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5  『キラキラ』


 いつも一回の裏でコールド負けをしてきた僕だけど今のところ試合になっている、と思えるくらいには手応えがある。が、僕はちゃんと冷静だった。慌てていない。猛獣を解放していない。一人で先走ってすべてを台無しにしていない。もちろんまだ勝ったわけじゃないし一回を乗り切ったというだけの話なのだが、これは僕にとって大きな一歩だった。


 好きな人との関係が、成り立っている。


 しかし何より望んできたのにいざそれが目の前に現れるとどうしていいかわからなくなる。僕は桜井さんの前でやらかしてはいないはずだ。振り返ればちょくちょく気持ち悪い言動をしてるような気はするが、それは最小に抑えられてるはずだ。だから続いているのだ。


 相手のことを考え続けろ。自己中心的な考えは僕のなかに一ミクロンも存在を許すな。今はよくても人間関係というのはほんのしたことで壊れてしまうのだ。だからやることは変わらない。僕は淡々と、一歩ずつ、暗闇の荒野を進めばいい。進めばどこかにはたどり着く。光を信じて歩き続けろ。桜井さんのことを考え続けろ。


『じゃあ松浦さんの好きなアーティストは?』


 十二時間が経った。僕は既読をつけないよう長押しをして、またそのメッセージを確認した。既読をつけたら返さなきゃいけなくなる。既読スルーは辛い。自分がされて嫌なことをしないというのは人間関係の基本だ。既読をつけずにメッセージを見れる機能があってよかった。昨日の夜、会話の流れで桜井さんの好きなアーティストを訊いてみた。情報収集は欠かせない。彼女はボーカロイドを中心に音楽を嗜んでいた。歌手よりPの名前が先に出てくる人だった。何人か挙げてくれた名前は僕でも知っていた。知らない人は検索してすぐ聴いた。好きな人が好きなものなら好きになりたいと思うから。昨日から繰り返し聴いている。そろそろ歌詞を覚えてきた。そして桜井さんが質問をくれた。僕に興味を持ってくれた。いやそれは自分の話をするのが面倒だから相手に喋らせとけみたいな意図があったのかもしれないけど、しかし僕とのやりとりを面倒だと思ってたらわざわざ会話を続けるようなことはしないはずだ。どこか適当なタイミングで会話を打ち切ればいいだけだ。だから彼女は少なくとも僕のことを知りたいと心のどこかで思ってくれたはずなのだ。だから訊いたのだ。また一歩進めたと思った。でも僕はすぐには返信をせず、眠り、起き、会社へ行き、仕事をし、昼休みを迎えた。今日はインドカレー屋に入った。僕は大きなナンを千切ってカレーに浸した。日本のカレーとは明らかに違う味がした。僕はこっちのほうが好きだ。こっちのほうがカレーという感じがする。知ってしまったらもう日本のカレーには戻れない。ナンを千切ってないほうの指で携帯を触る。迷いが指に表れている。気を抜くと既読をつけて返信してしまいそうだった。この十二時間、返すか返すまいかで大悩みしていた。もちろんいつかは返信する。そのうちする。いや何なら今すぐしたい。十二時間は寝かせすぎだろう。誠実な行いじゃないかもしれない。でも桜井さんだってなかなか返信をしないのだからおあいこだと思う。むしろ相手と同じ場所に立つ、逆に誠実な行いかもしれない。結局何が誠実なんだかわかりはしない。今送ると返信が夜になる可能性が高いのだ。そこまで待つのが辛いのだ。辛すぎるのだ。はっきり言って地獄だ。殺してくれとすら思う。生殺与奪の権を相手に握られてるようなものだ。桜井さんにその気がなくてもそうなってしまう。だから今送るのは悪手だ。夜の八時くらいがいいだろう。おそらく十時くらいに返信が来るから。二時間くらいなら耐えられるはずだ。それにあえて返さないことで桜井さんの心に引っかかりを作れるかもしれない。返信遅いな、何かあったのかな、と一瞬でも思わせられたらいい。彼女の心のどこかに僕が存在できるのならそれに勝る幸せはない。今はこちらのターンだ。どうするもこうするも僕次第だ。選択肢の多さに快感を覚える。でも送らなきゃ送られてこない。踏み込まなきゃ踏み込んでもらえない。人間関係はそういう風にできている。立ち止まっていては死あるのみだ。進まなきゃいけない。傷つかなきゃ何も得られない。それはわかっている。脳は返信をしたがっている。けど指がそれを抑える。僕のなかで戦争が起きていた。どこかで決着させなきゃいけない。そして僕は当初の予定通り、まだ返信しないことに決めた。ボールを持ったまま午後を過ごした。一秒でも長く安全圏にいたいと思ってしまった。仕事を終え、寄り道をした後、帰宅する。腕が痛い。鍵につけたアーニャのキーホルダーを見る。桜井さんも付けているだろう。彼女と見えない糸で繋がってるように感じた。

