4 『君の隣』
待ち合わせは十二時に中央改札前だ。
しかし僕は一時間前には着いていた。万が一にも遅刻するわけにはいかないからだ。昨日はあまり寝れなかった。遠足前日の小学生のように僕は興奮していた。そしてその興奮以上に今緊張していた。
何回めかわからない深呼吸をする。けど胸の高まりは止まない。今日は何時間も一緒にいる。普段のラインでのやりとりとは違う。考えて考えて最適解を出すということができない。相手の言葉にすぐ返さなきゃいけない。かといって早すぎてもいけない。ちゃんと受け止め、ちゃんと返す。
この日が決まった瞬間から想定問答集を作り始めたけど、あまりに膨大になりそうだったので止めた。その通りに会話が進むとは限らないからだ。ここは頭を使っていては勝てない。その場その場での本当の意味での臨機応変さが求められる。多少の失点は覚悟で駆け抜けるしかない。それが一対一だ。それがデートだ。ここからが本当の勝負なのだ。命を賭けろ。今日が上手くいくなら寿命が半分になってもいい。ここが人生の正念場だ。一世一代の大勝負だ。ここで勝てなきゃ男じゃない。ここで負けるような男に未来はない。ゴミはゴミらしく掃き捨てられてろ。
久しぶりに来た秋葉原は日曜の昼だからかすごく人が多かった。こっちがそうなのだから反対の電気街口はもっと多いのだろう。人の波を眺める。女性や老人、小さな子ども、外国人が目につく。
ひと昔前まではそんなことはなく、ここは男の男による男だけの街だった。それがしばらく来ないうちにだいぶ変わった。薄汚い髪、荒れた肌、野暮な眼鏡、地味な服、気持ち悪いにやけ面、そういうものであふれてた街はもう過去のもの、歴史になったらしい。まあ黒歴史だろう。ずいぶん健康的にというか健全になった。それがいいことなのかはわからないが、誰でも気軽に来れる街になったらしい。でも、じゃあ彼らはどこへ行ったんだろう。秋葉原ではむしろマイノリティになった彼らはどこへ?
携帯で自分の顔を見る。今日のために美容院で髪を切ったし服も新しいものを買った。出る前にシャワーを浴びたし歯磨きも念入りにした。清潔感を出せてるはずだ。こんなにおめかしして秋葉原へ来ることになるとは学生時代には想像もしてなかった。
今日気をつけることは三つだ。清潔感と笑顔と会話。この三つさえ忘れなければいいはずだ。そのうちの一つはたぶん大丈夫。時間を見る。十二時まであと十分ほどだった。もうすぐ桜井さんがやってくる。僕は改札の向こうを見る。でも奥に行けば行くほど人が重なって一人一人を区別できなくなった。
あらためて思う。今日はデートなのだ。だがデートであることを意識しすぎるのはよくない。そんな意識が透けて見えたら桜井さんが引くかもしれない。彼女は今日のことをそういう風に見てない可能性もあるからだ。休みの日に男女でどこかへ行くなんてよくあることだろう。
嫌われてるなら今日はなかったはずだから、現時点で一定以上の好意はあると見ていいかもしれないが、それだってまだ最低限だろう。何がきっかけでラインを下回ってゴミ扱いになるかわからない。恋愛はそういうことが平気で起こりうる。一つの言動で評価が逆転するなんてよくある。だから油断せず、しかし大胆に、正解の答えを選び続ける。その先に幸せな未来がある。
桜井さんが来たらあまり考えられなくなるだろうから色んなことを最終確認していく。昼食がまだでよかった。胃に物が入ってたらきっとこの場で嘔吐してただろう。胸が苦しい。空気を入れすぎてパンパンになった風船が頭をよぎった。
そして、桜井さんが来た。
改札の向こうから手を振りながらやってきた。
水色のワンピースを着て、手にはクリーム色のバッグを提げていた。
輝いて見えた。後光が差してるようだった。
僕は手を振り返しながら、しかし眩しすぎてその笑顔を直視できなかった。
可愛すぎる。
美しすぎる。
視界に入れていいのかと罪悪感のほうが勝った。
僕は頑張って自然な笑みを浮かべた。
「お待たせしちゃいました?」
「いえ、僕も今来たとこです」
