった。
「一度くらい、経験してみるか?」
連れていかれたのは、閉店後の個人経営のバー。
店主が裏で仕入れた旧来のタバコ。
問題の発端になったヘヴンではない。
一本、数千円。
吸ったら店が回収する。
持ち出しは禁止。
最初の日は奢りだった。
正直、うまいとは思わなかった。
むしろ苦かった。
だが何度か付き合ううちに、あの瞬間だけ、胸の空洞が埋まる感覚を覚えた。
担当はやがて別の人間に変わったが、恒一とは今でもバーで会っている。
そこには、信頼できる常連だけがいる。
そしてカウンターの隅では、俺の会社の最新型空気清浄機が静かに稼働している。
「これ入れてから楽になったよ」
店主は笑う。
「昔は痕跡消すのが大変だった」
煙を吸い、煙を消す機械に守られる。
矛盾の上に成り立つ安心。
里奈の父親は、ヘヴンの受動喫煙で亡くなった。
まだ彼女が子どもの頃だ。
「ヘヴンだけじゃないの」
彼女は言う。
「吸う人がいるから、全部なくならない」
製品も、密売も、使用者も。
彼女はタバコという存在そのものを嫌悪している。
俺はその事実を、胸の奥に沈めたまま付き合っている。
休日、里奈と街を歩いていた。
巨大スクリーンに速報が流れる。
《違法集団喫煙 一斉摘発》
大勢の男女が連行される映像。
ざわめく群衆。
里奈が小さく息を吐く。
「ほらね。吸う人がいるから、この世からなくならないんだよ」
俺は一瞬だけ言葉を失う。
「……そうだな」
同意しながら、胸がひりつく。
もし俺があの中にいたら。
彼女はどんな顔をするだろう。
考えないようにした。
その夜のバーは、異様な熱を帯びていた。
「馬鹿だな、あんな大人数でやるからだ」
「ここは大丈夫だよ。信頼できる人しか来ない」
「俺たちは誰にも迷惑かけてない」
「節度守ってるのに犯罪者扱いだ」
「昔は良かったよな……」
怒り、困惑、懐古。
様々な声が交錯する。
俺と恒一は並んで座り、火をつけた。
煙が細く立ち上る。
「陽介、怖いか?」
恒一が言う。
「少しな」
「ここは安全だ」
自分に言い聞かせるような声だった。
俺もそう信じたかった。
空気清浄機の静かな駆動音が、やけに大きく聞こえる。
その時だった。
バーのドアが激しく開いた。
「全員動くな!」
一瞬で凍りつく空気。
黒い装備。
無機質な目。
誰かが椅子を倒した。
腕を掴まれる。
里奈の顔が浮かぶ。
法律の条文が脳裏をよぎる。
使用は一年以上の懲役。
現実が、音を立てて崩れた。
煙はもう、どこにもなかった。
こうして、俺の日常は壊れた。




