1
潮の香りが鼻をかすめたとき、私はようやく、国を捨てたことを実感した。
ここはアルゲアス王国――バルフィル公国から馬車で半月。山を三つ越え、幾度も国境警備をやり過ごし、身を隠すようにして辿り着いた、海辺の商業港。
旅のあいだはほとんど眠れなかった。
不安、罪悪感、焦燥。後ろ髪を引かれるような思いを、何度振り払ってきたことか。
でも――
「……ほんとうに、綺麗な海……」
眼下に広がる海は、まるで液体の宝石だった。
どこまでも深い青。太陽の光を撥ね返してきらきらと瞬く水面。遠く帆船が白くたなびいている。
――ああ、来てよかった。
バルフィル公国での日々は、誇りと義務の連続だった。
父の急死。家財の差し押さえ。母と弟の泣き顔。婚約者の困惑。
すべてを振り切って、ひとりでこの国に来たことを、後悔していないとまでは言えない。
けれど今、潮風が吹き抜けるこの瞬間だけは――自由だ。そう、思えた。
★ ★ ★
「……これが、新しい家……」
港町サルディナ。ここは市場通りから二筋ほど外れた、裏通りにある古い倉庫跡地。
私が借りられたのは、崩れかけた二階建ての木造家屋。
あちこちに隙間風が入り込み、屋根の片側は苔に覆われ、扉は片方だけしか開かない。
……うん、いける。あとは気持ちの問題だね!
文句を言ったらきりがない。なにせ手持ちは限られてるし、そもそも貴族としての身分も、名も、捨ててここに来たんだもの。
私はもう、『ロクサネ・オクシュ』じゃない。
ここではただの、『ロサ』という流れ者。自由で、身軽で、誰の目にも留まらないただの女。
「まずは、仕入れよね……」
★ ★ ★
市場は活気に満ちていた。
魚をしめる音、干し肉を焼く匂いに、露天の布地に積もる埃。
ここでなら、何かが始められる。そんな気がした。
私は、誰も見向きもしないような古びた麻布屋に入った。
色は薄れ、端はほつれ、値段は捨て値。でも、いい布だった。織り目が詰まっていて、素直な手触り。
「色さえ整えば、蘇るわ……」
まずは実験がてらに一反を買おう。
人の良さそうなお爺さんが「元行商人の娘かい?」と笑いながら、可愛い孫を遣わして私から料金を受け取った。
会釈して店を出る。そのまま帰って、すぐに支度に取り掛かる。
染め場は、家の裏手に作った即席の染色台。大きな桶に、鉄鍋。灰汁と木灰も用意した。
私が使うのは、古代式の鉄媒染。昔読んだ公国の歴史書にあった、植物と金属を使った深染めの技法。公国独自の技術だけどね。
まず、木灰と水を混ぜて灰汁水をつくる。
そこに砕いた鉄くずを沈めて数日置き、“鉄媒液”を得る。これが発色の鍵だ。
さらに藍草と栗皮をすり潰した天然色素を混ぜ、布をじっくりと漬けていく。
こうすることで、布に深い藍色と茶褐色の奥行きが出る。どちらも地味だけれど、光の当たり方で色が変わる、味のある色になるの。
染め終わった布は、そっと干す。潮風を受けて、空に舞うように揺れている。
「……よし。上出来」
そうつぶやいて、縫い針を手に取った。刺繍は得意じゃないけれど、基本的なものは知っているわ。縫い目は小さく、丁寧に。模様は流れるような曲線で、波と風を表現するの。
集中していたところに、ぎいぃ、とドアが鳴った。
「……こんにちは。それ、君がやったのか?」
言いながらフードを下ろした男は、整った顔立ちの美青年だった。
黒髪に、青みがかった灰色の瞳。目つきは鋭いのに、なぜか悪意はない。
日焼けした肌と、上等な仕立てのシャツ。姿勢もどこか気品がある感じ。けど、身分を語るようなものは何も身に着けていない。
見たところ、商人? それとも……?
「はい。……ご用でしょうか?」
「いや、ただ……それ、干されてるのが見えて、つい来てしまった。すまない」
視線の先には、私が干していた布がある。
風にふわりと舞う藍色と、金茶のグラデーション。麻布だったとは思えない色合いに仕上がっている。
男は私の顔を見て、怪訝そうな顔になった。
「君は……どこから来たんだい?」
幼少期の厳しい教育のおかげで、外国語は得意なの。
大丈夫、訛りはないはずよ。
「片田舎から来ています。平等を謳うこの町なら、私もやっていけると思いまして」
「……君が? 一人で?」
「し、親戚はいますわ! 馬車で半日ほどの場所にいるけれど……」
「……ふぅん」
青年は訳ありだと勘づいているようだが、それ以上は聞かないでくれた。
「私に売ってくれないか? その布」
「……え?」
「できれば、今後も継続して。私は、こう見えて『買い手』でね。君の布なら扱ってみたい」
内心ちょっとびっくりしたけど、顔には出てない。たぶん。
「……私の布を、ですか?」
「ああ。とてもいい色だからな。深くて、でもどこか軽い。空気が透けてるみたいだ」
「……ご覧になっただけで、判断なさるの?」
「いい職人の手仕事は、見れば分かる。私は君の作った色が気に入った。それがすべてだ」
青年は、商売人の目をしていた。
唐突な商談に怪しい匂いしかしないのだけれど、彼の言葉が妙に誠実そうで。なにより……
私の布を、ちゃんと見てくれた。
単なる『商品』ではなく、今後の『価値』まで見てくれているような。
「では、見本として一折、お渡しします。明日になっても、まだ気に入っていただけたのなら、また」
「ありがとう。……君の名を、聞いても?」
「ロサです」
「ロサ。覚えた。私はアレク。大通りのほうで、商店をやっている」
名前を聞いた瞬間、どこかで聞いたような気がしたけれど、すぐに思い出せなかった。
「明日の良い時間に、店に来てくれるか?」
「……え?」
「その方が、君も安心するんだろう? 商売の続きはそこで話そう」
そう言い残して、彼は海風に紛れるように去っていった。
不思議な青年だった。
★ ★ ★
「……やってみる価値は、あるかもしれない」
その晩。蝋燭の火に綺麗に染まった布を照らしながら、ぽつりとつぶやいた。
資金はまだ少しあるけど、不安は尽きない。
でも……
「私の染めた布が、いい色だって……!」
布をひしと抱いて、私は一人で悶えた。
令嬢としての所作や教養を褒められたことはあっても、私が『作った』何かを褒められたのは初めてだった。
この布が彼の目に留まった。
その事実だけで、今日の疲れが報われた気がする。
――アレク。
苗字を教えてくれなかったけど、地元では有名な商人なのかしら?
鋭くて、でもどこか眩しい眼差しを思い出して、ふと胸の奥が温かくなった。
商売が、うまくいくかどうかなんて分からない。
それでも、初めて見えた可能性に、私は嬉しくて堪らなかった。
……人に期待されるだけの理不尽な日々には、もうさようならした。
ここからが私の人生よ。自由に、楽しく……自分のために生きていくわ。