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 港の潮風は、やっぱり気持ち良い。

 そんなことを考えながら、私は市場通りを抜け、サルディナの商業通りの角を曲がった。


 目的地は――ゲネス商店。


 レンガ造りの大きな店。海沿いの街らしからぬ重厚な構えで、上階には応接室があるらしい。あのアレクが「大通りで商店をやってる」と言っていたとき、まさかこんなに立派な店とは思わなかった。


 扉を開けると、カラランと上品な鈴が鳴った。


「すみません……アレクさんと約束していますが……」


「ああ! 君が『ロサ』嬢かな?」


 奥の帳場から現れたのは、年配の紳士だった。

 背筋が伸びていて、白髪混じりの口髭。まるで貴族の執事みたいに上品な笑みを浮かべている。


「アレクから話は聞いているよ。私はディオ・ゲネス。この店の主にして、彼の……そうだな、親戚のようなものさ」


 ふんわりした言い回しだけど、店の名前からして本物の関係者だろう。


「アレクさんは……」


「外回りだよ。すまないね。だが、こちらを預かっている」


 差し出された封筒を開けると、中から綺麗な字で書かれた『正式発注書』があった。付録には簡潔な納品リストと――銀貨数枚の前金。


「…………っ」


 指が震えた。


 注文が、本当に来た。しかも前金つき。あの布を、ただの気まぐれじゃなく、商品として扱ってくれる。


「責任を持って、納品いたします……!」


「はは。期待しているよ、ロサ嬢」


 ディオ爺さんはそう言って、控えめに目を細めた。


 


★ ★ ★


 


 注文の量は、それほど多くない。けれど、問題は時間。


「一人じゃ、無理かも……」


 布を洗って、干して、染めて、また干して。アイロンもかけたいわね。それから刺繍をして、縁を整えて……


 ディオ爺さんは布だけで良いと言ったけれど、ちゃんとしたものを納品したい。


 しかし、この納期では徹夜して間に合うかどうか。


 誰かを雇う? 職人は無理ね。一から教えるとして……余裕は何人まであるの?


「待てっ! 泥棒っ!」


 頭を抱えていたら、急に怒号が轟いた。


「逃がすな! あのガキだ!」


 市場の中央で人々が騒いでいた。何があったのかと近寄ると、小さな影が横からすり抜けてきた。

 少年。おそらく12歳くらいかな。痩せているのに、足が速い。


「……こら! 捕まえた!」


 少年が大人たちに押さえつけられていた。手足をバタバタさせているが、抜け出せないでいる。


「待ってください! 苦しそうですよ!」


 思わず首を突っ込むと、店主らしき叔父さんに睨まれてしまった。


「泥棒は犯罪だ! 手足を切られても文句は言えねぇぜ!」


「! さすがに酷いのでは!?」


「なんだぁ? 嬢ちゃんが代わりに払ってくれんのか、ああ? 肉パイ3つだ、3つもだぞ!」


 店主が指差すのは、床に落ちて踏まれている肉パイ。少年が抱えていたものだ。


「……1人で3つも食べる気だったの?」


 少年に聞いてみるが答えはない。ダンマリしてっちゃ分からないけれど、その細い手首を見て、胸が痛んだ。


「払います。2倍の値段で払いますから、どうか……」


 甘いんだと自分でも分かっている。けれど、見殺しにすることはできなかった。


「……! ちっ、あいつめ! 礼の一言もねぇかよ!」


 解放された少年は脱兎のように逃げ去った。まあ、足が速いわね。


「もう二度と盗まないでよねー!」


 聞こえないかもしれないが、気晴らしに叫んでおく。周囲の人々が可笑しそうに、わっと笑い出した。

 

