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 潮の香りが鼻をかすめたとき、私はようやく、国を捨てたことを実感した。


 ここはアルゲアス王国――バルフィル公国から馬車で半月。山を三つ越え、幾度も国境警備をやり過ごし、身を隠すようにして辿り着いた、海辺の商業港。


 旅のあいだはほとんど眠れなかった。

 不安、罪悪感、焦燥。後ろ髪を引かれるような思いを、何度振り払ってきたことか。


 でも――


「……ほんとうに、綺麗な海……」


 眼下に広がる海は、まるで液体の宝石だった。

 どこまでも深い青。太陽の光を撥ね返してきらきらと瞬く水面。遠く帆船が白くたなびいている。


 ――ああ、来てよかった。


 バルフィル公国での日々は、誇りと義務の連続だった。

 父の急死。家財の差し押さえ。母と弟の泣き顔。婚約者の困惑。

 すべてを振り切って、ひとりでこの国に来たことを、後悔していないとまでは言えない。


 けれど今、潮風が吹き抜けるこの瞬間だけは――自由だ。そう、思えた。

 


★ ★ ★


 


「……これが、新しい家……」


 港町サルディナ。ここは市場通りから二筋ほど外れた、裏通りにある古い倉庫跡地。


 私が借りられたのは、崩れかけた二階建ての木造家屋。

 あちこちに隙間風が入り込み、屋根の片側は苔に覆われ、扉は片方だけしか開かない。


 ……うん、いける。あとは気持ちの問題だね!


 文句を言ったらきりがない。なにせ手持ちは限られてるし、そもそも貴族としての身分も、名も、捨ててここに来たんだもの。


 私はもう、『ロクサネ・オクシュ』じゃない。

 ここではただの、『ロサ』という流れ者。自由で、身軽で、誰の目にも留まらないただの女。


「まずは、仕入れよね……」


 


★ ★ ★


 


 市場は活気に満ちていた。

 魚をしめる音、干し肉を焼く匂いに、露天の布地に積もる埃。


 ここでなら、何かが始められる。そんな気がした。


 私は、誰も見向きもしないような古びた麻布屋に入った。

 色は薄れ、端はほつれ、値段は捨て値。でも、いい布だった。織り目が詰まっていて、素直な手触り。


「色さえ整えば、蘇るわ……」


 まずは実験がてらに一反を買おう。

 人の良さそうなお爺さんが「元行商人の娘かい?」と笑いながら、可愛い孫を遣わして私から料金を受け取った。


 会釈して店を出る。そのまま帰って、すぐに支度に取り掛かる。


 染め場は、家の裏手に作った即席の染色台。大きな桶に、鉄鍋。灰汁と木灰も用意した。

 私が使うのは、古代式の鉄媒染。昔読んだ公国の歴史書にあった、植物と金属を使った深染めの技法。公国独自の技術だけどね。


 まず、木灰と水を混ぜて灰汁水をつくる。

 そこに砕いた鉄くずを沈めて数日置き、“鉄媒液”を得る。これが発色の鍵だ。


 さらに藍草と栗皮をすり潰した天然色素を混ぜ、布をじっくりと漬けていく。

 こうすることで、布に深い藍色と茶褐色の奥行きが出る。どちらも地味だけれど、光の当たり方で色が変わる、味のある色になるの。


 染め終わった布は、そっと干す。潮風を受けて、空に舞うように揺れている。


「……よし。上出来」


 そうつぶやいて、縫い針を手に取った。刺繍は得意じゃないけれど、基本的なものは知っているわ。縫い目は小さく、丁寧に。模様は流れるような曲線で、波と風を表現するの。


 集中していたところに、ぎいぃ、とドアが鳴った。


「……こんにちは。それ、君がやったのか?」


 言いながらフードを下ろした男は、整った顔立ちの美青年だった。


 黒髪に、青みがかった灰色の瞳。目つきは鋭いのに、なぜか悪意はない。

 日焼けした肌と、上等な仕立てのシャツ。姿勢もどこか気品がある感じ。けど、身分を語るようなものは何も身に着けていない。


 見たところ、商人? それとも……?


「はい。……ご用でしょうか?」


「いや、ただ……それ、干されてるのが見えて、つい来てしまった。すまない」


 視線の先には、私が干していた布がある。

 風にふわりと舞う藍色と、金茶のグラデーション。麻布だったとは思えない色合いに仕上がっている。


 男は私の顔を見て、怪訝そうな顔になった。


「君は……どこから来たんだい?」


 幼少期の厳しい教育のおかげで、外国語は得意なの。

 大丈夫、訛りはないはずよ。


「片田舎から来ています。平等を謳うこの町なら、私もやっていけると思いまして」


「……君が? 一人で?」


「し、親戚はいますわ! 馬車で半日ほどの場所にいるけれど……」


「……ふぅん」


 青年は訳ありだと勘づいているようだが、それ以上は聞かないでくれた。


「私に売ってくれないか? その布」


「……え?」


「できれば、今後も継続して。私は、こう見えて『買い手』でね。君の布なら扱ってみたい」


 内心ちょっとびっくりしたけど、顔には出てない。たぶん。


「……私の布を、ですか?」


「ああ。とてもいい色だからな。深くて、でもどこか軽い。空気が透けてるみたいだ」


「……ご覧になっただけで、判断なさるの?」


「いい職人の手仕事は、見れば分かる。私は君の作った色が気に入った。それがすべてだ」


 青年は、商売人の目をしていた。

 唐突な商談に怪しい匂いしかしないのだけれど、彼の言葉が妙に誠実そうで。なにより……


 私の布を、ちゃんと見てくれた。

 単なる『商品』ではなく、今後の『価値』まで見てくれているような。


「では、見本として一折、お渡しします。明日になっても、まだ気に入っていただけたのなら、また」


「ありがとう。……君の名を、聞いても?」


「ロサです」


「ロサ。覚えた。私はアレク。大通りのほうで、商店をやっている」


 名前を聞いた瞬間、どこかで聞いたような気がしたけれど、すぐに思い出せなかった。


「明日の良い時間に、店に来てくれるか?」


「……え?」


「その方が、君も安心するんだろう? 商売の続きはそこで話そう」


 そう言い残して、彼は海風に紛れるように去っていった。

 不思議な青年だった。


 


★ ★ ★


 


「……やってみる価値は、あるかもしれない」


 その晩。蝋燭の火に綺麗に染まった布を照らしながら、ぽつりとつぶやいた。


 資金はまだ少しあるけど、不安は尽きない。

 でも……


「私の染めた布が、いい色だって……!」


 布をひしと抱いて、私は一人で悶えた。

 令嬢としての所作や教養を褒められたことはあっても、私が『作った』何かを褒められたのは初めてだった。


 この布が彼の目に留まった。

 その事実だけで、今日の疲れが報われた気がする。


 ――アレク。


 苗字を教えてくれなかったけど、地元では有名な商人なのかしら?

 鋭くて、でもどこか眩しい眼差しを思い出して、ふと胸の奥が温かくなった。


 商売が、うまくいくかどうかなんて分からない。

 それでも、初めて見えた可能性に、私は嬉しくて堪らなかった。


 ……人に期待されるだけの理不尽な日々には、もうさようならした。

 ここからが私の人生よ。自由に、楽しく……自分のために生きていくわ。


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