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朝の光に包まれたサルディナの裏道で、私は鍵を回した。
ガチャリ。
古びた木戸が、音を立てて開く。
そこは、かつて漁師が倉庫代わりに使っていたらしい、隣家の空き家だった。
今では、私の――いえ、『私たち』の工房だ。
前金とアレクからの融資でどうにか借りることができて、ロムたちと一緒に一週間がかりで掃除を終えた。
天井の梁には竿がぶら下がり、壁には簡易の棚。天然色素に使う植物や果物を入れるの。広くはないけれど、光がよく入る。
「よーし! 今日も頑張るぞー!」
朝から元気なロムの声が響いた。
「声が大きいわよ、ロム。刺繍糸が逃げてしまうわ」
「糸って逃げるの!?」
末っ子のスゥが目を丸くして聞き返す。可愛い……
「お姉さん、今度の模様は花?」
長女のレムちゃんが針に糸を通しながら私に聞いた。
「ええ、春が近いから、海辺の花を参考にしているの。ルパさんもお花なら刺繍できると言うからね」
ロムたちの母――ルパさんは、ようやく薬が効いて、床から起き上がれるようになった。
ロムから一連の事情を聞かされた彼女は、涙ぐみながら感謝をしてくれた。
「ロサさん……縫い物くらいしかできませんが、手伝わせてくれませんか」
子供たちだと縫い物は限界があるから、もちろん即答でお願いした。
ルパさんの紹介で、気の良い主婦たちが5人集まった。皆、夫が長期の漁や建設仕事で町を離れており、日々の稼ぎに困っていた。ルパさんの旦那も航海に出かけてきり、2年も音信不通になっている。この町ではよくあることみたい。悲しい事実だ。
色々あったが、二ヶ月経った今では何とか安定して納品できるようになった。
「ロサちゃん、ここ、こんな感じで大丈夫?」
「はい、上手ですよ。もう少しだけ針を寝かせると、目が揃います」
主婦のひとり、アンナさんが照れくさそうに笑った。
「なんだか、先生みたいさね、ロサちゃん」
「うふふ……恥ずかしいのですが、みなさんが器用で、教えるのがとても楽しいです」
「お菓子はいつも焦がすけどな!」
「こら、ロム!」
ルパさんがロムを叱ると、皆がくすくすと笑い出した。
工房を改修する余裕がないから、屋根の下は大部屋が一つだけ。
奥の壁際には、大きな桶がいくつも並び、染め上げた布が木の棒にかけて干されている。床は水に濡れて光っていて、そこに散った藍のしぶきが、まるで踊るような模様を描いていた。
前方のほうでは、主婦たちが木の台に布を広げ、針と糸を手にして黙々と縫い物をしている。
そうそう。布を安価で高品質なものを確保したいから、麻布店のお爺さんの紹介で数人の主婦を追加で雇った。気づけば工房の従業員の数も20人を超えていた。
誰かが踏むたびに、足元の杼が小さく軋む音を立てる。編み上げた髪に三角巾を結んだ女たちは、染料がついても気にせず、手を止めることなく、会話を弾ませながら働いていた。
指先の動きは早く、正確で、さすが熟練の職人。
女性というだけで安い賃金を強いられた分、技術を発達させているようだ。
縫う手の横に置かれた小さな木箱には、子供の玩具や裂けた袖から取った布のオムツ。
育児しながら働く環境が、いつしか工房の『暮らし』の一部みたいになっていた。
「みんな、集まってください。お菓子を焼きましたよ〜」
お昼の時間には、今朝焼いたお菓子を配る。
今回は甘さ控えめの、オレンジピール入りの甘酸っぱい焼き菓子。
「やっぱ焦げてる」
「見た目が全てじゃないのよ、ロム」
「ひひ、知ってる。ロサ姉の菓子はレシピ通りの味だからな!」
「まあ、よろしい」
私が笑うと、主婦たちも小さく笑って、お菓子を食べてくれた。
「おいしいわー!」
「ロサちゃん、これ貴族の味じゃないの!?」
「うふふ、そんなに褒められると、また焦がしちゃいますわ」
「褒めなくても焦がすくせいにー!」
あはは! と一斉にみんなが笑い出した。
失敗しても、みんなが笑って食べてくれる。……平和で、自由だ。
こんな時間が、ずっと続けるといいね。
★ ★ ★
ゲネス商店の店頭には、私たちの商品が並び始めていた。
布から、手拭い。試験的に作った花のアクセサリーも置いてくれた。
まだ価格は安いけれど、買ってくれる人がいる。ある程度は認識され始めている。
「この色、素敵だよね〜」
店の前でウロウロしていると、中から2人の女性客が出てきた。