「ほれ嬢ちゃん、自慢のパイだ。一つサービスでやる」


 先ほど怒っていた叔父さん店主が、パイを紙に包めて手渡してくれた。


「いいの? ありがとう。美味しかったら、また来るわ」


「おお!」


 ニカっと店主が笑った。


 彼も悪い人ではない。ただ、生活がかかっているのだ。商売人同士。盗まれたら、当然怒るわよね。


 そんな風に思いながら角を曲がるとーー


「こっち!」


 先ほどの少年が、私の手を引いて走り出した。


「どこへ行くの? ね?」


 少年は答えない。しかし、その手は震えていた。

 そのまま市場の裏手、古い路地をいくつも抜けて、ようやく人目のない場所で足を止めた。


「……はぁ……はぁ……久しぶりに走ったわ」


「……ごめん」


「え?」


 少年は泣きそうな顔で、私を見上げた。


「さっきは、ごめん……」


「ああ、礼が言いたかったのね。偉いわ。名前は?」


「ロム。……アンタは?」


「うふふ。ロサよ」


「ロサ……ロサは優しい。……なあ!」


 ロムは逡巡してから、私の手を握った。


「……うちに、来てくれる?」


「え?」


「母ちゃんが……死にそうなんだ……」


 


★ ★ ★


 


 案内されたのは、斜面にあるボロ家だった。

 屋根は歪み、壁には穴、床はきしむ。でも、暮らしの匂いが随所にしていた。


「ロム!」「にいちゃん!」「おかえり!」


 出てきたのは小さな子供たち。女の子と男の子が次々とロムに抱きついてくる。

 紹介してもらったのは、3人の兄妹。

 レムが長女で10歳。次男がルスで8歳。最後に可愛い髪を編んでいるのが末っ子のスゥ、6歳ね。


「それと……うちの母ちゃん、具合悪くて寝てる」


 奥の部屋には、蒼白な顔の女性が横たわっていた。

 名前はルパ。見た目からして30代かな。明らかに病気で、咳する気力もない様子だった。


「……このままじゃ、死んでしまう」


 ロムは泣きそうな声で言った。けれど、その目は母から逸らすことはない。現実は残酷。目を逸らしても変えられないことを、この子達は知っているのだ。


 私の中で、何かが決まった。


「医者を呼んであげる。でも、タダじゃないわ」


「……え?」


「……染め物の仕事、手伝ってくれる?」



★ ★ ★



 子供に労働を強いるのは心苦しいが、慈善活動をするほど私にも余裕がないの。

 ロムにとっては望んでもない機会なので、すぐに頷いてくれた。布を仕上げてからだと遅いので、前金の半分を使ってロムの母のお薬を買った。


「……これでいい?」


「ええ。漏れがないように、しっかりと布を回すのよ」


「……これ、楽しい!」


「にいちゃんだけずるい! ボクもやる!」


 大きな棒で布を掻き回しながら、ロムとルスが笑った。

 遠くで布を干している長女のレムちゃんが、パタパタとスゥの顔に水を散らしている。


 ふふ……4人兄妹が本当に仲良いわ。


 最初はロムだけを雇うつもりだったけれど、下の子達が見に来ていたら、いつの間にか手伝うようになって……


 ロム以外の給料は要らないと言うが、そうも行かないでしょう?

 予算的に少ない分、別の何かで補わないとね。


「はい、みんな集まって。お菓子を焼いたのよ」


「わぁい! 美味しそう〜!」


「嘘おっしゃい。初めてだから少し焦げたけど……味はレシピ通りのはずよ」


「いただきまーす!」


 アーモンド粉に卵白と蜂蜜を混ぜた焼き菓子ーーリチャレッリ。

 オーブンの代わりに炭火を使って、ゆっくりじっくり焼き上げたわ。蜂蜜は高いから、香り程度だけれど……


「……うまっ!」


「お菓子、はじめて食べた……!」


「おねえちゃん、天使……!」


 ふふ。台所は大惨事だけれど……焼いてよかった。


 


★ ★ ★


 


