最近のこと。
なんか持って来て「どっちがいい?」て聞かれたら「俺が損しない方」て言って両方奪って相手が取り戻そうと必死になる方絶対に取る。
それはそうと、描くことに関してデフォルメの仕方を身に付けない場合、まずもって人間など描けたものではなくなる、人間は人間を物体としては見ないのだ。
「ポーズ」や「大きさ」や「位置」について、物体に関して人物ほど意味を持つことはない。
動物は相手の体つきを見て脅威かどうかを判断し、また体勢から現在の意思を互いに読み取る。
その意味での体型や意思の現れが強調されていたり、細かく描写されていて初めて「表現」と呼ばれている。
その何たるかは見て取って後から言葉になる、言葉は随分遅れるし不自由なものだ。だが、主に視覚の感性は瞬時に捉えている。
単に感覚刺激情報であるものと、内面的に起こってくるその「情報」への反応であり受け止めであり解釈であるもの。
描かれたものには多重の情報がある。
ある絵の「意味」は多重だ。
感覚刺激情報は感覚系に与えるストレスの大きさ神経の反応の大きさが「意識されやすさ」となる。この段階の情報は生理的な影響を与え、赤い部屋は青い部屋より時間が濃密に感じられ、黒い物は白い物の倍の重量感を与えるなどする。
またその情報が人間の精神固有の反応性に合致した相を描く時、無意識的な意味が受け止められる。唇の形や逆三角形に並んだ丸の形等、脳の反応しやすい特定の単純図形だけでも百以上はその無意識的意味の種子があるという。深層心理への影響。
脳の構造を前提にした表現技術知識は昔の画家や芸術理論には無い。
そして、歴史的に積み重なった知識体系、文化的遺産としての「物事の象徴付け」が個々の物事について回りそこからがラスコーやアルタミラの壁画の意味の解読などに用いられる。
描く方もそれをまず描く意味として考慮する。
この層では感情、心理が相手になる。
そこから更に「物事の意味を、芸術の技法を複雑に言葉のように組み立てて」となるともう記号を読んでいるだけのものである。相手にしているのははっきりとした思考や意識だ。
音楽においても音の高音や低音が、物音であるか人の声に聞こえるのかの質の違いが、また旋律の「情動と感情のパターンを模倣するもの」としての意味が、類似の多層性を構築するだろう。
我々は声の抑揚としてフレーズの原型を体得するし、その類型については言葉の意味抜きでも伝わる。
美しい音楽は類型として描かれた物語の内面的な変化の過程を追体験するに等しい、そのようにしてあるものを文章である物語の流れ、主線に適用するのが小説家が破綻なく美しく物語を書くやり方でもある。
ディズニーアニメのものの動きは一度始まると死なずに緩急だけあってずっと続くが、あの滑らかさと情緒の優雅さがあってしか描けない感動的なものがある。
A.Iのティンカーベルに会ってからの部分はディズニー
。
日本人が必ずやらかす思春期の小僧小娘みたいな近視眼的目敏さを持った下世話が入り込まない。
情緒の優雅さを保つのが日本人は本当にヘタでな、下世話なものの沈黙を侍や忍者が睨み合うような「緊迫」としてしか知らない。
ツタヤのDVDの宣伝の部分見たらえげつなかった、外国映画は全部大人向けなのに日本のは全部安っぽく笑い取りに行ってるか、NHKの社会物テレビドラマみたいな映画。国民としては「もうやめてくれ」と感じる魔法のようなコマーシャル時間。
空気空気言う割に「雰囲気」に関してすぐさま下世話になるのは、細かで要らん幼児的な「気付き」をすぐ俎上に上げて「ツッコミ」のネタにしてしまう粗忽さからだ。浅知恵である。
「待って、待って、でも、さっきお兄さんとお姉さん「もう二度と会わない」って言ってたよね!でもあの売店のおじさんに「よう!お久しぶり!あんたら半年前にこの海岸でギャング相手に大活躍してたよな、俺はずっと感謝してる、なんせここは俺の故郷だから。長い旅をしてあちこち行ってみたけど、俺にはここが一番だ、既に手に入れてたものが最高でも人はどこかで落としてしまい、その間違いに簡単に気付けない。ところでお二人さん、あの後砂の中にコイツがあったけど、あんたらのじゃないかな?」て言われて差し出されたそれを見て同時に何かに気付いて、その後何かに気付いたような顔して抱き合い始めたけど、なんでそんなに急に感情が切り替わるの?早くない?早くない?なんで!?なんで!?」という感じのな。
駅のホームやエスカレーターで自動のアナウンスにしつこく世話を焼かれるからか?
