第1章 沈黙の輪郭 1
第1章 沈黙の輪郭
朝は、まだ何ものも呼吸しない、透明な沈黙に抱かれて、その気配を現す。
カーテンが風に揺れる。陽光が、まぶたの上に柔らかくのしかかる。
澪は目を開けない。いや、開こうとしていないだけ。まだ「開く時間」ではないと、身体がそう感じている。この穏やかな静けさが、ずっと続けばいいのに。
布団の外の空気は少しだけひんやりしていて、頬に触れる枕の質感が、いつも通りの一日を予感させる。
呼吸の音が聞こえる。自分の、ゆっくりとした。隣に誰かがいるような音はしない。いるのはAIだけだ。それで充分。静かに、すべてが整っている。
綾代澪。彼女の住まいは、コンパクトに最適化された一人用の部屋だ。誰が手配したのかは知らない。気づいたときには、ここで暮らしていた。そういう制度があるらしいことは、学校でそれとなく聞いたことがある。深くは考えない。ただ、与えられた場所で、静かに息づいている。
壁面に溶け込むように設置されたモニターが、無音で起動する。
日常サポートAI──名前はない。彼女が名付けようとしなかったからかもしれない。名前がなくても、役割を果たしている。それでいい。
「綾代澪様、本日は『進路確認面談 第一回』が予定されています」
澪はうなずいた。ゆっくりと。分かっているわ。
起き上がり、コーヒーを淹れる。
音は立てない。別に、気をつけているわけじゃない。気をつけようとしなくても、音は立たないのだ。音は、ひそやかに。
生活の中で何かに「気を配る」ことを意識したことはない。
動作はいつも静かで、まっすぐで、ブレがない。
それは誰かに褒められたことも、注意されたこともなかった。ただ、そうであるのが普通だった。自然な流れに、ただ身を委ねる。
学校の先生にはよく、「遠慮しないで話していいんだよ」と言われた。でも、遠慮しているわけじゃなかった。話す必要がなかったから話さなかっただけ。言葉は、時に誤解を生むから。
言葉を発したとき、それが意図しない方向に転がるのが怖かった──というより、めんどうだった。波風を立てずに、静かにいたい。
彼女にとって、沈黙は努力ではなく、風景の一部だ。まるで、空気のように自然なこと。
通学路は混雑していた。
けれど、澪には「騒がしい」とは感じられなかった。彼女が人混みで過剰に反応しないのは、たぶん、自分の中の「許容音域」がずれているからだ。それぞれの音が、ただそこにあるだけ。
スマホを見ながら歩いている人も、ときどきはいた。
澪は、そういう人を見ると、無意識に少しだけ距離を取る。それがいつからの癖かは、覚えていない。それぞれの場所で、静かに。
頭上にある信号機のすぐ横、ビルの屋上に黒い半球が見えた。カメラだ。
「あんなところからでも、見えるのかな」と一度だけ思ったことがある。今は、思わない。もう、見えていることが「前提」になっている。いつも、誰かが見守っているのかもしれない。
進路希望用紙には、ひとことだけ書いてある。
第一志望:春凪共和国 入国申請
その国がどうやって成り立っているのか、本当はよく知らない。ただ、「音を立てない人たちが暮らしている国」という噂だけを信じていた。静かな場所。それが、何よりも大切。
彼女は別に、世界を良くしたいわけでも、自分の人生を変えたいわけでもない。ただ、そういう国でなら、生きていける気がした。静かに、穏やかに。
そのとき、足元に微かな振動が伝わった。
背後から、小走りの誰かが迫ってきていた。革靴がアスファルトに打ちつけられる乾いた音。澪は自然と歩調を緩め、軌道を右へ半歩ずらす。それぞれの歩みを、邪魔しないように。
抜かしていった人物の顔は見なかった。彼女の中で、それはただの「通過音」だった。通り過ぎていく、ささやかな存在。
ふと、上空にある監視カメラの黒い球体が視界に入った。
そこにAIがいるかどうかなんて、誰にもわからない。
でも──見られている気がする。きっと、いつも。
言葉にならないその感覚が、肌の内側をゆっくりとなぞっていった。それは、静かな受容だった。