異性を神聖視するのは相手に失礼だとわかってはいるけど、しかし桜井さんを人の領域に置いておくのは難しい。自分はとんでもないことをしてるんじゃないかという気があらためてしてくる。本当に僕はこの人と仲良くなるのか? なっていいのか? この僕が? 身分違いの恋愛は人類の大好物だけど、いざ当事者になってみると震えてくる。現実の前に圧し潰されそうだ。彼女はどんな女優やアイドルより魅力的だった。世界でただ一輪の花のようだと思った。
そのとき扉が軋むような音がした。それは桜井さんからした。彼女は俯いてばつが悪そうだった。僕は思わず笑った。
「何か食べに行きましょうか」
桜井さんがもじもじとうなずいた。
駅から出るとすぐヨドバシカメラがある。大きな壁のようだ。広い入口が改札と同じように人を呑んだり吐いたりしていた。ここの上層階がレストラン街になってることは把握済みだ。
「そんなにお腹空いてたんですか?」
「訊かないでください……」
「すみません」
お腹を鳴らした桜井さんがあまりに可憐でちょっと意地悪なことを言ってしまった。彼女の耳が赤くなっていた。ライン越しならまだこんないじりはしなかっただろう。でも隣にいる今の状況なら少しくらいの踏み込みは許容範囲だと思った。彼女も笑みを浮かべてるし嫌がってるようには見えない。
エレベーターで八階に上がりパスタ屋に入った。桜井さんの好きな食べ物がパスタであることは聞いている。ぬかりはない。僕は彼女のあらゆる発言を伏線と考えている。それをいかに自然に、かつ鮮やかに回収できるかが僕の腕の見せ所だ。
この後は二人で秋葉原を回る予定だ。絶対に彼女にとって楽しかったと思える一日にする。僕が楽しむんじゃない。彼女を楽しませるのだ。彼女が楽しいと思ってくれたら僕も楽しいから。
そもそもなぜ初めてのデートで秋葉原なのか。まともなデートスポットなんて都内ならいくらでもあるのに。秋葉原は好きだが間違ってもデートで行くとこじゃない。少なくともひと昔前はそうだった。
理由は二つあった。
まず一つは僕が秋葉原をよく知ってるからだ。灰色の学生時代よくぶらついていた。ここは言わば僕のホームだ。もちろん桜井さんにそこまでは明かしてない。これまで何回か行ったことがある、くらいの設定にしている。秋葉原がホームだなんて明かしたとこで何一つプラスにならない。何だこいつキモと思われるだけだ。
二つ目は桜井さんがなぜか乗り気だったからだ。
これまで行ったなかで楽しかった場所の話になったとき、僕が秋葉原を挙げたところ『秋葉原って行ったことないです』と返ってきたので『じゃあ今度行きませんか?』と踏み込んでみたら『いいんですか! 行きたいです!』と言ってくれたのだった。
そして今日を迎えた。正直普通の女の子なら秋葉原なんて避けこそすれ積極的に行きたい場所じゃないだろう。今では開かれた場所ではあるが、いまだこの街への偏見は根深いはずだ。そんな場所へ行こうと誘ってくる男の神経は疑うべきだろう。でも彼女はそうしなかった。むしろ行きたくても行けなかったのだと前向きな姿勢を見せてくれた。
パスタを食べながら準備運動のように会話をする。
「秋葉原もだいぶ変わりましたよ」
「前はどんな感じだったんですか?」
「桜井さんの想像通りの街だったと思います」
「なら行きたかったです」
「埼玉からだったらすぐだったでしょう?」
「ええ、すぐでした」
「友達とも気楽に来れますよ」
「そうですね。友達なんていないですけど」
彼女は微笑みながら言った。
僕はその微笑みを馬鹿正直に受け取るほど鈍感じゃなかった。何か地雷を踏んでしまったかと思ったが、その後も会話は途切れなかったので事なきを得たようだった。
何となく、桜井さんには友達がたくさんいると思っていた。こんなにも魅力的な人のところに人が集まらないわけがないからだ。それは引力と言い換えてもいい。彼女には間違いなく引力があった。少なくとも僕はその引力に吸い寄せられた。だから他にもたくさん、その引力に吸い寄せられた人がいるのだと思っていた。