高校生にもなって友達と歩いてる時に母親が偶然通り掛かって「あっ、〜ちゃん、あんた今朝ハンカチ忘れてったでしょ、もう、いつも言ってるのに。ほら、お母さんの一枚あげるから持って行きなさい、ほらっ。…あらいやだ靴下ズレてるわよ直しなさいだらしないわねえもうお友達と一緒なのにホントにまあはずかしい。〜ちゃん、〜ちゃん、お母さんによろしくねさっき百貨店で一緒だったけど、オホホホホホホホホホホ!」と来る母親みたいな態度の奴にずっと取り囲まれてて常にムードもヘッタクレもないからか?
こんな場面で自分を発見すると同時に襟やら靴下やらの角度やシワを目敏く指摘して「幼児のように世話を焼かれる子供」というイメージをカラーボールを投げ付けて蛍光色のペンキをぶちまけるみたいに自分に塗りたくって来る母親には殺意を覚えるだろう。
この情緒がずっとある。
常態がずっと続くしょうもない下世話で、どうにもならない怒りが遂に戦闘状態を招いてやっとそれが止む。現実にそういう情緒でしか生きてない。
消費傾向として日本人は大麻より覚醒剤を欲しがるんだと。根源的な所で殺し合いの時間以外はヘラヘラして過ごすチンピラみたいな精神構造らしい、「自分より下」にしか攻撃の方向がなく困ってる人間を見ると全てお笑い種と捉えるのも納得。
日常の対人関係の過度の気安さから誰を見てもそういう行動を取る。
センスいいゲームやってるとホントそういう下世話さツッコミの多さが物語の中とかに見当たらない、世界観が崩れないのはそのお陰だ。
人間の真実みたいなもの描いての感動は雰囲気が保たれない演出からは得られないし、すぐさま「酔ってる」等と言って下世話に引きずり下げようとする人間には心理面での人生の俯瞰もない。
細かい指摘の目敏さで売ってる掲示板の書き込みみたいなものばっかりにハマると絶対に情緒が成長しない下衆さしか残らん。
A.Iの後半のディズニーになってる部分全体の動きの滑らかさやものを過剰に細かく語らない感じ。SFで本当に重要な部分を語る時には既存の科学知識も沈黙せねばならんし、言葉は最小限度に削る必要がある。
要らん言及を排除して読者の心の内側で進行させられないなら、それまでの描写はその場面に向かって何も準備出来ていない、書かなくても既にあるもののお陰で読者の中で生きるように仕向けた上でないと最重要の部分の伝達には失敗している。
小説書いたにしても挿し絵も描けねばならんが、なんかあるな、「すぐさまイラストが上達する方法」。
だがインチキだ。
よく例としてこんな下手でもあっという間にこんなに、とか並べてビフォアフってあるが大抵「下手」な時点で素人特有の描画内容の構図範囲の締りの無さと、勢いと角度のある表情の付け方が混在している。
マンガ的な意味でイラストを上手く見せる根の部分の感性や何かしらの積み重ねが既にしっかりとある。
こういう奴は「どこに何を配置すればいいか」を覚えるだけで後は自動操縦で手が勝手に上達するので速い。
何の手品かと思えば単に才能。
本当に才能ないって言うのはな、自分にとって前例の無い絵を一枚描こうとするたんびに頭を使って設計した上でその大きさや角度でものを描けず試行錯誤を繰り返して何度も微調整してやっと一枚描き、それも昨日苦労して明らかに「何かを掴んだ」感覚がしてやれた事が次の日にはやれなくなっている。
無意識の学習成果がゼロなんだよ。
その係数が極端にデカイ奴だけだ「やり方を考え出せば」簡単に上達するのは。
無意識が勝手に進歩して「掴んだ」状態を実際に手に入れるのに、何を掴んだのかを細かに観察せねばならん、自動操縦がすぐに切れるから。
注意力の向き方の変化、気分や感覚の変化、全て内的な感覚だ。
そういうもの捉える別なタイプの知能の発達は教育が全くサポートしてないから自力でしかない。
誰かが教えてくれる事も絶対に無いしなそもそもそういう発想がないから。