 残業はあまりない。それはきっと恵まれてることなんだろう。世のなかには月に百時間とか二百時間とか残業をさせられて、それでも仕事が終わらないという人もいるのだから。桜井さんは入社したばかりなのに毎日遅くまで残ってると言っていた。そんな会社は辞めてほしいと言いたいけど、彼女が選んだ会社だ。僕にそこまで言う権利はない。他人の人生に干渉する権利はたとえ家族でもない。自分の行く道は自分で決めなきゃいけない。どんな選択をしても後悔はする。僕はそれを知ってるから自分の選択を他人に押し付けたくないのだ。僕は満を持して練りに練ったメッセージを送った。自分が好きなボカロPを何名か挙げた。きっと彼女は知ってるはずだ。共感してくれたらいいのだけど。送るとようやく一息つけた。仕事が終わったときよりほっとする。風呂や食事を済ませる。でもまだ完全にオフという感じはしない。十時頃に桜井さんからの返信があって、十二時くらいまではそのやりとりでまた頭をフル回転させるからだ。《常在戦場》とはいい言葉だ。僕の生活はまさにその通りだった。仕事より恋愛のほうがずっと難しい。僕は仕事をするために生まれてきたわけじゃない。ただ一人前の男にならないと試合に出れすらしないから仕事をしているだけだ。社会で通用する立場と相手を困らせない収入が欲しいだけだ。それは仕事そのものにやりがいを感じてる人からしたら理解できない価値観だろうけど、構わない。悟られなきゃそれでいい。こんな考えを口にしたことは一度もない。表に出さなきゃ存在してないのと同じだ。熱くなった頭を夜風で冷ます。最近、夜の散歩が日課になっている。変な形の月が空に浮かんでいる。誰もいない小さな公園に入り、何となくブランコに座ってみる。何度もこの公園の前を通ってきたけど座ったのは初めてだった。そういう日もあるのだろう。大人の僕でもちゃんと座れた。こいでみる。子どもの頃は立ち、加速させ、体が地面と平行になるまでこぎ、そのまま一回転させていた。今思えば無茶苦茶だ。死にたかったのだろうか。今の僕はブランコをわずかに喘がせるだけで満足だった。そこでいいことを思いついた。桜井さんからの返信を待つあいだ何もしないのはもったいない。見つめる鍋は煮えないという。なら別の鍋を見てればいいのだ。僕はもう一度『桜井萌絵』『桜井萌絵 埼玉』『桜井萌絵 太陽システム株式会社』と検索した。何も出てこない。ツイッターもフェイスブックもインスタグラムも。ここまでは前と同じだ。僕は太陽システムのホームページに入る。それなりに金をかけたと思われるスタイリッシュなページだった。会社概要、製品情報、本社や支店の所在地、グループ会社の紹介、環境への配慮、などの項目が並ぶ。そこに採用情報もある。そこへ行く。やはりあった、社員インタビュー。僕の会社にもあるから桜井さんのとこにもあるんじゃないかと思ったのだ。そこには会社の様々な情報がより詳しく書かれていた。就職を考える人向けだから当然だろう。社員にインタビューをして、どんな仕事をしてるかとか一日のスケジュールとか社内の雰囲気とか仕事のやりがいとかそういうものを載せていた。もっともそんなのは嘘ばかりで正直に信じる馬鹿はいないはずだけど、大事なのは社員の情報だ。社員の名前がしっかり載っていた。桜井さんの情報がなくてもこの人たちから探れるかもしれない。全員にネットリテラシーがあるわけじゃない。このご時世でも本名でSNSをやる人はたくさんいる。そのアカウントで仕事のことに触れていれば間接的に会社のことがわかる。


