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第四話

 

 道路の中心を馬車が行き交い、台車や手押し車を引く人たちの姿も多い午後。

 私は貴族御用達のレストランの2階にいた。

 テラス席なため、下を眺めたら人の往来やドレスや宝飾を扱う店が視界に入る。

 天気も良く、目の前の人物の機嫌も非常に良い。

 ――私の気分だけが、置いていかれている。


「アンジュ、先ほどから食が進んでいないようだが、この店の味には飽きてしまったかな?」

「とんでもありませんわ、お兄様! 美味しいので少しずつ味わっていただいているのです」

「そう、なら良かった。ここは、君が気に入っていた店だと記憶しているからね。シェフも胸をなで下ろすだろう」


 口の端を上げる兄に一度だけ目を向けて、それから私はムニエルにナイフを入れる。

 言ってダメなら行動あるのみ!

 私の今日の目標は、可能な限り兄を視界に入れないことである。


「ドレスの出来が楽しみだね。デザイン画も確認してはいるが、やはり実物とは異なるからね」

「お兄様。確か、ドレスは届けさせるのではありませんでしたか?」

「気が変わったんだ。店で試着をすれば、すぐに修正もできるだろう? 夜会までさほど日がないからね」


 今日も今日とて、完璧なテーブルマナーを披露している兄は、店の中でも浮いていた。

 テラス席であるにもかかわらず、奥からちらちらと、令嬢たちの視線が兄に向けられている。

 いつものことなのだが、いつものように振る舞えない私がいた。


「お兄様。この店の中にお知り合いがいらっしゃるのでは? ご挨拶でもしていらしてはいかがですか?」

「お前を一人置いて行くほどの人間はいないよ。黙礼くらいはしている。十分だろう」


 この侯爵家の御曹司め。

 家格が高いばかりに、これでも失礼に当たらないなんて。


「ご学友などは……」

「ここにはいないようだね」


 一人になったところで孤児院に駆け込む作戦が、ことごとく不発に終わる。

 馬車の中では一人になりようがないし、道に迷ったフリをしようにも手を取られるので逃げられないのだ。


「そういうお前はどうなんだい? 挨拶したい人がいるのなら、私も付き添ってあげるよ」


 兄の言葉が、ちくりと胸を刺す。

 私には、友人と呼べるような人はいない。

 恐らく皆、私が孤児だったと知っていたのだろう。


「私もここにはおりませんので、お気遣いは無用です」

「そうか。それなら良かった。可愛いアンジュを独り占めできるね」


 視線は目の前の皿に向けているのに、あたたかな声から兄が微笑んでいるのが想像できる。

 私に向ける必要なんて、ないのに。


「ほら、アンジュの好きなケーキが来たよ」


 兄の言葉に顔を上げると、お店の人が赤いベリーのケーキをテーブルに運んでくれた。

 この店でしか食べられない、私の大好物である。

 ずっと一緒に育ったため、兄は私の食の好みも押さえている。

 このレストランだって、私のお気に入りだから予約したのだろう。


「ほら、アンジュ。口を開けて」

「は?」


 可能な限り兄を視界に入れないようにしていた私は、ケーキから反射的に目線を兄に向けてしまった。


「あの、何をしていらっしゃるのでしょう?」

「アンジュに食べさせてあげたくてね。好きだろう? これ。だから、愛らしい唇を開けてくれないかな?」


 兄はフォークにケーキを刺して私の目の前に持ってきていた。

 いわゆる『あーん』状態である。


「お兄様。少々はしたないのでは?」

「ここはそんなにかしこまるような店ではないだろう? ほら、このままではケーキが落ちてしまうよ」

「………」


 兄とは距離を置きたい。

 周囲の視線もチクチク刺さる。

 だが、食べ物に罪はない。

 ましてや、食べたくても食べられない人がいると知っている中、むざむざとテーブルに落としてしまう方が後悔する。

 私は、テーブルの下で拳を固く握りしめながら、意を決して口を開けた。

 一口大に切られたケーキの甘酸っぱさが、口の中に広がる。


「おいしいかい?」

「おいしいです」


 私のそんな一言で、目尻を下げる兄はどうかしている。

 いそいそと、二切目のケーキをフォークに刺して、また私の前に持ってくる。

 白くて細い指先が、鮮やかな赤色と共に私の視界に入った。

 このやり取りは、まだ続くらしい。


「はい、あーん」

「……これで終わりですからね」


 私は、そう釘を刺して口を開く。

 周囲の視線が痛いのだ。

 肩を落とす兄の姿には、気づかないフリをした。



 *  *  *



 ランチを終え、兄と二人でドレスショップに向かう。

 レストランから近いこともあり、徒歩で行くことにしたのだが、


「腕をどうぞ、お姫様」


 と、兄が当たり前のように腕を出す。

 いや、当たり前だったのだ。

 ほんの一か月前までは。


「お兄様、ここは夜会ではありません。並んで歩いて行きましょう」

「どうして? 場所なんて関係ないだろう。君が、私と腕を組むとドキドキして歩けなくなるというのなら仕方ないけれど」

「周囲の女性の視線が鋭利でドキドキします」

「そんなことないと思うけど? 皆、淑女だよ」


 ここは貴族が通う店の多い大通り。

 女性たちが淑女なのはわかっている。

 だが、そうではない。

 そうではないのだ!


「本当にアンジュは可愛らしいね。自分の気持ちにも気づかないなんて」

「お兄様こそ、現実を直視すべきだと思います」


 結局私たちは腕を組むことなく、店に向かった。

 ただし、手は兄に握られている。

 私の逃亡を危ぶんでのことだろうか。

 兄の纏うアンバーの香りと手のぬくもりに安堵してしまい、内心で頭を振る。


「今回は、デザイン画を起こすところから関わっていてね。私の自信作だ。きっとアンジュも気に入るよ」


 歩調も私に合わせてくれる兄は、大通りでも人目を惹いていた。

 私はすっかり見慣れてしまったが、兄は黙っていれば顔が良い。

 おまけに侯爵家嫡男としてマナーもたたき込まれている。

 女性の手を握る。

 視線を合わせて微笑みかける。

 その仕草一つ一つが、人の目に留まるのだろう。


「私は、自分の身の丈にあったものであれば十分です」


 これから孤児院で働く娘に、豪奢なドレスなど無用の長物。

 兄がデザイン画から関わっているのなら、願うだけ無駄なのだろうけど。


「アンジュ。身の丈というのはね、周囲が決めることだ。自分を正しく認識できない君が、線引きするものではない」

「私は自分の価値くらい、十分に承知しております」


 兄の言葉にムッとして、つい言い返してしまった。

 それでも、彼は困ったように目を細め私の頭を撫でる。


「物差しは一つとは限らない。色んな種類があるものだ。物差しの種類を知らない者が、正しい価値観を把握することは難しい」


 諭すような言葉を聞いている内に、特徴的な出窓に白いドレスが見えるよう配置された店の前につく。

 私は、逃げる機会も言い返す機会も失ってしまった。



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