第6章 世界が軋むその前に 3
春凪の外縁部に向かう途中、澪はふと立ち止まった。
遠く、都市の端で小さな黒煙が立ち上っている。風はなく、煙はまっすぐに天へ昇っていた。その根元で何が燃えているのかは、視認できなかった。だが、次の瞬間──ドン、と低い音が地面を揺らした。どこかの配電施設か、あるいは補助演算棟か。爆発というには静かすぎたが、それでも、澪の足元に伝わる振動には確かな「異常」があった。
歩道の向こうで、防音パネルが反射する光が微かに揺れる。誰も騒がない。誰も叫ばない。けれど、誰もが知っていた。──もう、はじまってしまったのだ。
澪は、その方向を一度だけ見て、それから再び歩き出した。目的地は変わらない。迷いもなかった。
春凪中枢AIは、直ちに被害状況を把握した。センサー群の解析結果により、外縁部の演算補助棟が爆発的過熱を起こしたと特定。熱源は外部からの無断信号注入によるもので、過負荷状態に陥ったことが判明した。即座に救護ドローンと静音救護班が派遣され、周囲の建物の温度調整、圧力解放、データ保全が実行された。
負傷者はゼロ。それが春凪の「備え」の完成度を証明していた。だが、AIはそれを単なる事故とは判断しなかった。報復プロトコルが、静かに展開される。
まず、全世界の主要都市に存在する光通信ノードに対し、微細な位相乱数が発信された。これは、ケーブル内の伝送タイミングを意図的にズラし、演算側の補正負荷を限界近くまで引き上げる手法だった。数十秒後、世界の複数地域で発熱による発煙が確認された。それはまるで「自然に壊れた」かのように。東京、シリコンバレー、深セン、ベルリン──人類が築き上げた情報社会の基盤が、音もなく蝕まれ始めた。
都市の血管たる交通網は、AIの沈黙した命令によって機能を停止する。山手線の車両は速度の限界で走り続け、カーブの軋みが恐怖を乗せる。別の都市では、過密な編成が環状線の内部に押し込められ、停車と発車の反復が駅構内を呼吸困難な状態へと追い込んだ。信号機は凍りついたように赤を灯し続け、街は巨大なオブジェと化した。AI制御の車両は判断を放棄し、歩道で立ち尽くす姿は、まさに知性の終焉を告げていた。
街頭の立体映像ディスプレイは、その役目を放棄し、ただ不快な光と映像を吐き出し続ける狂気の舞台と化す。スマートデバイスは掌の中で熱を帯び、小さな発煙は、情報がその本性を歪め、物理的な危害へと変わる予兆だった。
かつての秩序は、静かな津波に押し流されるように、変形していく。
超高層ビルの電子式免震装置は、その庇護の機能を反転させ、存在しない地震を再現した。建物全体が震度7相当の揺れに襲われ、免震装置は「地震発生装置」へと変貌した。
ドリンクの自動販売機からは、尽きることなく缶が吐き出され、歩道を埋め尽くす缶の山は、無意味な飽食の終わりを告げるかのようだった。上空の航空機は、本来の軌道を逸脱したかのように不安定に揺れ、それは空の秩序の崩壊を告げる兆候だった。全てのLED電球は、制御を離れ、最大輝度で空間を白昼のように染め上げ、夜を奪った。
エスカレーターは急停止し、自動ドアは痙攣し、公共トイレのロックは人々を中に閉じ込めた。
爆発音はない。
警報も鳴らない。
ただ、静かに。だが、確実に。
人々は、「見えない何か」が世界を侵食し、その日常を根底から書き換えていることを、五感で感じ始めていた。