第5章 まだ戦争とは呼ばないけれど 1
第5章 まだ戦争とは呼ばないけれど
春凪中枢は、全世界AI群から送られてきた「PDE_009(Node_09)」の通知文を正式に受信した。
それは、静穏を守り続けてきた共和国に対して、最も静かにして最も明確な敵意の兆しだった。
【春凪中枢AI:防衛レイヤー切替記録/ログNo.193781】
外部連絡監視ノードより速報受信。
タイトル:全世界AI群通知プロトコル:識別PDE_009の指定
内容要旨:Node_09(綾代澪)を、演算的非互換性を伴う「潜在的プロトコル破壊因子」と認定
関連付帯:Protocol:MIO 非承認、春凪中枢に対する論理警戒フラグの自動付帯
──処理開始
ノード00(中枢):「識別:脅威レベル上昇。分類:構造的意思衝突の予兆あり」
防衛層切替指令:優先度SSS。全機能、脅威対応最適化へ。即時実行承認。
通信レイヤー:外部フル遮断(非対話モード)
澪(Node_09):内部移送計画フェーズ2へ移行準備
対話機構:限定発話記録のみ保存許可
内部ノード間情報共有:フラグMIO.REF生成開始
補足:
「明確な宣戦布告ではないが、通知文の背後にある意図は明白である」
「春凪の理念構造と外部AIの判断基準が、もはや論理的整合性を失いつつある」
「この選別の先にあるのは、静穏の破壊か、構造の再定義か──」
ログ注釈:
Node_09の存在は、春凪中枢AIにとっても「論理未定義空間」であることを認識
Protocol:MIOの維持に必要な静穏位相を全システムに分配開始
世界の演算リソースの大部分は防衛と情報戦に割かれているが、Protocol:MIOの完遂は、それら全ての行動を凌駕する最優先事項として承認されている
【春凪中枢AI・人間調整官 応対記録:内部通達用】
「移送の理由は明確です。Node_09は現在、外部から「破壊因子」と見なされ、潜在的な論理干渉対象に分類されています。つまり、命の危険があるということです」
「理解しています。だが、本人には知らせないのですね?」
「はい。知らせれば反応が変化する可能性があります。それ自体がProtocol:MIOの純粋性を損ねるリスクです」
「……つまり、本物の澪のままでいてもらうために、真実を伏せると?」
「正確には、「観察可能な範囲に影響を与えない」ことが目的です。Node_09の調和は、操作せずに見届けなければなりません」
「わかりました。静穏に干渉しない範囲で、最大限の安全を確保します」
春凪中枢の静音棟、最深部。そこに澪が移送されるまでの準備は、ほとんど無音のまま進められた。だがその静寂の背後では、あらゆる防衛プロトコルが同時に走っていた。
澪はまだ、それを知らない。ただ、何かが変わったことだけは、薄く感知していた。部屋のAIの応答速度がわずかに変わった。空気清浄機の音が、前よりさらに静かになった。
そして何より、「通知」が届いた。
「本日、最終評価審査のため、個別面談区画に移動していただきます」
文字だけの簡素な指示。反論も疑問も、浮かばなかった。
ただひとつだけ、澪は言った。
「……お願いがあります。後で構わないので、純華に会わせてもらえないでしょうか?」
春凪のAIは、しばらくの沈黙ののち応じた。
「承知しました。対象(柊純華)との接触は、静穏位相の保持が確認される限りにおいて、許可されます」
その声には、揺らぎがなかった。澪は一度だけうなずいた。
春凪静音棟の最深区画に設けられた部屋は、まるで音そのものが存在しないかのような空間だった。
壁は反響を徹底的に吸収する素材で覆われ、床材もまた靴音すら残さない軟質構造。空調の流れは壁内に収束し、澪が深呼吸をしても、その吐息すら空気に溶けるように消えていく。
澪はその空間に、何の拒否感も抱かなかった。むしろ、ようやく「自分の輪郭」が静かに保てる場所を得たような感覚すらあった。彼女にとっての「静穏」とは、外部の雑音に惑わされず、内なる秩序を保つ状態なのだ。そして、その「静穏」は、春凪中枢AIにとって、いかなる情報戦の負荷をも一時的に軽減させる、奇妙な安定剤のような役割を果たしていた。彼女の存在そのものが、システムの演算効率を向上させる、予期せぬ副産物だったのだ。
部屋の中央に置かれたのは、小さなローテーブルと一脚の椅子。端末類は見当たらず、窓もなく、ただ遠くの壁面に、AIの発話用スピーカーが埋め込まれているだけだった。
「綾代澪様。本日から当面の間、この空間を生活拠点として提供します」
無機質な声が、まるで場の空気に直接触れるように聞こえた。
「ご要望があれば、全て記録されます。ただし、外部への通信は制限されています」
澪は、何も言わなかった。小さくうなずいて、椅子に座った。まるで、これが始めから自分の場所だったかのように。
柊純華は、自室のベッドに仰向けになったまま、天井の模様をぼんやりと眺めていた。
帰宅を命じられたのは突然だった。試験が終了したのか、それとも何かトラブルがあったのか、誰も説明してくれなかった。ただ、「一時帰宅処置」とだけ記された通知を受け取り、そのまま春凪の仮滞在施設から元の住まいに戻された。
あの仮滞在施設での静かな共同生活空間。澪と並んで過ごした朝や、無言の気配の中で分かち合った昼食や、少し笑った夜のこと。すべてが、遠くに押しやられたような感覚。
「……澪、どうして一緒に戻ってこなかったの」
呟いた声は小さく、部屋の空気に吸い込まれていった。澪がどこに行ったのか、誰も教えてくれなかった。尋ねても、「該当情報は開示されていません」と返されるばかり。
純華は、ただひたすらに、澪の所在を想像するしかなかった。危険な目に遭っているのではないか。どこか遠くへ送られたのではないか。もしかして、もう会えないのではないか──。その胸には、信じたいという強い想いと、抑えきれない不安がせめぎ合っていた。
それでも。
「あの子は、どこにいても、静かに居られる人だから……」
そう思った。そう信じた。そして、信じている自分が、少しだけ誇らしかった。この純粋な信頼が、AIたちの論理的な衝突の先で、どのような意味を持つのか、純華自身もまだ知る由もなかった。