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Protocol:MIO  作者: 春凪一
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第3章 同じ空気の中で違う呼吸 2

【春凪中枢:観察ログ/非公開】

対象群:仮滞在施設(夏期)参加者10名

ログモード:通常観察/定常化状態


記録開始:Day01


ID_002:「箸置き音・指先震え」 : 閾値越え(反復評価中)


ID_006:「食事中の無言持続:意識過剰パターン」 : 調整待ち


ID_009(Node_09):「調整処理なし」「予測線形に一致」「同期信号正常」


全体傾向:9名は「選ばれたい振る舞い」を意識 : 行動パターンに揺れ・制御痕あり)


Node_09は変調なし。無意識での最適化とみられる。




 その夜。隣室から、ドアが強く閉まる音が聞こえた。澪は顔を上げる。


 翌朝、廊下を歩くと、他の候補者がヒソヒソと話しているのが耳に入った。


「昨日の夜、アレすごかったよね。ドア、バンッて……」


「しかも朝食のとき、皿、ガチャンって置いてた」


「うわ……それ、減点されるやつ」


 彼らは「採点されている」ことを意識しすぎていた。だが澪は、気にしていなかった。評価されるために静かにしているのではない。ただ、そうあるのが自然だから。


 そしてその「自然」だけが、──澪を含め、候補者の全員が知らないことではあるが──この国にとっての本当の選考基準だった。




 休日の午後、澪はひとりで外へ出た。


 施設の外周を歩いていると、小さな公園のような広場があり、ベンチに座って静かに本を読んでいる老婦人の姿が目に入った。手元には布製の袋と、温かそうな茶の入ったボトル。


 澪が通りかかると、老婦人はふと顔を上げ、にこりと笑った。


「こんにちは」


 その声は控えめで、まるで音が空気に溶け込むようだった。


 澪は、少しだけ立ち止まり、会釈した。


「……こんにちは」


「あなた、この夏に来た子かしら?」


 澪は小さくうなずいた。


「ええ、そうです」


 老婦人は膝の上に本を置き、微笑を浮かべたまま続けた。


「春凪の空気、肌に合ったかしら。ここは、少し「静かすぎる」って言われることもあるのよ。ただ、ここを選び、ここに呼ばれるのは、その静けさの中でこそ心が落ち着く人たちなの」


「……私も、落ち着きます」


「ふふ、そう。それならよかったわ」


 しばらくの沈黙。だが、その沈黙すら心地よかった。


「あなたの歩き方、音がしないのね。まるで羽のよう」


「音がしないように……してるわけじゃないんです。ただ、そうなってしまうだけで」


「なるほど。生まれつき静かなのね。それはとても珍しいわ」


 老婦人は、ゆっくり立ち上がった。


「また、どこかで会えるかしら」


「……はい」


 老婦人はそれ以上言葉を重ねず、再び静かにベンチに腰を下ろした。


 澪は、そっとその場を離れた。


 背後から聞こえるのは、ページをめくる微かな布擦れの音だけだった。




 昼下がり。自習室に、甲高い物音が響いた。


 澪と純華が静かにノートを開いていたちょうどそのとき、背後の机でひとりの男子が椅子を大きく引いて立ち上がった。


「ったく……」


 小さくはあったが、舌打ちが聞こえた。


 周囲の視線が、一斉に彼へと向かう。澪は顔を上げない。ただ、筆先を止める。


「失礼」


男子は短く謝ってその場を離れた。


 純華が小声で呟いた。


「……試されてるんだね、きっと、ずっと」


 澪はうなずく。


「うん。たぶん、誰が見てるかじゃない。「どう過ごしているか」だけが、全部見られてる」


 純華は、その言葉に小さく頷いた。彼女は端末を操作し、監視状況の情報一覧画面をぼんやりと眺めた。瞬く間に膨大な情報を処理するAIの監視網が、まるで透明な迷路のようだと感じていた。しかし同時に、その迷路には、必ずどこかに「見えない道」があることを、経験的に知っていた。それは、誰にも気づかれずに求める情報へと辿り着く、純華だけの特技だった。