けどそこを掘り下げるのはもっと仲を深めてからにしようと思った。この先には不穏なものがあるように感じる。神経を尖らせててよかった。僕がただ舞い上がってるだけの馬鹿だったら選択肢を間違えてたかもしれない。
「最近、帰りがかなり遅くなっちゃってるんですよねえ」
仕事についての話になった。太陽システムでは入社して間もない桜井さんですら九時や十時まで残るのが当たり前になってるのだそうだ。
「先輩たちはもっと遅くまで残ってるので何も言えないんです」
「じゃあ、普段疲れてますよね」
「はい、家に帰っても何も食べる気になれないときもあって……」
僕は心配したが、返信があまり活発じゃないことの理由を彼女が遠回しに説明してくれたようで複雑な気持ちになった。
僕の態度に不満が漏れてただろうか。それを感じ取られて彼女に言い訳じみたことをさせてしまったのなら、僕は今すぐ死ぬべきだ。僕は彼女の重荷にはなりたくないのだから。自分に落ち度がなかったか、僕は話を聞きながらバックグラウンドでアプリを更新するように考える。
「だから最近ぜんぜんアニメが見れてなくて」
見たいアニメがたくさんあるのに! と桜井さんは感情のこもった声で言った。
本当は今日寝ていたかったかもしれない。溜まってるアニメを消化したかったかもしれない。
でもそうじゃなく僕と過ごすことを選んでくれた。少なくとも行動としてはそうだ。
その想いに応えたいと思う。
「桜井さん、秋葉原は楽しい街ですよ」
「はい。でも松浦さんとならもっと楽しくなると思います!」
笑顔が眩しかった。
ヨドバシカメラを出た僕らは電気街のほうへ向かった。大きな道路に人がひしめいていた。歩行者天国だ。秋葉原といえばこれだ。これを見ると血沸き肉躍る。
桜井さんは目を奪われてるようだった。見渡す限りにアニメやゲームの広告があり、ここではそれが普通なのだと教えてくれる。ここは世界で一番二次元に近い場所だ。時代や人が変わってもここはサブカルチャーの最前線なのだ。それが歩いてるとよくわかる。
アニメイトに入ると桜井さんははしゃいだ。でもまったくうるさく感じなかった。騒がしい店内に上手く溶け込んでいた。
色んなグッズを見ていく。ストラップ、クリアファイル、下敷き、タペストリー、マグカップ、アクリルスタンド、缶バッジ、ぬいぐるみ……。挙げていけばキリがない。それが膨大な作品ごとにあるのだから棚はカオスになる。僕らはそんなカオスを楽しんだ。
「あ、アーニャちゃんだ」
桜井さんがスパイファミリーの棚の前で止まった。スパイファミリーは人気なだけあって他の作品よりグッズの数が多かった。彼女はアーニャのキーホルダーを手に取った。
スパイファミリーはスパイの男と暗殺者の女がある目的のため結婚し、超能力者の娘を育てるという家族ものの作品だ。僕は彼女と家族になるところを想像した。僕らはアーニャみたいな娘の手をそれぞれ繋いでいた。
しかし結婚や子どもを持つというのはそんなに特別なことじゃない。これまで人類はずっとそうしてきた。もちろんそれをしなかった、できなかった人は大勢いたけど結婚して子どもを持った人のほうが多かったから人類は滅びず今を迎えられたのだ。
その輪に僕は入れるだろうか。結婚なんて夢のまた夢、分不相応なものだと思っている。でもそうじゃないと思えるときが来たらいいな。僕はグッズを物色する桜井さんの楽しそうな横顔を見ながら思った。
「これ買います」
桜井さんが最初に取ったキーホルダーを見せてきた。
「いいですね。じゃあ僕も買おうかな」
僕も同じものを取った。これを鍵につけてれば離れていても桜井さんをそばに感じることができるだろうから。
これも踏み込みすぎかと思った。そんな心を見透かされたら、私と同じもの買うとかあからさますぎキモと思われてしまうだろう。
でも何となく大丈夫な気がした。僕もスパイファミリーが好きだから。
店を出るとき「おそろいですね」と彼女が言ったので、僕は自分の選択が間違ってなかったことを知った。
次に僕らはゲームセンターへ入った。
