3 『横顔』
桜井萌絵。二十歳。身長は一六〇センチくらい。やや痩せ型。ぱっちりと開いた目。可愛い笑顔。声は少し低め。生まれも育ちも埼玉県。先月、埼玉県さいたま市の法人向けシステム開発メーカー『太陽システム株式会社』に入社。営業部に配属。好きな食べ物はパスタ。嫌いな食べ物はアボカド、セロリ、杏仁豆腐、グリーンピース、コーン、焼肉のある部位(結局どこかは聞きそびれた)。趣味はお菓子作り(先日作ったというアップルパイの写真を見せてもらった。それはそのまま店で出せそうなくらい美味しそうだった)とアニメを見ること(最近ハマってるのはスパイファミリー)。
今のところわかってるのはそれくらいだ。他のこと、例えば誕生日とか血液型とか今恋人はいるのかとか過去にどんな人と付き合ってたのかとか二十歳ということは短大を卒業したのかとか、はこれから少しずつわかってくるだろう。もちろん桜井さんにどんな過去があったとしてもこの想いは変わらないだろう。むしろ知れば知るほど好きになるだろう。人間生きてれば色々ある。そこをドンと受け入れることが器の大きさを示すことにつながるだろう。
あらためて、桜井さんに出会えたのは奇跡だと思う。いつも通りに生きてたら絶対出会わなかっただろう。タイミングが少しでもズレてたら話すことも目を合わせることもなく、いや存在にも気づかずその後の人生を歩んでただろう。そんな人生があったかもしれないと思うだけで身震いする。もうそんな人生は考えられない。桜井さんを好きになってしまった僕は好きじゃなかった僕には戻れない。戻りたくない。戻ってたまるか。
一週間前、僕は平日の昼間から東京ビッグサイトをうろついていた。会場にはコミケのときほどじゃないけどたくさん人がいて、まあまあ賑わっていた。東も西もぜんぶ使っていて、これってこんなに大きなイベントだったんだとお上りさんみたいにきょろきょろしながらコミケとは違った雰囲気のなかを進んでいった。コミケと違うのは人のほとんどがスーツを着ていたことだ。なぜなら今ここは趣味というより仕事の場だから。一年に一度の発表会だから。賑わいのなかに厳粛な空気もあった。自社の技術力をアピールする場としてはこれ以上のものはないだろうから。イベントは《テクノサミット》といった。毎年やってるらしいが行くのは初めてだった。これまでずっと会社に案内が来てた気がするけどスルーしていた。でも今年は特に理由はないけど参加してみた。会社に案内が来てもみんな行くわけじゃない。真面目な人は仕事があるから行かないし、不真面目な人は他社の新技術なんて興味がないから行かない。僕はそのどっちでもないから何となく申し込んだ。申請すれば出社扱いになるというのが決め手だったのかもしれない。コミケ以外で東京ビッグサイトに行くなんて初めてだった。だから新鮮だった。場所が同じでも人や展示が違えばまったく別の場所のように思える。会場が臭くないのがありがたかった。パンフレット片手に歩いていく。全国から色んな技術系の会社が出展してて、技術大国はまだ死んでないぜと言わんばかりにアピールをしていた。僕の仕事に関係ある会社はそんなに多くないけど、せっかくだからあれこれ見て行きたい。ゆっくり回れば一日潰せるだろう。僕は展示を見たり映像を見たり説明を聞いたり写真を撮ったり偉い人の講演を聞いたりして、なんやかんやで楽しんだ。そしてそんな多くの会社が立ち並ぶなか、太陽システム株式会社のブースに、桜井さんがいた。
何名かの社員が訪れた人に説明をしてるなかに彼女がいた。彼女は先輩だろう社員のそばで、手帳にペンを走らせていた。彼女は肩くらいまである黒い髪をゴムでまとめ、真剣な目つきで何がしかを得ようとしていた。誰もが彼女を見て、ああ新人さんが頑張ってるなと思うだろう。そして僕のように頑張れと心のなかでエールを送るだろう。それほど彼女はいじらしかった。心が惹かれた。僕は他の社員や展示物じゃなく彼女を見ながら人の波をかきわけていく。気づくと彼女の近くに立っていた。けど彼女はしばらく僕に気づかなかった。人の往来が多いのでこれくらいの距離は普通だった。僕は彼女の横顔を見つめた。一言でいえば一目惚れなんだろうし実際そうなのだけど、そんな言葉であのときの衝撃を処理したくない。運命を感じた? 雷に打たれたような? ビビッときた? 色んな表現を考えてみるけどどれもしっくり来ない。ひとまず一番近しいだろう表現を置いておくと《魂の片割れを見つけた》だ。彼女がたとえ男だったとしても僕は彼女を好きになってたのじゃないかとすら思う。彼女に男性器がついててもそれは些細なことだ。大事なのは心だ。かっこつけすぎとは思わない。それは素直な心情を吐露しただけなのだから。恥ずかしがる理由がない。本気なら堂々としてればいい。そして彼女が僕に気づいた。今にもキスできそうなくらい僕は近づいていた。僕は慌てて一歩下がった。