 夕方、食堂での出来事。


 一人の女子候補者が、カトラリーをカチャカチャと落ち着きなくいじっていた。

落としはしないが、金属の擦れる微かな音が空間に何度も跳ねる。


 澪はその音に顔をしかめることもせず、ただ、スープをすくう手を一瞬だけ止めた。


 純華は、耳打ちするように言った。


「……たぶん、あの子、緊張してるんだと思う。ねえ、澪ちゃんはさ、緊張とかしないの?」


「……してるよ。たぶん、気づかれないだけ」


「それ、かっこいい」


「そんなこと、ない」


 二人のやりとりはそれ以上広がらず、また静かに食事へ戻った。


 だが翌日、その女子は姿を見せなかった。


 翌朝、食堂で純華は少し沈んだ様子で澪に話しかけた。

「昨日、いなくなったあの子のことなんだけど……あの音、もしかしたら、もっと大きな声で助けを求めてたのかもね。私たちには、ただの不協和音に聞こえたけど……。でも、春凪のテストに落ちただけで、元の場所に戻れたって聞いたよ。よかったよね、きっと元気にしてるはず」


澪は、純華の言葉に、いつもは動かない心の奥がわずかに揺れるのを感じた。言葉にできない自分の感情を、純華は理解しようとしてくれる。そして、春凪の選抜が、必ずしも厳しい終焉を意味しないことを知り、かすかな安堵を覚えた。




 ある日の午後、二人が自習室で静かにノートを開いている時。


 純華がふと顔を上げて、澪に問いかけた。


「ねえ、澪ちゃんって、考えてること、全部言葉にしてる?」


 澪はすぐに答えた。


「ううん。消えちゃうことの方が多い」


 純華は少し考えるようにして、澪の瞳をまっすぐに見つめた。


「そっか。でもね、澪ちゃんの「言葉にならない部分」って、なんだかすごく、響くんだよね。私、そういうの、好きだよ。だから、無理に言葉にしなくていい。だけど、もし、「これは伝えたい」って思うことがあったら、私、ちゃんと聞くからね」


 その言葉は、澪の心に静かに、そして深く染み渡った。自分の存在そのものを肯定してくれるような、温かい響きがあった。




 夜、施設の照明がゆるやかに落ち、すべての部屋が静寂に包まれたころ。


 それぞれのベッドで、澪と純華はひとり、目を閉じずに横たわっていた。




 澪は天井を見上げていた。白い天井に、夜の空気がうっすらと影を落としている。


──将来。その言葉の意味を、まだうまく形にできない。


 ただ、彼女の中には確かに「ここではない場所へ続く線」のようなものがあると感じていた。

静かで、誰もいない、けれどやさしさだけが残る空間。


 澪は、思った。


 (私は、いつかどこかで──少しだけ、違う場所にいる気がする)


 そこには友達がいるかもしれないし、いないかもしれない。でも、そこに「いてもいい」と感じられるような、そんな場所。


 理由はわからなかった。ただ、そういう未来を、静かに受け入れられる気がしていた。




 一方そのころ、純華は少し身を丸めるように布団にくるまっていた。


 (もし合格できたら……春凪の中で暮らして、本を読んだり、仕事したり、誰かの役に立ったり……)


 小さな声で、誰にも聞こえないくらいの声で呟いた。


「……澪ちゃんも、いるといいな」


 彼女が思い描く未来には、人とのつながりがあった。微かな音と会話、季節の移ろい、日々の穏やかな繰り返し。


 似ているようで、決定的に違う。澪は「誰にも見つからず、それでも自分のままでいられる未来」を思い、純華は「世界の中で誰かと共に生きる未来」を思っていた。


 そしてその違いを、まだお互いは知らない。


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