桜井さんが『私、太鼓の達人が大好きなんです!』と目を輝かせながら言ったからだ。大好きなものを教えてくれたのが嬉しすぎて足が自然とそっちへ向いた。騒がしい店内を歩き太鼓の達人の前に立つ。地元のゲーセンとは違い、何台も置かれていた。
桜井さんは気合いが入った様子だった。
「最近忙しくて全然叩けてなかったんですよね」
でも僕には彼女のふんわりとした雰囲気と太鼓を叩く姿が繋がらなかった。どっちかといえば早いリズムについてけなくてあたふたしてるほうがしっくりくる。僕も太鼓の達人はプレイしたことがある。そこそこ自信はある。ここはスマートに高得点を出し、彼女にいいところを見せたい。
並んで立つ。「曲を選ぶドン!」とドン太郎が言う。彼女は僕も知ってる有名なボカロ曲を選んだ。次は難易度を選ぶ。僕は《むずかしい》を選んだが、彼女は太鼓の右縁を連打し始めた。すると《むずかしい》の横に《おに》と現れた。難しいの上の、鬼。知らなかった。鬼なんて選択肢があったのか。彼女は《おに》を選んだ。なので僕も《むずかしい》をやめて《おに》を選んだ。負けてたまるかと思ったのだ。彼女が、ついてこれますか? というような目をした。
曲が始まった。赤色と水色の玉が流れてきた。でもその量と速さが尋常じゃなかった。洪水のようだ。すぐ何が何だかわからなくなった。知ってる曲なのに知らない曲のようだった。僕はひたすらバチを振り下ろすだけの何かと化した。
けど桜井さんは違った。ついてくことすらできない僕と違い、しっかり太鼓を叩いていた。その動きにはいっさいの迷いがないように見えた。細い腕が高速で動いている。顔には笑みがあった。彼女はその姿勢を崩さず最後まで叩ききった。結果はパーフェクトだった。
ワンプレイでわかった。この実力は一朝一夕で身に付くものじゃないと。どれほどの時間をこのゲームに捧げてきたんだろう。想像すると身が震えた。
「やりました!」
汗ひとつかいてなかった。
「すごい、ですね」
僕のほうは腕の痺れがひどかった。見栄を張るどころの状況じゃなかった。
桜井さんは僕の惨憺たる点数を見て笑いはしなかったが「《おに》はきついですよね」と言外に、お前にこのステージはまだ早い、と言った。僕は手の汗を拭い、難易度を《ふつう》に変えた。
店を出て今度は裏通りを歩く。ここも人通りは多いが歩行者天国の華やかさとは違いどこか薄暗い感じがある。アンダーグラウンド的と言おうか。本来秋葉原はこっちがメインなのかもしれない。
メイドさんがチラシを手に呼び込みをしていた。この辺りはメイド喫茶が多い。ほとんどパンツが見えそうなくらいのミニスカートのメイドさんがいて、とっさに目をそらした。
「さっきのメイドさん、可愛かったですね」
桜井さんが言った。君のほうが可愛いよと言いかけたが僕の口は何とか止まってくれた。
まあ可愛かったとは思う。でも好きな人の前で他の女性を褒めるようなことはしたくないから「メイド服、可愛かったですよね」と服を褒めた。
「そうですね」桜井さんが振り返って言った。「私も着てみたいなあ」
僕は脳内でさっきのメイドさんが着てた服を桜井さんに移植した。それはもうたまらなかった。
「桜井さんなら絶対似合いますよ」
きっとじゃなく、絶対。メイド服に限らず彼女は何を着ても似合うだろう。いや服のほうが彼女に合わせてくるだろう。彼女にはそんな引力がある。
「いえいえ、私なんかが着ても大したことないですよ」
「そんなことないです。絶対可愛いと思います」
「そうですか? じゃあ、いつか着てみますね」
そう言う彼女に僕はときめいた。
しかしそれは一人のときに着るという意味なのか僕の前で着てくれるという意味なのか、そこまでは訊けなかった。僕はまだまだだ。足りないものだらけだ。
そんな風に僕らは秋葉原を回っていった。そして日が暮れた頃、焼肉屋に入った。僕らは肉を焼きながら今日を振り返ったり、好きなものや嫌いなものについて話した。楽しかった。炭火の向こうで桜井さんの顔がぼんやりと輝いていた。
「ハツ美味しいですね。好きになりました」
「ですよね! 松浦さんにハツの良さが伝わってよかったです!」