「こ、こんにちは。こちらは太陽システム株式会社です。弊社は主に工場の、あ、法人様向けのシステムを製作している会社でして、えっと、本日は、今年の秋からリリース予定の新システムをご覧いただけます。詳しいご説明は、あの、私は」
彼女は点滅するように言い、そばで説明をしてる男性を見上げた。それに気づいた彼は「あ、桜井さん、悪いけどお願いしてもいいかな?」と言った。
「でも、私、まだ」
「大丈夫、桜井さんならできるよ。今日ずっと見てきたじゃん。メモもしっかりとってる」
学生時代はラグビーをやってましたと言わんばかりにガタイがいい人だった。年は僕より上だろう。色黒の肌から白い歯が見えた。
「お客様、失礼しました。ご説明はこちらの桜井よりさせていただきます」と彼は僕に言った。なかなか忙しいようだった。周りを見てもみんな何かしらの対応をしていた。動けるのが彼女しかいなかった。だから僕たちはブースの隅で二人きりで話す機会を得られたのだ。少しでもブースを通るタイミングがズレてたら、こんな場は絶対に存在しなかっただろう。僕はそれを振り返って嬉しく思う。心から人生を祝福したくなる。
彼女と向き合う。何だかこの状況がおかしくて僕はつい「大変ですね」と小さく笑った。メモをちらちら見ていた彼女は一瞬どう答えるべきか悩んだような間を作りつつも「そうですね」と同じように笑ってくれた。
「新人さんですか?」
「はい。でも精一杯ご説明させていただきますので」
「そんなに気負わなくていいですよ。実を言うとそんなに興味があって来たわけじゃないんです」
「そう、なんですか」
「だから」
説明はいいです。じゃあ僕はこれで。頑張ってください。という選択肢もあったんだろうが僕はそれを選ばなかった。
「どうなっても大丈夫なので、よかったら」
いいはず。この選択肢で。
「僕を説明の練習台にしてください」
彼女は驚いたような顔をしたが引いてるという感じではなさそうだった。想定外だったんだろう。言った僕も想定外だったんだから言われたほうは尚更だろう。彼女がまた先輩のほうを見るも、彼はまだ対応中だった。
「いいんですか?」
「いいですよ。時間はありますから」
「じゃあ、すみません、お言葉に甘えて」
彼女が笑った。それは素に近い笑いのように見えた。
説明が始まった。それはもちろんたどたどしかった。話すこと自体は苦じゃなさそうだがビジネスシーンに不慣れといった印象だった。それは誰しもが通る道だ。僕は自分が新人だった頃を思い出しながら彼女の説明にしっかり聞いてますよ、大丈夫、ゆっくりで構いませんよ、というようにうなずいたりオウム返しをしたり簡単そうな質問を投げたりした。人でごった返す会場のなかで二人きりになれたような気持ちになった。実際このときの僕はもう彼女しか見えてなかった。他の人間はすべて背景と同じ線で描写されていた。
「今のご説明でお客様に伝わるでしょうか」
「伝わると思いますよ。つまり工場のラインをクラウド化して管理するってことですよね?」
「はい! そういうことです!」
専門外なのでよくわからないが、話を聞いてそうだと理解した。つまりこれでいいのだ。言ったことが相手に伝わればコミュニケーションは成功だ。彼女が何か掴んだらしいのを見て僕も嬉しくなった。人の役に立つという生きていく上で最も大切なことをはからずも達成できた。
その後も彼女は色々と説明をしてくれた。最初は緊張が顔に出てた彼女にだんだん笑顔が増えてきた。人が成長していくのをこんなにも近くで見れるなんて僕のほうが笑顔になってしまう。
けど終わりはやってくる。すべてを説明し終えると僕らを繋ぎとめるものは何もなかった。
「お忙しいのにお付き合いいただいて、ありがとうございました」
「お力になれてよかったです。とてもよくなりましたよ。もう一人前ですね」
「そんな、私なんか全然です。まだわからないことのほうが多いです」