 十日後。

 布を納品する日。私は緊張しながらゲネス商店の扉を開けた。


「お。来たな」


 奥にいたのは、――アレク。


「……っ、今日はいらっしゃったのですね!」


「ああ。前回はすまないな。約束したのに……それで、布を見せてくれる?」


「もちろん」


 飴色のテーブルの上に、整えた布を広げる。


 アレクは目を細め、指先で布をなぞる。

 染めの深み、刺繍の均一さ。何も言わないので、ドキドキする。


「……刺繍まで……よくできたな。期待以上だ」


「ふふ、ありがとうございます」


「君は1人だと思ったが……親戚でも呼んだのか?」


「あら、どうして……?」


「布の切り口の縫い目。途中から少しだけ手が変わっている。君の教えを忠実に守ってるけど、別の人間の癖が出てる」


「すごいですわ! これが本物の商人ですのね……!」


 感動して、ついアレクに迫ってしまう。


「いや、まあ……ごほん。褒められるほどでもないが……」


 アレクはポリポリと自分の頭を掻きながら、どこか照れ臭そうに言った。

 隣にいるディオ爺さんが、クスクスと小さく笑った。

 

「それで、君を手伝ったのは?」


「……ああ、はい。えっと……少々お待ちください」


 店の外へ出て、チラチラと窓から伺い立てているロムたちを招き入れた。

 

「……子供!?」


 アレクが目を剥いた。そうなるわよね……


「事情があって、協力してもらいました。しかし、品質はしっかり管理していますわ。ご安心を」


「あ? いや、品質は見れば分かるが……子供だぞ? これを彼らが?」


「おう! すげぇだろ! もっと驚け、オレの自信作だからな!」


「ちょっとロム! 黙ってらっしゃい!」


 自信満々に自分の胸元を叩くロム。後方で兄貴の真似をするルス。もう〜、可愛いけどダメ!


「申し訳ありません、アレクさん……良い子たちなんです。手先が器用で、真面目なんです」


 アレクが困ったように笑った。


「まあ、無理やり働かされているわけではなさそうだな」


「それは、もう……!」


 仕方なくアレクに事情を話した。


「そうか……薬代の代わりに……大変だったんだな」


「1人よりは楽しいので、そうでもありません」


「そうか……」


 アレクが感心したように呟いた。そこへ、スゥちゃんが「はいはい!」と手を挙げた。


「お姉ちゃんの焼く菓子は美味しいよ!」


「いつも焦げるけどな!」


「ロム! 一言余計よ!」


 ロムの頬を摘むと、いひひと悪戯げに笑った。


「ふ、ふふ……ふははは!」


 黙って見ていたアレクが、急に笑い出した。


「昔からの兄妹みたいだな」


「弟……うふふ、こんなヤンチャでしたら、困ってしまいますわ」


 一頻り笑いあうと、アレクは私に封筒を差し出してきた。


「本日の支払いだ。それと、良ければ提案がある」


「……提案、でしょうか?」


「ああ。君の工房を作らないか? 生活に困っている人を採用して、作った布は全部買い占めよう。設備を整えるための金も、こちらで用意する」


「っ、さすがにそれは……!」


 慌てて断ると、アレクは逡巡してから、再び提案した。


「なら融資はどうだ? 借用書も書いてもらう」


「どうして、そこまで……?」


「君なら街をよくしてくれると信じているから。君の誠実さと、心の強さがあればな」


 ドキッと、胸が跳ねた。

 信じてくれる……家柄でも、政治上の立場でもなく、ただの『私』を見てくれている。

 気づけば、全身がドンドン熱くなっていく。


「あ! ロサ姉が真っ赤だ!」


「黙ってらっしゃい、ロム!」


 ドッと店内に笑い声が沸き起こった。アレクは私に手を差し出して、硬い握手をした。


「君の工房を期待しているよ」


「……ええ。必ず良い商品を届けてみせますわ」


 初めて、『私』を信じてくれた人だ。ガッカリはさせられないわ。

 海の町で始まったばかりの小さな商売は、思ったよりもずっと、早く動き出していた。


 

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