「あっ」


 思わず声が出た。テクノサミットで桜井さんに僕の対応をするようお願いしていたガタイのいい男性がいたからだ。名前は春川拓哉。所属は営業部。年齢は三十歳。学生時代はラグビーをやっていたとインタビューに答えていた。エネルギッシュでいかにも営業ですといった感じだった。僕は桜井さんと春川氏が二人で残業してるとこを思い浮かべた。疲れてる桜井さんに「もうちょっとで終わるよ、頑張ろう!」と春川氏が微笑んで、彼女が「はい! 頑張ります!」と答えた。それはとてもリアルなやりとりに感じた。なぜ僕はそこにいないのか。明日太陽システムに履歴書を送ろうか。中途入社も受け付けてるらしいから。まあさすがにそれは本当に本当に、最後の最後の、死の一歩手前くらいの状況になるまでしないだろうけど。そんなことをしたらすべてが終わる。僕は死ぬしかなくなる。そんなキモいことをする奴は死ね。僕は『春川拓哉』で検索する。色んな関連ワードを入れるつもりだったが、それだけでツイッターのアカウントが出てきた。開いてみると間違いなく本人だった。アイコンがご丁寧に顔写真だったからだ。顔以外は水色の空なのでどこか外で撮ったんだろう。フォローとフォロワーを見る。そこに桜井さんらしき名前があればいい。まあその場合僕にはツイッターを教えないで春川氏には教えてることになり、僕の心が荒れ模様になる可能性があるけど、今は傷つくことより愛が勝る。それぞれ五十人くらいいるのを確認していく。でも桜井さんっぽいアカウントはない。安心したようながっかりしたような。春川氏は頻繁にツイートをしてるわけじゃないが、掘っていけばまあまあパーソナリティを掴むことができた。仲間とフットサルやバーベキューを楽しむ写真があった。そして今付き合ってる彼女がいるらしい。だが彼女の写真はないので桜井さんが実は彼と付き合ってる可能性を全否定はできなかった。僕はひとまず切り上げ、他の社員の名前でも検索してみた。でも個人を特定できるようなものは出なかった。しかし成果はあった。春川氏のツイッターを定期的に確認していれば桜井さんの情報をゲットできるかもしれない。彼が有力な情報を呟いてくれることを祈る。携帯を仕舞いブランコから立つ。尻をさすると、家に戻った。


