第一話
「ねぇ、お兄様。これはさすがにないのでは?」
「何のことかな? アンジュ」
「なぜ、次期侯爵が私のベッドで先にお休みなのですか?」
「もちろん、愛しいアンジュの寝顔を見守るためだよ」
「だーかーらーっ! それがおかしいって言ってんの!!」
「……ちゃんと淑女教育も終わらせたというのに、どうしてこんなに口の悪い子になってしまったのかな」
天蓋付きのベッドの上で片肘ついて寝そべり、軽くため息を吐く男を私はじっと見つめた。
背中まである夜闇色の髪、紫紺の瞳。――黙っていれば、誰もが見惚れる『次期侯爵』だ。
そして、一応彼は兄だが血縁はない。
書類の上だけの兄妹である。
「お兄様はご自分の寝室にお戻りください。そのまま永遠にお休みくださって結構です」
「面白い冗談だね。お前は、このヴァレンティン侯爵家の跡取りがいなくなっても良いと言うのかい?」
「次期侯爵の自覚があるなら、早々に部屋にお引き取りくださいませ」
私は口角を上げ、淑女の笑みを貼り付けた。
今は夜のお手入れ中で、私は椅子に座らされている。
侍女たちはいつものことだと気にせずに、淡々と寝る支度を進めていく。
丁寧に梳かれる銀色の髪に、心のうちで憂鬱になりながら、私はもう一人の侍女が淹れてくれたお茶に口をつけた。
「何をそんなに警戒しているんだい? 私はただ、お前の可愛い寝顔を眺めてから部屋に戻ろうとしているだけなのに」
「ねぇ、なんで寝顔を見るのが当然みたいに言うの? そんな兄、普通いないから」
私のベッドから半身を起こし、兄――ユリウス・ヴァレンティンが首をかしげる。
令嬢が頬を赤らめる理由も、わからなくはない。
彼は、目尻のほくろひとつで視線をさらってしまう男なのだ。
だが、ここで誤解してはいけない。
この男は、それを“武器”として使う。
今みたいに、優しく目を細めて。
「お前を一人にしたら、また孤児院に行こうとするじゃないか」
「それは……さすがに夜に行っては向こうに迷惑がかかるので行きませんよ」
「ヴァレンティン侯爵令嬢がそこで働こうとするだけで、十分相手に迷惑をかけていると思うけれどね」
兄が立ち上がり、私の目の前にやって来る。
淡いアンバーの香りが鼻腔をくすぐる。
細い指先が私の顎を上げ、思わず息が止まった。
「いいかい、アンジュ。確かにお前は赤ん坊の頃にうちの前に捨てられていた孤児だ。だからと言って、ヴァレンティン侯爵家の娘として育ったお前が、孤児院で働くことなどできるはずがないだろう」
「ですが、私は孤児でヴァレンティンの血は私の体には流れておりません。政略結婚の駒としては扱いづらいでしょうし、最善策だと思っております」
私はあくまで侯爵家に拾われた養女だ。
だから婚約の話が来ないのも、無理はないと思っている。
なら、家に残るより外に出て役に立つべきだ。
与えられた幸福を少しでも返したくて、孤児院で働くことを真剣に考え始めた。
このままでは、兄やヴァレンティン侯爵家の疵になってしまう。
「我が儘は、私にだけ言いなさい。他人に迷惑をかけてはいけないよ」
トクン、と胸が鳴る。
至近距離で囁かないでほしい。
私の目をその紫紺の瞳で覗き込まないでほしい。
耐性があっても、ときめかないわけじゃないのよ。
「お兄様は、いずれこの家を継ぐお方。万が一私と噂になって困るのはお兄様の方です。ふざけるのはおやめくださいませ」
「本当にお前は頑固だねぇ」
額に、優しくあたたかな感触があった。
顔が近づいたと気づいた瞬間、兄が口づけたのだ。
そして、アンバーの香りが離れていく。
「今日はこれ以上お姫様の機嫌が悪くなる前に部屋に戻るよ」
「最初からそうしてくださったら良いのに。おやすみなさいませ」
「おやすみ。……寂しくなったら、いつ私の部屋に来ても構わないんだよ?」
「そんな日来ないわよっ!!」
扉の前で振り返り、口の端を上げた男に手近にあったクッションを投げつける。
だが、クッションは閉じられた扉に当たり落ちてしまった。
「……ったく。妹で遊ばないでよ」
私は既に、十分甘やかされている。
その優しさが本物だと知っているから、余計に厄介なのだ。
現在に慣れてはいけない。
次期ヴァレンティン侯爵には、良縁を結んでもらわねば。
兄が私から離れないのなら、私のほうが離れなければならない。
少しでも早く、甘く蕩けるような夢から――目を覚まさなければならない。
※本日、第1~3話を同時公開しています。
全9話、3日間の短期完結です。




