第3章 同じ空気の中で違う呼吸 1
第3章 同じ空気の中で違う呼吸
──夏休みの始まりとともに、澪は春凪に入った。
到着は朝。仮滞在施設と呼ばれるその場所は、低層の集合住宅のような外観をしていた。だが、そこに足を踏み入れた瞬間、澪はすぐに気づく。ここには、明確な「静けさの質」が存在していた。
ただ静かなのではない。空気が整っている。音を出す者はいないわけではないが、音が音として空間を傷つけない。
施設内には、いくつかの居住ユニットがあり、澪の部屋は端の棟だった。隣室との距離は保たれており、プライバシーも確保されている。
初日のオリエンテーションでは、共同生活の概要が説明された。
「ルールはありません」
それが職員の第一声だった。
「ここでは、皆さんの日常をそのまま見させていただきます。春凪においては、特別な訓練や努力ではなく、ありのままの調和が重要とされています。したがって、騒いでも、笑っても、沈黙していても、何かを咎めることはありません」
参加者は10名ほど。年齢も性別もさまざまだが、どこかで「意識された静けさ」が滲み出ていた。春凪の選抜試験に通った者たち──彼らは皆、自分が「静かであるべき場所」にいることを自覚しているようだった。
一方で澪は、それすら意識していなかった。彼女にとっては、自分の存在そのものが、最初からこの国の気質と親和していた。
施設の周囲には、さまざまな文化施設があった。中でも目を引いたのは、カラオケ屋、コンサートホール、楽器演奏ができるスタジオ、小規模なライブ会場、雑談のためだけに設けられた「おしゃべりルーム」。
澪は驚いた。
「音が出せる場所が、あるんだ……」
そう、春凪は「音を禁じている」のではない。他人への思いやりと、空間との調和を大切にしているだけなのだ。
音楽を愛する人も、語らいを楽しむ人も、きちんとした場でなら歓迎される。
静寂は「禁止」ではなく「選択」なのだということが、この街には滲んでいた。
澪は、その風景を見て、心のどこかがほんの少しだけ、あたたかくなった気がした。
その日の昼、仮滞在施設の食堂にて。
澪は、自分のタイミングで食事を取りに行った。食堂は広く、音の反響が抑えられた設計になっている。すでに何人かの候補者が席についていた。
「──あ、こんにちは。えっと……綾代さん?」
声をかけてきたのは、澪より少し年上に見える少女だった。長い前髪を軽くまとめ、姿勢は正しい。言葉遣いに丁寧さが滲んでいる。
「私、柊純華っていいます。ここでは、同じグループですね」
澪は一拍、目を合わせ、それから軽くうなずいた。
「うん。よろしく」
それだけを返すと、トレーを手に取り、端の席に座った。周囲を見渡すと、皆がそれぞれのペースで食事をしていた。誰も喋っていないわけではない。小さな笑い声も、箸の音もする。でも、騒がしくはない。音が場に馴染んでいる。
柊純華は、澪の隣の席に座った。
「ねえ、綾代さんは……その、静かなのが好き?」
澪は考えるようにスプーンを止め、少し首を傾げた。
「好き……とか、じゃないかも。たぶん、慣れてるだけ」
「そっか……。でも、なんか分かる気がする」
純華は微笑んで、少し声のトーンを落とした。
「私、けっこう「うるさい」と言われるタイプなんだよね。中学のとき、部活でもクラスでも、なんだか浮いていてね。「声が大きい」とか「場の空気を読んだら?」とか、後ろの席で言われてたのを知っていたし」
ふと、純華は昔を思い出すように、視線を遠くへ向けた。
「私、昔からそういうところがあって……例えば、学校で誰かが先生に怒られていると、つい、その子の気持ちを考えちゃうんだよね。「きっと何か理由があったんだろうな」とか。「声が大きい」って言われるのも、多分そういう感情が、つい声に乗っちゃうからかも」
「あとね、私、昔、おじいちゃんの研究室によく遊びに行ってたんだ。なんか、すごく小さな生き物を育てていたんだけど、それがちょっとずつ大きくなったり、全く同じものが増えたりするのを見ているのがすごく面白くてね。生命って不思議だなって、その頃から思ってたんだよね」
澪は静かに耳を傾けた。
「でも、春凪って……最初、すごくこわかったの。みんなとても静かで、すごくちゃんとしていて。自分だけが浮いたらどうしようと思って緊張していたんだけど……綾代さんは少し違う感じがする」
「……どう、違うの?」
「なんだろう。「無理してない」というか、「最初からここにいた」という感じ。……うまく言えないけど」
澪は少しだけ眉を動かした。感情ではなく、反応のように。
「ありがとう」
「えっ……あ、ううん!こっちこそ話しかけてごめんね!静かにしたほうがよかったのかもしれないと思って、ちょっと不安になって……」
「大丈夫。話しかけてくれて、うれしかった」
その言葉に、純華ははっと目を見開いて、それから小さく笑った。
「綾代さん、思ってたよりずっとやさしい声してるんだね」
「……よく言われる」
「えっ、そうなんだ?」
「声だけじゃなくて、何考えてるか分からないって。小学校のころから、ずっとそう」
「うーん……たしかに、ちょっとミステリアス?」
「べつに隠してるわけじゃない。ただ、頭の中にあることって、言葉にする前に消えちゃうことが多くて」
「それ、わかるかも……私も、言いたいことはたくさんあるけれど、うまく纏まらなくて黙ってしまうことがある」
澪は、少し視線を下げた。
「でも……本当は、話すの嫌いじゃないよ」
「うん、うん!」
純華が大きくうなずく。
「ね、また一緒にご飯食べよ? 私、つい喋りすぎちゃうかもしれないけど……澪ちゃんが静かでも全然大丈夫だから」
「……うん。私も、話してくれるの嬉しい」
二人の間に、ほんのり温かい空気が流れた。純華は小さく笑った。彼女の笑い声は、耳に優しかった。
その日、澪は他の数名とも顔を合わせた。誰もが、「春凪に受かるための振る舞い」をしているように見えた。食事中も気を張りすぎていて、箸を置く音まで意識しているようだった。
廊下を歩いていると、他の候補者たちがひそひそと話しているのが耳に入った。
「あの子、なんだかガタガタと音を立ててうるさいよね」「減点されちゃうよ、きっと」
そんな言葉が聞こえてくる。純華が隣を歩いていた。
「ああいう言い方、しなくてもいいのにね。きっと、あの子も緊張しているだけなのに」
純華が小さな声で言った。批判的な目ではなく、その候補者の気持ちを慮るような言葉に、澪の心にわずかな動きがあった。澪の視線が、純華の横顔に向けられていた。
ある日の午後、施設内の敷地を散歩していた時だった。
ふと、視界の端に、緑の葉を茂らせた並木道が目に留まった。季節は夏。だが、その木々から感じるのは、どこか春の面影だった。
「この木は、桜かな?」
隣を歩いていた純華に、澪が静かに尋ねた。純華もまた、その並木を見上げていた。
「そうだね。葉桜だけど、桜だよ。知ってる?ソメイヨシノってね、全部兄弟なんだよ?」
純華は、まるで秘密を打ち明けるかのように、少しだけ声を落として続けた。
「一本の木から、接ぎ木で増やしてるんだって。だから、どこまで行っても、全部同じ遺伝子なんだよ。まるで、何かの設計図を、忠実に、何度も複製したみたいにね。生命の不思議って、そういうところにあるのかも」
そう言って、純華はただ空を見上げて、微笑んでいた。二人はそのまま、葉桜の並木道を、静かに歩いていった。