そしてあらかた食べ終わり火が落ち着いたところで、桜井さんが頭を抱えた。
「あー。明日は仕事ですよー」
それはすべての会社員が思ってることだろう。僕らは会社という組織に繋がれた生き物だ。どれだけ離れようがその事実は変わらない。強靱な意思を持ってない限り会社員は会社員であり続ける。
「また長い一週間が始まりますよー」
天国と地獄を行ったり来たり。けど多くの人がそんな生活を送っている。色んなものを誤魔化しながら何とか生きている。
子どもである時間より大人である時間のほうが長い。回る世界は僕らを待ってはくれない。だから必死についてかなきゃいけない。
「頑張るしかないですよねー」
そう、頑張るしかないのだ。それ以外に幸せになれる方法はない。
「一緒に頑張りましょう」
と僕は言った。
一人じゃない。辛いのは自分だけじゃない。そう思ってほしい。
人はひとりでも生きられる。むしろどっちかと言えばそういう生き方のほうが人間らしいとは言える。人はひとりで生まれてひとりで死んでいくのだから。
しかし、だからこそ、ひとりじゃない時間を大切にしてもいいんじゃないだろうか。
「はい! 一緒に頑張りましょう! 頑張れば楽しいことが待ってますもんね!」
「そうだね。あ、そうですね」
つい敬語を忘れてしまった。しまった、馴れ馴れしい奴だと思われてしまう。けど「敬語、使わなくていいですよ」と桜井さんは言った。
「松浦さんのほうが年上なんですから」
「でも」
相手にだけ敬語を使わせるなんて落ち着かない。
「じゃあ、桜井さんも、使わなくていいよ?」
ならお互いに敬語を止めたほうが絶対いいはずだ。
「うん。私も使わないようにします。あ、するね」
そのぎこちない感じが面白くて僕は小さく笑った。僕が笑うと桜井さんも笑ってくれた。店を出る頃にはもう敬語はなくなっていた。
夜風が頬を撫でた。風は少し冷たかった。空は濃い紺色だった。星はなかった。いやないわけじゃなく見えないだけだ。なくなったことなんてない。宇宙がある限り星はある。
駅までの道を歩く。空は暗いのに秋葉原はまだ明るい。空から見れば地上のほうが空に見えるだろう。昼間に比べれば人が少なくなったとはいえ、街はまだまだこれからという感じだった。
そして駅に着いた。着いてしまった。もっと一緒にいたい。でも今日はもう終わりだ。経験豊富な人間ならここで強引にでも彼女を引き留めるんだろうが、僕には無理だった。二人して改札を通った。焦るな。ここじゃない。ここでがっついたらただの猿だと思われる。彼女とはもちろんセックスをしたいけど、それは体が目当てとかじゃない。いや目当てではあるのだけどそれだけじゃない。言うなれば心目当てだ。その延長線上に体があるだけだ。でもそれを信じてもらうには真摯な行動をとるしかない。一緒にいられただけで満足じゃないか。これ以上何を望むんだ。調子に乗るな。自分を出したらすべてを失うぞ。
「私こっち」
桜井さんが水色の、一番線に続くエスカレーターを指して言った。一番線は京浜東北線、上野・大宮方面行き。僕とは反対方向だ。
今日が終わる。容赦なく終わる。
終わりたくない。終わらせたくない。
でも終わってしまう。
だったらせめて、
「ホームまで送るよ」
と僕は言った。
「ありがとう」と桜井さんが言った。
僕らはエスカレーターを上がって黄色い線の内側に立った。見ると線路にカードが落ちていた。けど何のカードなのかまではわからなかった。他のホームに電車が来る音や駅員のアナウンスが聞こえてくる。
「今日は本当に楽しかった」
と僕は言った。顔が熱かった。
「私もだよ。こんなに楽しかったの、初めてかも」
「また、遊びに行こう」
「うん。また行きたい」
電車がやってきて、僕らの正面で扉を開けた。桜井さんが乗り込む。閉まるまで少し間があった。だから何となく見つめ合う形になった。僕は彼女を網膜に焼き付けるように見つめた。彼女が笑った。僕も笑った。扉が閉まり、電車が動き出す。僕は彼女が見えなくなるまで目をそらさなかった。
電車が去った後のホームは何だか寂しかった。でもその寂しさがどこか心地よかった。