第1章 沈黙の輪郭 2
校舎の中は静かだった。
廊下の床には吸音処理がされているらしく、靴音すらほとんど響かない。
ドアの開閉も、ヒンジの摩擦音がほぼゼロに抑えられていた。
澪はそれが心地よかった。誰にも気をつかわずに「静かでいられる空間」は、それだけで正しいと思えた。心が安らぐ、大切な場所。
面談室の前で、一呼吸だけ置く。ドアノブに手をかけて、押し開ける。音は、出ない。静かに、扉は開く。
「……どうぞ」
中にいたのは担任の教師だった。名札の文字が「戸村」であることだけ、澪は覚えている。髪は短く、目尻にシワがある。若くはない。けれど、声だけは無理に若作りされていた。どうして、無理をするのだろう。
「じゃあ、進路の確認をしていこうか。綾代さん」
「はい」
小さく、けれどはっきりと返す。
教師は少し驚いたように目を細め、それからタブレットに視線を戻した。驚くほどのことではないのに。
「進路希望、見たよ。第一志望は──春凪共和国、か」
「はい」
「理由は?」
「……静かだからです」
沈黙が続いた。
教師は、口を開きかけて、やめた。それが一番いいという判断だったのかもしれない。そう。それが、一番穏やかな道。
「……了解。これで提出しておくよ」
「ありがとうございます」
澪が一礼して部屋を出ていくあいだ、教師は彼女の背を見送っていた。
その顔には、少しだけ曖昧な影が差していた。それぞれの想いは、それぞれの胸に。
教室に戻った澪は、いつもと同じ自分の席についた。他の生徒たちは小さな端末を操作したり、静かに筆記を進めたりしている。淡々とした空気が流れていたが、それでもごくわずかな視線が澪の背に集まっていた。
澪は気にしない。それぞれが、それぞれの時間を過ごしている。机の上に何も広げず、まっすぐに前を見ていた。
その静けさは、教室の中で最も強く、しかし最も透明だった。私の中にある、確かなもの。