深夜のキッチンは甘い匂い②
キッチンの一角は主にフィオのせいで、カオスと化していた。
それなのに文句も言わず、鼻歌でも歌い出しそうな様子で片付けを始めていくリリアーナ。
その様子をじっと見つめていたフィオが、やがて諦めとも降参ともとれるニュアンスでため息を吐きながら、近くにあったボウルを手に流し台に向かった。
「……なんで、こんなことするんですか」
ボウルを流しに置きながら、フィオがそう問いかける。
「え? こんなことって?」
「これ、全部レオニス様に渡すために作っていたんです。あなたが私を手伝っちゃったら、敵に塩を送るようなものですよ」
「ああ、そういうことね」
慣れた手つきで洗い物を進めていたリリアーナが、フィオの言葉に苦笑気味に肩をすくめた。
「うーん、もちろんそうかもしれないけど……。でも、泣いている年下の子を放っておくわけにもいかないでしょう?」
「……泣いてないです」
「ふふ、そっか」
ざぶざぶとリリアーナが器具を洗って、それを手渡されたフィオがたどたどしい手つきで拭いていく。
真夜中のキッチンには、徐々にケーキの焼ける甘い香りが漂ってきた。
「……私ね」
手を動かしながら、リリアーナがそう呟いた。
「私ね、レオニス様と結婚したいのも本当よ。でも、みんなと仲良くしたいのも本当。フィオのことも、もっと知りたいと思ってる」
リリアーナがそう話しながら、洗い終えた泡だて器をフィオに渡した。
フィオが小さな指で、泡だて器の複雑に絡むワイヤーを黙々と拭いていく。
リリアーナの言葉はまっすぐで、裏がない。きっと今の言葉も、噓偽りない本心なんだろう。
それを正しく感じ取ったフィオは、手の中の泡だて器を拭きながら、ぽつりと口を開いた
「……私の国、ここの周辺国の中で、一番小さいんです」
「え?」
「豊かな国ですよ。でも、どうしても土地は小さい。女家系で母が王女として国を治めていて、きょうだいもいないから、次の王女は私で」
話しながら、フィオが拭き終わった泡だて器を台の上に並べる。
新しくリリアーナから手渡された計量カップを受け取りながら、フィオがその水滴のついたガラスに目を落とした。
「小さい国は、いつもどこか怯えてます。今はどの国とも良好な関係を築けていますけど、もし戦争なんかが起こったら、うちは真っ先に……」
「そんなこと……! 少なくとも、今集まってる私たちの国の間では絶対に……」
「分かってますよ。もしもの話です。……でも、だからこそ、レオニス様と結婚したいんです。このアウーム国との繋がりを手にして、我が国の力になれたらって」
「……」
リリアーナは、いつの間にかすっかり動きを止めていた自分の手元を見つめた。
……今回集まった姫たちは、何もただ王子との恋愛をするために来たわけではないことは分かっていた。
自分自身も、同じような理由だ。
単にレオニスと結婚したいというわけではなく、その後ろに控えるこの大国アウームとの繋がりが欲しい。この時代、政略結婚なんてさして珍しくもない。
だけど、それが寂しくないわけではない。
そしてその理由が切実であればあるほど、当人たちが抱える苦悩だって多くなる。
「……でも」
フィオの小さな声で付け足された言葉に、リリアーナはパッと顔を上げて隣を見た。
「でも、私も、仲良くしたくないわけじゃないの」
自分より五センチほど低い位置にある頭。その紺色の髪の隙間から、赤い頬が見え隠れしている。
フィオは何度か口をもにもにさせてから、やっと意を決したように、極々小さな声でこう告げた。
「……手伝ってくれて、ありがとう……」
「……っ!」
リリアーナは、まさかあのフィオが──よりにもよって一番敵視していた自分に向かって──そんなことを言ってくれると思わず、感動で目を輝かせた。
「……~ッ、フィオ!」
「きゃ⁉」
込み上げる感動と喜び、その愛らしさへのときめきに耐えられなくなり、リリアーナが泡まみれの手のままフィオに抱き着いた。
驚いたフィオが、顔を真っ赤にしながらさっそく非難の声を上げる。
「ちょ、ちょっと! やめてください! 濡れちゃうでしょ!」
「フィオ、困ったことがあったら頼ってね! 私にできることがあったら何でもするわ!」
「い、一応ライバルであることには変わりないんですからね……むぎゅ、ちょ、苦しい……っ!」
ぎゅうぎゅうとフィオを抱きしめながら、リリアーナが嬉しそうにその紺色の髪に頬をすり寄せる。
やがて諦めたように、フィオもリリアーナの腕の中で年相応の笑顔を浮かべてみせた。
きゃっきゃと高い笑い声が、真夜中のキッチンに満ちていく。
甘く幸せな香りが、ふたりをあたたかく包んでいた。