彼女は手を振ったが、
「でも、いつかなりたいです。一人前に」
と言った。
「なれますよ、えっと」僕は彼女の名前を言おうとしたが、ちゃんと自己紹介はされてなかった気がした。それに気づいたのか、
「あ、失礼しました。私、桜井と申します。よかったら名刺を」
彼女はスーツの内ポケットから銀色のケースを出すと、いかにもマナー講座で教わりましたというように両手で名刺を渡してきた。綺麗な名刺だった。刷ったばかりなんだろう、その白さが眩しかった。
「ご丁寧にありがとうございます」
僕は名刺に書かれた情報をインプットする。太陽システム株式会社、営業部、桜井萌絵、会社の住所、電話番号、メールアドレス。僕も名刺を渡した。デスクワークだから基本的に使わないけど何となく持っててよかった。
「松浦と申します」
名刺を受け取ると彼女は嬉しそうにした。
「社外の方と名刺を交換したの初めてです」
僕は名刺に感謝した。
じゃあ僕はこれで。頑張ってください。という選択肢がまたここにもあったと思う。というかそれが自然だ。別に交換したはいいもののこんなところで交換した名刺なんて一生使わないだろう。机の引き出しに仕舞われ、いつか捨てられるだろう。お互いにそうなる。
それがわかってたから僕は自分に素直になった。
「あの、よかったら」
つっかえるな。さも当然のように振る舞え。
「ライン交換しませんか?」
賭けだった。何言ってんだこいつ気持ち悪い、先輩この人ライン訊いてきたんですけど、何勘違いしてるんですかね、ちょっと警察呼んでください、こんな奴死刑にしてください、こんな奴生きてちゃいけないでしょう。そう言われるのを覚悟して僕は彼女の目をまっすぐ見た。
「桜井さんと話してて、すごい楽しかったです。できれば、もっと話したいです」
殺してくれと思った。踏み込みすぎだ。下等生物のくせに調子に乗ってしまった。ゴミの分際で人並みの幸せを求めてしまった。夢を見てしまった。愚かにも。身のほど知らず。勘違い野郎。一生一人で生きてろ。お前にはそれがお似合いだ。お前と一緒にいてくれる人なんてこの世にいない。お前は誰からも選ばれない。必要とされない。むしろこの世にいないほうがマシだ。いるだけで迷惑だ。害虫と同じレベルの存在がお前だ。ちょっと話せたからって仲良くなれると思うなんてああ気持ち悪い。何を考えてるんだ。それは性欲? 目の前の雌に欲情してるだけ? 誰でもいいんだろ? ほら今そこを通った人だって可愛いだろ? 好きなタイプだろ? 別に桜井さんじゃなくていいんだろ? 色んな言葉で塗り固めたってお前はただ性欲を処理できればいいだけだろ? 家に帰ってシコってろ。お前の身勝手な欲望に相手を巻き込むな。下劣だ。自分勝手だ。ガキだ。女のことしか頭にない異常者が。何を普通の人間の振りをしてるんだ。本当は誰よりもねじくれてるくせに。それでもまだおこがましくも他人を自分の人生の登場人物にしようとしてるのか? 女性をアクセサリーだとでも思ってるのか? 彼女が不細工だったら声をかけなかったんじゃないのか? 結局お前は何だかんだ言っても人を顔で判断するボケナスってことだよ。一人で舞い上がって何かを起こそうとしてる迷惑な猿だよお前は。まともに恋愛できなかった雑魚だよ。雑魚が一丁前に泳ごうとして溺れてるだけだよ。高望みして勝手に自爆してるだけだよ。
「このままお別れするのは、寂しいです」
ああ駄目だ、終わった。何が寂しいだ。そんな寂しさと付き合っていくのが人生だろう。これは僕が強い人間じゃないことを吐露したに等しい。弱いことが伝わってしまった。弱い男は死ぬしかない。無視されて存在をなかったことにされるしかない。消極的に死を願われるしかない。嫌だけどそれがこの世界のルールだ。いくらハリボテの城を築こうとちょっと風が吹いただけで飛ばされてボロが露わになってしまう。こんな家に住みたい人がいるわけがない。僕のみじめな人生に付き合ってくれる人なんているわけがない。だから、
だから? だから何だ? 僕は何がしたいんだ? もうわからない。そして目の前が真っ暗になりかけたとき、
「はい! 私も松浦さんとお話ししてて楽しかったです! 交換しましょう!」
何でもないことのように桜井さんが言った。
