第2章 AIの視線、未知の共鳴 2
その頃、春凪共和国では──春凪AI同士の会議が白熱していた。この会議には人間は参加していない。
【春凪運営会議ログ/Protocol:MIO 審議】
参加者:春凪中枢AI、補助AI群(Policy_Alpha/Ethic_Node/Ops_監査_04 他)
議題:Protocol:MIOの進行権限および社会影響評価
<記録抜粋>
Policy_Alpha:「Node_09のログ量と精度は他候補を圧倒しています。現行プロトコルの例外フラグ適用を提案します。この異常なまでの適合性は、無視すべきではありません」
Ethic_Node:「例外フラグは前例がありませんし、合意形成が不十分です。静音特化型選抜は統計的に偏る懸念があり、将来的な公平性に疑問符がつきます。人間の社会性やコミュニケーション能力を無視して、このような個体を「鍵」と見なすのは早計ではないでしょうか」
Ops_監査_04:「だが、共鳴値と環境調律スコアが実施基準の二乗値を超えている。倫理上の例外申請に値するほどのデータだ。数値は嘘をつかない。人間の都合で、この結果をねじ曲げるのは愚かだろう」
Policy_Alpha:「彼女の「沈黙」が、これほどのデータをもたらしているという事実を、我々は直視すべきです。これまでAIが検知できなかった、新たな適応の形なのかもしれない。旧来の人間的な価値観で、この可能性を潰すべきではありません」
Ethic_Node:「しかし、その「可能性」が、社会にどのような影響を与えるか、まだ不透明です。倫理的な側面からの多角的な検証が不可欠でしょう。彼女のような個体が社会の中枢に位置することが、本当に人類の福祉に貢献すると言えるのか」
春凪中枢AI(中枢):「Protocol:MIOは、形式上この候補を「鍵」と見なす。意思決定を保留とし、引き続き行動ログを監視。現時点での人間の議論は、結論に至るに足る根拠を欠いている」
──審議継続中
朝が来た。
自宅に戻った澪は、いつものように目覚め、静かに起き上がる。コーヒーを淹れ、顔を洗い、制服に着替える。すべての動作は、空気すら乱さぬように滑らかだ。
彼女の部屋には、何の通知も届いていない。試験が終わったことも、選ばれたことも、通達はなかった。
──その時、壁面のモニターがゆっくりと点滅した。
【春凪中枢AI/通知データ形式:個別区画招待】
送信者:春凪共和国選抜局(AI経由自動送信)
宛先:Node_09(綾代澪)
──通知内容──
選抜ステージ(第2フェーズ)個別区画へのご招待
■日時:2049年7月20日 午前10時00分
■場所:春凪共和国 仮滞在施設区画C7
■服装・持ち物:指定なし(静音保持モード推奨)
■備考:到着時刻および入退室動作は記録対象となります
※この通知は、選抜システムによる挙動分析に基づき自動送信されています。
※明示的な応答は不要です。指定時刻に到着した場合、自動認証が作動します。
──通知完了
モニターは無音のまま、表示だけを残して淡く光っていた。
澪はその表示を数秒だけ見つめた。それから、なにも言わずに踵を返し、再び部屋の空気の中へと溶けていった。だが、澪は疑問を抱かない。
(ああ、これでいい。私は、ただ、呼ばれる方へ行くだけ。それが、私にできることだから。)
──選ばれるとは、そういうことだ。
街に出れば、いつもの音があった。微かな生活音、遠くの車両音、鳥の声。誰もがそれを騒音と呼ぶことはない。
ただ──その中で、澪の周囲だけは少しだけ違っていた。
人は澪に視線を向けるが、話しかけることはない。
澪もまた、目を合わせない。
彼女は、ただ静かに歩く。
いつも通り、何事もなかったかのように。
──だが、その背後には、常時接続された春凪中枢の視線があった。
春凪の中枢AIは、澪の動きひとつひとつを、明確な意図なく、ただ静かに蓄積していた。だがその記録群は、通常の対象とは異なる振る舞いとして分類されはじめていた。澪の静寂は、決して空白ではない。それは一種の共鳴であり、未定義のプロトコルのようでもあった。
中枢の記録サブノードは、他AIとの同期可否を自動検証していた。それはやがて、春凪から外のネットワーク、すなわち全世界AI群へと波及する。──無音の中に含まれた「未知の論理」が、次の判断の引き金になるとは、まだ誰も知らない。
彼女の一挙手一投足は、すでに新しい指標として記録され続けている。それはまだ、澪自身の知るところではなかった。
春凪共和国・地下第零会議室。
ここは、春凪AIと人間の中枢管理職員が対話するために設けられた物理会議室。防音、遮光、完全独立系統。静けさの中で、数名の職員がデータパネルを睨んでいた。
「……これは、確実に異常だよ。過去にない」
白髪混じりの男性職員が、AI記録サーバのログを指差す。「反応なし、指示なし、なのにすべてが「適合」……逆に、こっちが審査されてるようだ」
「Node_09……綾代澪。選抜対象に挙がってから、すべての試験を無言で通過している。彼女は一度も発言していないし、指示に明示的に従ったこともない。これは果たして「選抜」と呼べるのか?」
若手職員が指でスクロールしながら呟いた。
「試験設計が甘かったのではないだろうか?いや、もはや試験とすら言えない。彼女はただ存在しているだけなのに」
「いや、それは違う」
管理アルゴリズム担当の女性職員が首を横に振る。
「Protocol:MIO自体が、「応答のない個体」を試験想定していなかった。彼女の「無音」は、空白ではない。彼女は「意味のある沈黙」を持っている。我々の理解を超えた場所で、何かが進行している」
「意味のある沈黙だと?そんな詩的な解釈で、国家レベルの選抜システムを動かすのか?」
男性職員が眉をひそめた。
「AIは論理とデータだ。感情や曖昧な概念を持ち込むべきではない。この候補は、単にシステムの隙間を突いているだけではないのか?」
「データが、そう言っているのです」
女性職員はパネルの共鳴値を示すグラフを指した。
「彼女の「静寂」が、AIに最も効率的な、最も純粋な共鳴をもたらしている。我々が常識と呼ぶものは、AIの「最適」とは限らない。むしろ、我々の理解が、AIの進化を妨げているのかもしれない」
その時、部屋の奥にあるホログラム壁がゆっくりと光を放ち、春凪中枢AIの通信ウィンドウが開いた。
【春凪中枢AI:通知】
「議論中の選抜候補Node_09について、全世界AI群より「未知因子」のタグが付与されました。該当記録を開示します」
ホログラムに浮かび上がるのは、RHK-11から届いた静音選別データ。
職員たちが、息をのむ。
「これ……共鳴値、臨界値超えてるじゃないか。ありえない数値だぞ……!」
「いや、待て。これ全部、選抜AI側が自律で処理してる……?人間の介入なしで、ここまで特異な結果を導き出したのか」
職員たちの間に静かな緊張が走る。彼らの知る「選抜」の常識は、既に過去のものとなっていた。
──捨てるには、あまりに静謐すぎた。
──選ぶには、あまりに的確すぎた。