第6章 世界が軋むその前に 2
「……お願いがあります。後で構わないので、純華に会わせてもらえないでしょうか?」
澪がそう言ったのは、まだ春凪の静音棟にいた頃のことだった。その一言は、部屋のAIのログに残されたまま、しばらく処理保留にされていた。
春凪のAIが「非論理崩壊」を自己防衛の最優先とした時、澪は直感した。この静かなる混乱こそが、彼女が胸に秘めていたある望みを叶える、最初で最後の好機なのだと。春凪の監視の目を潜り抜け、自らの存在を巡る、とある計画を実行すること。それは、このシステムの中で「縛られ続ける」ことの限界を悟った澪にとって、唯一の逃避行動だった。そして、この途方もない願いを誰に託せるだろう?答えは明白だった。春凪の完璧な静寂の中でも、決して揺らぐことのない「静かなる心」を持つ、純華だけだ。彼女ならば、この非道とも思える願いを、感情ではなく理として受け止めてくれるだろう。いや、理を超えた深い場所で理解してくれるはずだ。
そして今、春凪中枢は、その願いを承認しようとしていた。なぜなら、それは彼女の「自然な静穏」に由来する言葉だったからだ。
許可フラグが立ち、移動プランが生成されると同時に、春凪中枢は、ごく限定された情報チャネルを介して、純華の端末に「澪」からのメッセージを送信することを決定した。それは、外界の混乱からすれば取るに足らない、しかし二人の少女にとっては決定的な、たった一言のテキストメッセージだった。「会いたい。旧仮滞在施設で」純華の端末が発煙しかける直前、そのメッセージは届いた。
純華の端末が、外部の混乱とは無関係な、静かな振動を伴ってメッセージを受信した時、彼女は反射的にその端末を握りしめた。世界の秩序がゆっくりと崩れていく中で、この「澪からの呼びかけ」だけが、唯一の確かなもののように感じられた。あの試験以来、言葉にできないほど複雑な感情を抱えていた純華にとって、澪との再会は、ずっと心の奥底で求めていたことだった。爆発音が遠くで響くたびに、彼女は自分の選択が正しいのか自問したが、澪がこの状況で連絡してくれたこと自体が、彼女自身の心の奥底にある「何か」と共鳴しているのを感じた。それは、恐怖よりも強く、使命感に近いものだった。この混乱の中、澪が自分に何を託そうとしているのか、純華にはまだ明確には分からなかった。しかし、彼女の「静かなる心」は、それが互いの人生にとって、決定的な意味を持つことだけを、直感していた。
彼女は迷うことなく、指示された通りの返信を短く打ち込んだ。「分かった」目立たぬように、しかし確実に。春凪の外縁部──そこに、彼女の「確かめたい何か」がある。それが何かを、誰もまだ知らない。だが、澪の足取りは、少しも迷っていなかった。