「あっ」


 家のドアを開けようとして止まる。次なる手を思いついてしまった。僕は興奮しながら入り、ベッドに寝転ぶ。まだ桜井さんからの返信はない。じゃあやるべきだ。やれることはぜんぶやる。それが僕の本気だ。僕はツイッターを開くと『もえっち』で検索する。そんな名前はもちろんいっぱい出てきた。何個あるか知れない。色んなアイコン、色んなプロフィールがずらりと並ぶ。それらを一つ一つ確認していく。僕は『桜井萌絵』としか検索してない。『もえっち』がニックネームであるならネットでも使ってる可能性がある。探す。開く。ときどきこれは、と思う人に当たるが、よく見れば違うとわかる。いや全員が顔写真を載せたりプロフィールを充実させてるわけじゃないから絶対に違うとは言いきれない。今僕が違うと判断した『もえっち』が実は桜井さんだったなんてことは、ありえないことじゃない。でも何となく違うと思う。ツイートを何件か見て、桜井さんはこんな風に呟く人じゃないと思うのだ。それは偏見だ。願望の押し付けだ。彼女だってネットの世界じゃ誹謗中傷などして暴れてるかもしれない。殺害予告で捕まった人がとても穏やかそうな人だったなんてニュースでよく見る。でも僕のなかの桜井さんセンサーが違うと言っている。とりあえずそれを信じてみたい。もしこの世のすべての『もえっち』を調べ終わったら二週目に入り、怪しかった人をもっと掘っていけばいいのだから。次、違う。次、年齢が違う。次、趣味が違う。次、何となく違う。そうしていたら桜井さんからメッセージが届いた。予想通り十時過ぎだった。今日も残業をしてたんだろう。お疲れ様。けど秒で返すことはしない。そうしたら相手を身構えさせてしまう。私のこと好きすぎ、と見下されてしまう。だから少し待つ。ごめんごめん、ちょっと気づかなかったよ、他にやることがあってさあ、僕の世界は君だけでできているわけじゃないんだよ、というのが人として健全な状態のはずだ。もう少し桜井さんのアカウントを探すことにする。メッセージを寝かせてるあいだはひどく安心できる。でもどれだけ探しても見つからない。もちろんこんなのは宇宙でたった一つの星を見つけるくらい無茶なことだ。そもそも『もえっち』という名前を使ってない可能性のほうが高いし、そもそもツイッターをやってない可能性のほうが遥かに高いのだ。もしこの世のすべての『もえっち』を確認できたとしてもそこで終わりじゃない。終わりじゃないのは嬉しいが気は重くなる。途方もない時間と根気が必要になる。でも、あるかどうかもわからない新大陸を目指して海へ飛び出した人間は、あーあ、死んだな、馬鹿だな、あいつ、と笑われながらも見つけたのだ。あるとわかって大海原へ出たわけではない。自殺しようとしたわけでもない。あるかもしれないという気持ちだけで飛び出したのだ。もちろん過去にそうして死んだ人間が山ほどいて彼がようやく奇跡を起こしただけなのだろうが、挑戦して、そして結果を出した彼を僕は尊敬する。やってることこそ違えどそこに優劣はないと思う。これをしばらくの日課にしよう。今日すぐに見つけられるなんて思うな。画面から目を離し、まぶたを閉じた。そろそろいい時間だ。返信をしよう。そう思いツイッターからラインへ移ろうとしたらアーニャのアイコンが目に入った。名前は『もえっち』。プロフィールには好きなものがスラッシュで区切られて書かれている。そこには彼女が好きだと言っていたボカロPの名前もあった。フォロー、フォロワーともに二百人程度。ツイートを掘っていく。『最近ずっと眠い』とか『仕事多すぎて病みそう』と心情を吐露していた。それらに大体数人がいいねをしていた。アーニャのキーホルダーを撮った写真があった。『今日アキバで買った! さっそく付ける!』それは僕らが秋葉原へ行った日の夜のツイートだった。電車のなかで撮ったものらしく床や人の足が映っていた。息を吐く。吸って吐く。吸って、吐く。つまり、これは、そういうことなのか? そういうことかもしれない。キーホルダーを持つ手の感じに見覚えがあった。肌の色、指の長さ、関節のバランス、爪の形など。アップルパイの写真を載せ『作った! 一人で食べる!』と楽しそうな様子もあった。アップルパイの写真は僕に送ってくれたのと同じものだった。桜井さんだ。探して一時間も経ってないのに見つけてしまった。桜井さんのツイッター。思ってることを吐き出すための第二の口を。でも僕ははしゃいだりしなかった。ここは何より冷静になるとこだからだ。アカウントを特定した。これが今後の恋愛にどう影響を及ぼすのかを考えなきゃいけない。浮かれてる暇なんてない。脳が回転を始めている。新大陸を発見した男ははしゃぐ部下をよそに、案外冷静でいたんじゃないか。なぜならそこが無人ならいいが先住民がいた場合自分たちは攻撃の対象になるからだ。そしてその大陸をわが物とするのならその先住民を攻撃しなきゃいけないのだから。今後のことを思えば喜びより次のステージに進んでしまった不安のほうが先に来るだろう。やることはいっぱいある。過去のツイートや他者へのリプライ、いいねなど精査しなきゃいけない。それを彼女の言動と突き合わせれば表と裏から彼女のことがわかるだろう。でもまずは彼女への返信だ。それによってツイッターにアクションがあるかもしれない。僕は彼女に心からの言葉を紡いだ。


 その後もやりとりは弾み、いつか互いの歌を聴いてみたいという話になった。だから次に遊ぶときはカラオケに行こうと何となく約束をした。カラオケなんて防犯カメラはあれど密室だ。何をされるかわかったもんじゃない。そんなところに男と二人で行くなんて女性にとってはリスクしかない。それでも僕と行ってくれるなら嬉しい。僕は不純さを押し殺し彼女の歌声に耳を傾けるだろう。タンバリンを叩いて盛り上げるだろう。そんなふわふわした会話は突然、彼女の沈黙によって途切れた。日付が変わっていた。僕のターンで終わらせればよかったと少し後悔した。やりとりできるのが嬉しすぎてそんなことまで気が回らなかった。とはいえしばらくは大丈夫だろう。僕は他の鍋を手に入れたのだから。煮えないときはそっちを見てればいい。ツイッターを開き、彼女の呟きをさかのぼっていく。画像があれば保存した。眠ってなんかいられない。僕は次々と桜井さんの情報を食べていった。食べれば食べるほど幸せを感じられた。


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