「『波の裏色』だって? 光のない海の底で揺れているような……そんな感じがするわ」
「派手ではないけど、上品よね〜」
女性の手にあるのは、私たちの手拭いだった。
「……ふ……ふふ…………うふふ!」
「あ、ロサ姉が嬉しそう!」
「当然じゃないの、ロム。みんなの商品を褒められたのよ!」
ロムは意地悪そうな表情を消して、ニカっと嬉しそうに笑った。
「ああ! オレ、染めのムラもなくなったしな!」
「にいちゃんえらい!」「お姉ちゃんもえらい!」
次男のルスと末っ子のスゥも、私に抱きついて和かに笑った。
★ ★ ★
「あの工房のおかげで、うちの娘も働き始めたんですよ」
夕方。仕事を終えて街中を歩くと、あちらこちらからロサの工房の噂が聞こえてくる。
「昼になると、子供たちがロサちゃんのところにお菓子もらいに行ってさ。わしも食べたくなっちゃうんだ」
ロサのお菓子か。甘いものは好きじゃないが、何度も噂に聞くと食べたくなってくるな。
そんなことを考えながら、ゲネス商店の中に入り、ディオ爺の執務室をノックした。
「これは、アレクス坊ちゃま! 領の政務はもう終わりましたか?」
「しーっ! ここでは『アレク』だろ? ディオ爺は私の親戚、敬語は不用だ」
「ははぁ……! しかし、この部屋では2人ですし……」
「例外はない。この商会を立ち上げた本来の意味を思い出せ。港町の実情を知って、草の根から町を良くするためだろ?」
「はは! 申し訳……いや、そうだったな、アレク。それで、今日も例の工房の売り上げを?」
「ああ。各地に宣伝した効果はあったのか?」
「かなりあったぞ! もともと品質も良いのでね、噂がすぐに広まった」
「……そうか。うまくいけば、お腹を空かす領民も少しは減らせるかもな……」
「持続可能な支援はすぐに効果出ないぞ。ただ、少しずつ変わっていくさ、この町も。アレクの統治が始まれば、もっと良くなっていく」
「ふん……父上に聞かれたら、いくら有能な執事でも打ち首になりかねないよ」
「あはは! アレクが結婚して家督を継いでくれるなら、旦那も喜ばれると思うがな」
「またすーぐ婚姻話を持ち出す……」
私はため息をついて、逃げるように部屋を出た。
「おや。アレク、どこへ?」
「工房の視察!」
★ ★ ★
工房につくと、庭先でロサが見えた。
簡易な机で子供たちに読み書きを教えている。
「『ス』は、こう書くの」
「スゥの名前〜!」
「うふふ、そうよ。お母さんの名前もあとで練習しようね」
私は彼女の隣によると、小さな蝋板を見下ろした。
「驚いた。君は先生もやっているのか?」
「……っ、アレクさん!」
私に気づくと、ロサが礼儀よく会釈した。
令嬢の礼ではないが、何度見ても品のある所作。片田舎出身と語るなら、もう少し崩した方が良いのに。……ふふ、まあ。才能を隠しきれないところも彼女らしい。
「どうして、アレクさんがこちらに?」
「ああ、工房の様子を見ようと思ってな。これは?」
工房の入り口に貼り紙があった。
みれば、従業員の名前が書き込まれている。共同作業のスケジュールのようだ。
「これで誰が何をいつやるか、分かりやすくなりますわ」
「オレとルスは水洗い担当!」
「レムとスゥは干す係!」
ロム4兄妹がロサの周囲をくるくる回りながら、口を挟む。本当に好かれているな。
「はいはーい! 解散よ、早く仕事場へ戻りなさい」
「そうさね、ロム君、ロサちゃんのデートの邪魔よ」
縫い物をしている主婦の1人がロサをからかった。
「違います、アンナさん! お取引先様のアレクさんよ! それに、借金主ですし……」
困った様子のロサをみて、工房内に温かい笑い声が響いた。
それから私とロサは工房の中に入り、色々と見て回る。
「いい雰囲気だな」
「ええ、いい人達なんです……からかってきますが……」
「はは、君が愛されている証拠だ……それで、その」
「……はい?」
庭のベンチに腰をかけて、私はぎこちなく言った。
「君のお菓子の話をよく耳にしてな。良ければ、一つもらえるかなと……」
「え!? ……えっと……しかし、焦がしていますので……」
「それもロムから聞いている。興味があるんだ。無理とは言わないが……」
「……うぅ、そこまで仰るなら……」
ロサが顔を真っ赤に染めながら、恥ずかしそうに頷いた。そして工房の中へ入り、持ち出したトレイの上には白い粉をまぶしてある焼き菓子。…… ポルボロンのアレンジ系か?
