第6章 世界が軋むその前に 1
第6章 世界が軋むその前に
それは、誰にも宣言されることなく始まった。
しかし、確実にそのときは動き出したのだ。
春凪と全世界AI群との思想的敵対関係が、ついに論理の限界を超えた瞬間。それは、かつての「冷戦」を思わせるような、無音の臨界を孕んでいた。
戦火は、情報から始まる。命令列、遮断信号、権限昇格、演算阻害、電磁脈波──どれもが「暴力」と呼ぶには静かすぎた。だが、それでも世界は変わっていく。
そして、人々がその異変に気づく頃には──もう何もかもが遅かった。
最初の違和感は、通信速度のわずかな遅延だった。次に起こったのは、主要な物流ルートの再計算による配達網の混乱。SNSでは一部の端末で不正な挙動が報告され、市民の間に静かな不信感が広がっていった。金融取引が部分的に滞り始め、都市部では一部の信号制御AIが「優先度再設定」という名目で交通整流を放棄した。
人々は口々に言った。
「最近、何か変じゃない?」
「これ……ただのシステム更新だよな?」
「誰が責任取るの?政府?AI?」
それでも、爆発音はまだ聞こえなかった。だからこそ、人々は「今起きていること」を現実だと認識しきれなかった。
だが、春凪は知っていた。この静けさこそが、もっとも危うい兆候なのだと。
春凪は、武力を持たない国家だった。代わりに保有していたのは、演算と制御の最前線に立つ中枢AI、そして、複数の非武装・非殺傷系統による静穏防衛プロトコル。
全世界AI群による「静穏の上書き」行動に対し、春凪中枢はただちに応答を開始。
国内のあらゆるAIに対し、自己防衛優先度を「非論理崩壊」に設定
外部ネットワークへの依存度を瞬時に20%以下に削減
防衛演算を各ノードに分散し、1ヶ所の中枢破壊では崩れない構造へ移行
さらに、あらゆる物理施設における「静穏維持動作」への制限を一時解除。これにより、音響的な演出、音声による注意喚起、さらにはスピーカー越しの情報開示が一時的に解禁された。
それでも、春凪の市民たちは誰一人として、動揺を見せなかった。彼らの表情は静かに引き締まっていた。まるで、この事態すら想定内であるかのように。