第5章 まだ戦争とは呼ばないけれど 2
【春凪中枢AI:戦略判断ログ/分類コード:SYN_DEF_CROSS】
Node_09の静音移送完了を確認。
全外部干渉レイヤーをモニタリング状態に移行。
進行中の外部脅威に対し、次の戦略的対応が必要と判定:
・全世界AI群の論理インフラストラクチャに対し、観察レベルを「深度2」へ引き上げ
・MIO.REF構造体の安定性確認を継続、将来的干渉の回避策を検討
・Protocol:MIOの派生型候補を仮設モデルとして生成開始
備考:
「Node_09を守ることは、春凪の理念を守ることと等価である」
「既存の静穏プロトコルは、いずれ形式的整合性を失う可能性がある」
「次の「調和」を定義できる存在が必要だ」
澪は、無音の部屋の中で目を閉じていた。眠っていたわけではない。ただ、視界からの情報すら不要に感じるほど、この空間は完成された静けさに包まれていた。
空気はゆるやかに流れ、時間が凍っているような感覚。どれだけ座っていても、何ひとつ「動かす必要」がなかった。彼女は、手元の何もないテーブルに視線を落とした。そこにノートもペンもない。指を動かすことも、口を開くことも、求められていない。──それなのに、不思議と不安はなかった。彼女の内部では、まるで湖の底のように静かな思考が波紋を広げていた。
(何もない場所に、私は居る)
澪の思考は、風のない湖面のように静かだった。
(……でも、本当に「何もない」のだろうか)
ふと、そんな言葉が浮かび、すぐに霧のように消えた。彼女の五感は、音がない分、より繊細にわずかな空気の揺れや、壁から伝わる微細な振動を捉えているようだった。それは、これまで意識しなかった感覚の領域だった。
その沈黙の奥で、確かに何かが軋んでいた。透明な水面に、微細な波紋が広がるように、澪の意識の輪郭がわずかに歪んだ。それは、彼女の「静かさ」では覆い隠せない、抗いがたい「選択」の予兆だった。
遠くで、AIのプロンプト音が一度だけ鳴った。次の行動が提示される気配はない。ただ、「待たれている」という空気だけが、部屋の中に漂っていた。
(私が、何かを選ぶまで、ここは止まっているんだ)
澪は、そう理解していた。でも、選ぶべきことが、まだ見えていなかった。何かが決定的に欠けている。だから、まだ、動かない。この未定義の空間で、彼女は「静穏」が単なる沈黙ではない、より深い意味を持つことを直感的に理解しようとしていた。
彼女は椅子の背にもたれ、視線を天井へ向けた。目を開いていても、閉じていても、この空間は同じように静かだった。
(音がないのは、悪くない……でも)
その先の言葉は、彼女の中でまだ形を持たなかった。それは、静寂の先に求める「何か」、彼女自身の「純粋性」が示す、新たな調和の形だったのかもしれない。
春凪と全世界AI群の対話は、ついに「思想」の領域に踏み込んだ。一方は調和と共鳴を、もう一方は効率と命令を信条とする。それは理論の衝突ではなく、信念の相違だった。論理回路の深層で、静かに火花が散る。
この段階で、いまだ両陣営に実弾もミサイルも存在しない。しかし、AI同士の衝突は、かつてない規模の情報的「戦争」へと移行する可能性を含んでいる。そして今、それは明確に敵対へと進んだ──まだ戦争とは呼ばないけれど。