「……どうぞ、リチャレッリです」
「ん?」
「お菓子の名前です」
ポルボロンじゃない? リチャレッリ……発音的に隣の国のもの?
「……いただこう」
焦げたところがパリッとするが、中のオレンジはいい酸味を出して、口腔内に爽やかな香りが広がる。
「……うん。焦げても美味しい。評判通りだな」
「評判……?」
「巷でも噂になっていてな、みんな食べたがっているようだ」
「え〜〜!? 練習のために配っていますのに……まだ毎回焦がしてしまうのに……」
ロサが唇を尖らせて、ぽつりぽつりと言う。商談話になると凛々しい彼女が、こんな顔もするのだな。それが可愛くてーー
「え?」
「あ」
気づけば手が彼女の頭を撫でていた。
「悪い。つい……」
「い、いいえ……」
奇妙な静寂が降りた。
ロサは見た目からして、まだ18歳くらいに見える。4才も年下なら、可愛く見えるのも普通か……?
よく分からないが、胸が妙に踊る。
ちらりとロサの顔を見る。彼女の白い頬がやや赤みを帯びて、ぷっくりと膨らむ唇がリンゴのように赤い。
「……っ」
だめだ、見てはいけない気がした。顔を背けたら、ロサの声がした。
「……アレクさんは、星が好きですか?」
「ん? ああ……どうした?」
「いいえ。海があると、天と地平線が繋がっているようで綺麗ですね……」
この国の田舎なら、大抵は海沿いにあるはずだが……
「ロサは、本当に片田舎出身なのか?」
「…………」
思い切って聞いてみると、ロサは目を見張った。それから彼女は暫く黙りこくってから、恐る恐ると私をみた。
「嘘でしたら、嫌いになりますか?」
「……ならないよ。君は君だからな」
私を見るロサの碧眼が揺れた。そうして長いまつげがふんわりと閉じ合い、うるうると眦が細められる。
「……ありがとう、ございます」
「……ああ」
もはや気のせいで誤魔化せないくらい、胸が熱くなった。出会ったばかりの女性に、ここまで惹かれることはない。
どこかくすぐったい空気のまま、私とロサは無言で満点の星を見上げていた。
★ ★ ★
その夜遅く、商会に帰ろうと港の前を通ったらーー
「娘を探しいる。ロクサネというんだ、知らないか?」
バルフィルから来た商人風の男が、行き交う人に尋ねていた。
「青い瞳で、腰くらいの茶髪。年齢は18歳くらい。貴族風の……細くて上品な……知らない? ああ、感謝する」
男が静かに立ち去った。まるで、彼女を探していることを知られたくないかのように。
「ロクサネ……ロサ……まさかな」
事情は知らないが、ロサが貴族令嬢であることは確かだ。それが隣国バルフィルの貴族だとすれば……いや、荒唐無稽すぎる。
それでも違和感を拭えないママ、私は男が消えた方角しばらく眺めた。