携帯を取り出しQRコードを見せてきた。それに釣られるように僕も携帯を出した。けど頭のなかでは、え、いいのか、いけるのか、大丈夫なのか、嫌われてないのか、本当に? 断りづらいからとりあえず交換だけして後でブロックする気だろうか、それとも何かの罠か? と言葉が乱反射していた。今は誰もこっちを見ていない。みんな忙しそうだ。交換するなら今しかない。別に悪いことをしてるわけじゃないのに冷や汗が垂れた。
ラインを交換した。彼女の名前は『もえっち』だった。ニックネームだろうか。友達からはそう呼ばれてるんだろうか。僕も呼びたいけどニックネームで呼ぶようになったらきっと友達止まりだ。それもまた選択肢だ。よさそうに見えて実はよくないというやつだ。
「じゃあ、そろそろ」
「はい。今日は本当にありがとうございました!」
「僕のほうこそ、ありがとうございました」
「終わったら連絡しますね!」
僕はブースを後にし、人ごみをかき分けながら、自分はとんでもないことをしたのだとその重大さを認識していった。
会場を出る。日が少し落ちかけていた。東京の空が、海が、ビルが、ぼんやりとゆらめいていた。
帰りの電車のなかでこれからどうするべきかを考える。最寄り駅に着く頃にはテクノサミットの終了時間を過ぎていた。桜井さんは終わったら連絡すると言っていた。つまりあっちからメッセージが来るということだ。それを僕から送ったら距離感を間違えた痛い奴になる気がする。ほんの少しも待てない余裕のない奴と思われることになる。初手でそう思われるのは悪手でしかない。人間関係は第一印象が大事だ。最初のつまずきがそのまま致命傷になりうる。だから待て。他のことでもして気を紛らわせろ。そのうち来るだろうと思え。けどそう思っても携帯を見るのを止められない。目を離した隙に来るんじゃないかと思う。
僕はイメージした。あの会場の熱気を、人々を。そして彼女を。
イベントが終わっても社員は片付けをしなきゃいけないだろう。特に桜井さんは新人だからいっぱい動かなきゃいけないだろう。色んなものを運んだり拭いたり収めたりするには時間がかかるはずだ。一時間、いやあの規模なら二時間は必要か。だから今片付け中だろう。筋は通っている。
イメージを次の段階へ進める。
ああいうイベントの後は絶対打ち上げをやるだろう。新人なら参加は必須だ。必須と言われてなくても参加しなきゃいけない空気が社会にはある。彼女はそんな空気を切り裂いて直帰する人間ではない気がする。
東京ビッグサイト周辺はあまり飲む店はないから埼玉方面に戻ってから飲むだろう。僕は彼女があのガタイのいい先輩の隣に座ってお酌するところを想像した。それは気持ちいい光景じゃなかったが、社会じゃ避けては通れないシーンだ。でもあの人はセクハラなんてしなそうな雰囲気がある。むしろセクハラから彼女を守ってくれそうな気がする。
飲み会が二時間くらいで終わればいいが、大きなイベントの後だから二次会でカラオケなんかに行くことも考えられる。新人の女の子なんてみんなの前で歌わされないわけがない。でも会社の人と行くカラオケなんてあまり盛り上がらず一時間くらいでお開きになるはずだ。
そして解散し、家に帰って落ち着いたとき初めて、そうだ、あいつに連絡してやるかという気持ちになるはずだ。だから十時くらいに連絡が来るだろうと予想できる。つまりそれまで思い悩むのはエネルギーの無駄ということになる。
別にまだ彼女に嫌われたわけじゃない。彼女にも彼女なりの人生がある。そこを捻じ曲げてほしいなんて死んでも口にしない。それはただのアホだ。カスのやることだ。人を自分の思い通りにしようとするな。それは魂に対する侮辱だ。それは下手をすると殺人より重い罪になるだろう。僕はそんな軽蔑される人間にだけはなりたくない。僕は今度こそ失敗しない。
僕は待った。待ち続けた。必死に自分を抑え続けた。静かな部屋で一人、呻き、転がり、座り、立ち、ため息を吐き、永遠のような時間を過ごした。そして予想通り十時を十分ほど過ぎた頃、
『今日はありがとうございました! 松浦さんのおかげであの後緊張しないで説明できました!』
とメッセージが届いた。その瞬間僕は嬉しさのあまり弾けた。
それからもやりとりは続き、僕らは少しずつ色んな話をするようになった。今はまだ順調、なはずだ。
光はまだ見えない。暗闇の荒野を彷徨っている。僕の辿り着く先は死かもしれない。
でも歩みを止めない。
歩みを止めても、どの道待ってるのは死なのだから。